松戸の周辺の歴史 ホーム
●歴史を伝える野馬除土手 坂東武者にとって、馬は敵を倒すための強力な武器となっていました。
これらの馬は、このあたりで捕った馬を軍馬としたのでしょう。
●小金中野牧 江戸幕府直轄の「小金牧」と、呼ばれた牧(馬の放牧場)があり、たくさんの野馬が、走りまわっていたそうです。
しかし、村人にとっては馬が牧から飛び出して、田畑の作物を荒さないようにする必要がありました。
そこで牧から馬が、飛び出さないように、周囲に堀や土手を築きました。
野馬除土手(のまよけどて)とは、一般に野馬堀(のまぼり)・野馬土手(のまどて)のことをいいますが、今も各所に、残っている野馬土手には、現在は、その上に草木が茂っていますが、
土手が二重構造になっており、長い年月をかけて築いた、村人の苦労がしのばれます。
●御立場跡・陣屋跡 松戸市域は、江戸時代の広大な小金牧の中心地・中野牧にあたります。
野馬管理面でも重要な役割を果し、金ヶ作には馬匹改良の陣屋が置かれ、本土寺周辺には、小金牧佐倉牧の野馬奉行所が設けられました。
●牧では鹿狩りや鷹狩りも将軍は「御立場」から上覧 こうした中野牧は野馬捕りの他、将軍の鹿狩りや水戸家の鷹狩りの場にも供されました。
中野牧は小金5牧の中心地。常盤平に馬匹改良役所が。
●松戸 中野牧は、現在の常盤平団地・五香・六実を中心に、松飛台・初富(鎌ケ谷市)・高塚新田に及んだそうです。
特に幕府は中野牧・下野牧産の馬を重視して「金ヶ作役所」(陣屋)を設け、馬匹(ばひつ)改良を促進した。
この陣屋が常盤平さくら通りの八柱入口付近にあったので辺りを「陣屋前(じんやまえ)」と呼んだそうです。
常盤平の前身「金ヶ作(かねがさく)」は江戸時代以降の村名です。
作は柵や土手を意味し、御囲場(おかこいば)とも呼ばれて周囲を、野馬除土手が囲んでいたといいます。
その名残が常盤平6丁目にあります。
「野馬捕り」は毎年1回実施し、捕獲した野馬には焼印をおし、軍馬・農耕馬・病気の馬・放牧継続の馬に選別しました。野馬捕りは20日間ほどかかり、勢子たちへの手当は1日米7合〜1升だったそうです。
また遠来の見物人で松戸宿が満員になったといいます。
●千葉氏家紋を地名にした三ヶ月・二ッ木から林姓が生まれた? 野馬奉行所は奉行・綿貫夏右衛門(世襲)の邸宅で、現在は北小金駅前に末裔の綿貫正治邸があります。
幸谷観音の「野馬捕り絵馬」は市文化財ですが明治時代に同家が奉納したそうです。 江戸時代の、小金町には水戸家の本陣(小金御殿)が置かれ、江戸への往復や「鷹狩(たかがり)」の宿舎に使用していました。
本陣裏には、「御鷹場(おたかば)役所」を設けて鷹匠の育成や鷹の飼育管理、鷹狩りの準備をさせたといいます。
将軍家の「御鹿狩(おししかり)」は吉宗2回、家斉1回、家慶1回の計4回実施されました。
鹿狩りは3日3晩にわたり、御狩場には旗本など武士2万人、武蔵、常陸、上総、下総の国々から中野牧まで獲物を追い込む百姓勢子10万人が動員されたといいます。
●野馬も子和清水でノドを潤す狩り場往復に使った御成道 松飛台にある「御立場(おたつば)」は将軍が鹿狩りを見物した上覧所跡で、
高さ10mの塚の頂きに15m四方の桧づくりのご座所が設けられたといいます。
牧の中には御囲(おかこい)、突柵(くぐりませ)、駒形、野見塚などの字名があります。
五香十字路付近の立体交点は、昔は小金名主五助が支配した、木戸跡で「五助木戸」と呼ばれていました。
昔も交通の要衝で、鮮魚(なま)街道も木戸を通過したそうです。
常盤平団地入口の「子和清水(こわしみず)」には、親が飲めば古酒(うまざけ)だが子が飲めばただの清水という養老伝説に似た話があるが、この湧水は鮮魚街道の水切場や野馬の水呑場でもあったそうです。
御鹿狩の将軍も小休止所のあった「陣ヶ前(じんがまえ)」を経由してこの街道を往復したそうです。
野菊野団地東側の細い一方通行が「御成道(おなりみち)」で、江戸城を午前1時に出発して松戸には同6時、御狩場には同8時頃到着したといいます。
「松飛台(まつひだい)」は旧松戸飛行場の名称を残し、「元山(もとやま)」はくぬぎ山同様に小金牧特産物の木炭の植林地域であったそうです。
「常盤平(ときわだいら)」「牧の原」「野菊野」は団地名公募で地名になりました。
●松戸とは 松戸の古代名は「馬津郷(うまつのさと)」であったそうです。
その後、マツサト、マツトと転じてマツドとなりましたが、現在の「松」は当字だそうです。
それは馬が多く配置された宿駅であったこと、松の木の多い里であったことに因むそうです。
地形的には、松戸は太日川(現在の江戸川)の砂州上にあって渡船場に好都合であり、国府と結ぶ官道の接合地点でもあったなど、古代から下総国の交通の要衝でありました。
それだけに多くの歴史が刻まれています。
●松戸のお城 松戸市周辺には、本城・支城・出城など中世の城郭跡が48ヵ所もあり、ゴロ合わせで「いろは城」と呼ばれています。
そうした城の代表が大谷口の小金城址である。平成9年には、西側遺構の畝堀や障子堀、土塁などが復元されて大谷口歴史公園になった。
本丸跡は公園から徒歩10分ほどの坂上に石碑があるが、南北六百m、東西八百mの城域は、県内最大規模の中世城郭であります。
●金杉口跡 「大谷口(おおやぐち)」は城の南側にあった谷頭の出入口のことで、それがそのまま地名になりました。
ここは金杉口と呼ばれる小金城の虎口(出入口)の一つです。
小金城には大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の四つの虎口があったと、されています。
西側の低地から城内へ入ると正面と南側は高い急斜面にあたり、北へ進むことになります。
ここには、三段(推定)の階段を持ち、最上段には門柱を立てたと思われる土壇(砂を突き固めた、径約六十センチ〜一メートル、高さ約十センチが四ヶ所見つかりましたが、その構造までは解りません。
奥に広がる広場は斜面部に土を盛って人工的に造った広場です。
さらに奥に進むと空堀があります。堀の外側を進んで行き、大勝院の裏手から城内へ入ったものと推定されています。
中世城郭の特徴は、自然地形を巧みに利用していることにありますが、金杉口では、さらに自然の斜面を削って急傾斜とし、その下部に幅四メートル以上、深さ約ニ.五メートルの空堀が、造られています。

金杉口跡
●矢切北総線矢切駅を背に右手に上って行くと矢切の渡しの案内があり、そこを左折すると、矢喰村庚申塚だ。
450年程前、国府台合戦の戦場となり、戦いの道具である弓矢を呪うあまり、「矢切」「矢切れ」「矢喰い」などの名前が生まれたという。
安らぎと平和を祈念する庚申仏や地蔵尊はどこか素朴である。
庚申塚を左に見ながら坂を下ると正面に火の見櫓が見える。そこにある西連寺の一角に「野菊の墓」の文学碑がある。
そこに、「野菊の墓」の一節を記した案内板がある。
そこからさらに道を下ると矢切の渡しに続く「野菊のこみち」となる。
石畳が敷いてあるので迷うことは無い様だ。
しかし、矢切の渡し側から野菊の墓の文学碑に向かって整備されているので注意する必要がある。
「矢切の渡し」の渡し場には「細川たかし識(しるす)」と刻まれた石碑があり、昭和58年にヒットした「矢切の渡し」である。
渡し場を背に、江戸川の土手を右に進むと、北総線の高架橋があり、その高架橋に沿って左に下り、坂川沿いの道を5分ほど歩くと、「柳原水閘」が見えてくる。
レンガを組み上げた四連アーチ構造の柳原水閘は、治水のため明治37年に完成した。
そのご、平成7年に松戸市指定文化財となり、平成19年には経済産業省によって近代化産業遺産に認定されました。
現在は、水鳥たちが羽を休ませる格好の場所となっています。
柳原水閘から矢切橋に至る坂川の沿道には「四季の道」として、ボランティアによって樹木の植樹や、花壇が作られ、四季折々の花や緑が楽しめる道です。
●矢切の渡し・野菊の墓文学碑
江戸時代の初期に、江戸川の両側に田を持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したことから、この「矢切の渡し」が始まりました。
江戸川唯一の渡しであり、江戸川の下流に近い下矢切にある渡し場で、古くは市川方面や東京の柴又とを結ぶ重要な交通機関であった。
現在も対岸の柴又帝釈天とを結ぶ渡し舟が出ていて、江戸川堤と柴又帝釈天を結んだハイキングを楽しむ人で賑わう。
また,周辺は近年歌謡曲や映画“フーテンの寅”で脚光を浴びている。
江戸川の水が春とともに暖かさを増す時期になると、船頭さんの手漕ぎの舟が、およそ150mの江戸川を毎日往復してくれます。
矢切と対岸の柴又を結ぶ情緒たっぷりの木製の渡し舟は、訪れる人々の気持ちをのどかにさせてくれます。
川面を渡る手漕ぎの舟や、ヒバリ、ユリカモメの声などは、この度柴又帝釈天とペアで”残したい日本の音風景100選”に選ばれました。
また、ヒットをした同名の歌謡曲の舞台でもあります。
矢切の渡しの東方約1.5km(渡し場から歩いて20分程のところ)の小高い丘にある西蓮寺周辺が、伊藤左千夫の名作『野菊の墓』で知られる所で小説の舞台といわれ、境内に門人土屋文明氏によって建てられた文学碑があります。
「野菊の墓」で政夫と民子の悲しい恋の舞台にもなりました。
また、隣接している野菊苑展望台からの見晴らしは素晴らしく、矢切耕地、江戸川の流れ、遠方には東京の街並みが見渡せます。
歌謡曲
矢切の渡しは、昭和末期に作詞:石本美由起、作曲:船村徹の歌謡曲『矢切の渡し』の大ヒットによって再び脚光を浴びた。
1976年10月にちあきなおみがシングル『酒場川』のB面曲として発売。
1982年10月21日に『矢切の渡し』をA面にしたちあき盤が発売(B面は『別れの一本杉』)。
1983年に細川たかし、瀬川瑛子、春日八郎 & 藤野とし恵、島倉千代子 & 船村徹など、7種のシングルによる競作で発売された。
なお、細川盤の発売にあたって細川の所属する日本コロムビアはちあき盤(1976年当時日本コロムビアに所属、1983年当時はビクターに移籍していた)を生産中止にしている。
歌詞
「つれて逃げてよ…」
「ついておいでよ…」
夕ぐれの雨が降る 矢切りの渡し
親のこころに そむいてまでも
恋に生きたい 二人です
「見すてないでね…」
「捨てはしないよ…」
北風が泣いて吹く 矢切りの渡し
噂かなしい 柴又すてて
舟にまかせる さだめです
「どこへ行くのよ…」
「知らぬ土地だよ…」
揺れながら 艪が咽ぶ 矢切りの渡し
息を殺して 身を寄せながら
明日へ漕ぎだす 別れです
●堀(障子堀)
この空堀は、虎口から約二十メートル程の地点から掘られており、途中一ヶ所に高さニメートルの間仕切り(障子)が造られて堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっています。
このような構造のものを「障子堀」と呼んでいます。また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため底、壁共に砂質で、非常に水捌けはよくなっています。
●土塁
土塁とは、土を掘り下げて造った土手状の防御施設のことで、通常は堀を掘った土を盛り上げて造ります。
金杉口では西側から北側にかけてL字状に見られます。
その構造は、城の内側を約五十センチ掘り下げ、台地の縁辺部に土塁の底になる部分を幅約三メートルの帯状に残します。
その上に粘土を盛り上げて高さ約一.五メートルの土塁としています。
土塁としては低く見えますが、外側の空堀の構造から見て、敵の侵入を防ぐと云うよりも、自分の身を隠す程度の機能であったろうと思われます。
小金城では、他に粘土や赤土(関東ローム)をそれぞれ約十センチ位の厚さで突き固め、それを交互に高さニメートル以上に積み上げた土塁も確認されています。

土塁
●堀(畝堀)
ここで発見された堀は幅七メートル、深さ約三メートル(現地表面から)と規模では普通です。
しかし、堀底に断面が、蒲鉾形の畝(高さ約九十センチ)が、堀の方向と直行する向きに連続して造られた、全国的にも、非常に珍しい、構造をしています。この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動がしずらくなり、その敵を狙い討てることだと云われています。特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、非常に滑りやすく、効果的となっています。
掘底に加工を施した掘は、関東地方では小田原北条氏の軍事的勢力下にあった城に多く見られるところから、小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が、古文書だけでなく、城の施設からも伺うことができそうです。
小金城の規模は南北約六百メートル、東西約八百メートルに及ぶ県下最大級の中世城郭です。下総台地西端の複雑な地形(高低差が約十五メートル)を利用し、さらに大規模な土木工事を施すことによって高さニ〜三メートルの土塁、深さ十メートル前後の空掘を縦横にめぐらせ、台地上を比定し本城、中城、馬場など九〜十の曲輪を連続させる構造となっています。
●高城氏
小金城主の高城氏は千葉氏の一族、または千葉氏から分かれた原氏の一族といわれ、松戸での活動は十五世紀中ごろに栗ヶ沢に砦を築いたのに始まり、その後勢力を増すごとに根木内城、小金城と本拠地を移してきたといわれています。戦国時代の末には小金城を拠点として現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子などを支配し、東葛飾地方最大、下総国有数の領主、武将となりました。
天文七年(1538)小弓公方足利義明が国府台で北条に敗れたのちは北条氏に従うようになりました。
天文十八年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、小金城も同城と運命を共にすることとなり、北条氏滅亡後は徳川家康の所領となりました。
小金城主・高城氏は、中世の下総国一帯を支配した千葉氏の家臣で、東葛地域を治めた。勢力拡大とともに栗ヶ沢城から根木内城、小金城へと地の利の良い場所へ移動して、小金地区はまさに中世の豪族高城氏の発祥の地になった。
小金地区二ッ木台には、鎌倉時代末期から千葉頼胤(よりたね)の城館があった。蘇羽鷹(そばたか)神社はその千葉氏の守護神で、周辺地名の「上ノ台(うえのだい)」「作台(さくだい)」などは城館の存在を示した名残である。「三ヶ月(みこぜ)」は千葉氏の家紋月星の三日月を地名にした。
「二ッ木(ふたつぎ)」の地名には、高城氏の家臣林氏が定着し姓を分解したとか、元々あった二木の地名から林姓が生まれたという二つの説があります。
●栗原下本郷と区別した上本郷・南花島も埼玉県幸手町と区別
「上本郷(かみほんごう)」にある市内最古の神社・風早(かざはや)神社は千葉常胤(つねたね)の孫・風早四郎胤康(たねやす)の居館址であった。
本郷はそれぞれの郷の中心地を意味し、風早郷近隣では栗原郷(船橋市内)に本郷地名があった。このため江戸初期の検地で上本郷、下本郷と区別され、その後下本郷は栗原本郷と呼ばれ、上本郷だけがそのまま残った。
同様に「南花島(みなみはなしま)」は、地形的に下総台地を背にした島に見えたことからそれを美しく表現した地名になった。頭に南が付いたのは、埼玉県幸手町の花島に比べて松戸の方が南にあったからである。
「上矢切(かみやぎり)・中(なか)矢切・下(しも)矢切」も江戸時代の検地で区別されている。
地形の谷切れから転じた地名であるが、全域が天領や旗本領になっていた。
●相模台は北条相模守の居城跡・陣屋の南にあった陣ヶ前
松戸駅近くの戸定台(とじょうだい)も中世の城址だがまた小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(よしあきら)の陣構え跡、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡、将軍鹿狩りの小休止所跡ともいわれる。
国道6号松戸トンネルの柏側周辺を「陣ヶ前(じんがまえ)」というのは、この陣屋を指す。
「相模台(さがみだい)」はかつて陸軍工兵学校跡で中央公園には赤レンガの門柱や衛士の詰所が残っている。
この地名は、鎌倉時代に北条相模守長時(ながとき)が岩瀬坂に築城して住んだことから呼ばれるようになった。
この相模台は第1次国府台合戦の激戦地であり、小田原北条氏綱(うじつな)と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。第2次国府台合戦は26年後、矢切大坂を中心に氏綱の子・氏康(うじやす)と義堯の子・義弘(よしひろ)が激戦を展開した。
●根本・中根
「根本(ねもと)・中根(なかね)」は、弘法大師が1本の木から3個の薬師如来像を作った際、根本に近い部分を吉祥寺本尊、中間を東照院(現中根寺)本尊、末を印西市の寺の本尊に、したことから、それぞれ根本村、中根村、浦部村と呼ばれたという。
《参考資料》
崙書房刊「東葛観光歴史辞典」山本鉱太郎「旧水戸街道繁盛記」坂本伴治編「松戸の地名の由来」横塚和男編「京葉散歩・松戸市編」
●松戸の松戸とは
松戸市は、かつて日本一といわれるほど大規模な土地区画整理事業が実施された。
常磐線電化後の人口急増に対処した町あげての事業であった。
これと似たように江戸時代にも、松戸市域は至る所で新田開発が行われている。
こちらは幕府の年貢増徴を目的とした荒地や低湿地帯の開墾であったが、いずれも町勢や藩勢を拡大する大切なものであった。
●高塚地名は八幡神社に由来・畑農地の開墾も新田開発
新田開発といえば低地の水のある田園をイメージするが、下総台地の場合はそのほとんどが畑作農地の開墾であった。
船橋市藤原地区などが水のない新田開発の代表例だが、松戸市域にはこの畑作農地の他に、江戸川に面した低湿地帯に新田開発がある。
歴史的に見ると、後者の方が早くて江戸時代の初期に、前者は江戸時代中期の享保年間である。
松戸市内を南東から北西に縦断して行くと高塚新田、串崎新田、高柳新田、田中新田、松戸新田、主水新田、七右衛門新田が現存するが、紙敷新田、伝兵衛新田、九郎左衛門新田、三村新田、大谷口新田などは新しい住居表示に変更された。
市川市境にある「高塚(たかつか)新田」の地名由来は、元来この地域は野原で野見塚があったこと、また新田の鎮守・八幡神社が周辺より一段と高く、境内の松の大木が市川市行徳周辺からもよく見えて船頭の格好の目標になったことから高塚と呼ばれた。
参道にはその名残のように1本の松の木が真っすぐ天を突いていた。
こうした地域も現在は公団住宅や分譲住宅地に変貌している。
●八つの村が基礎柱の八柱・田中新田は市内に2か所
「串崎(くしざき)新田」は江戸商人の善右衛門によって開墾されたが、地形と道路で串の字に見えたためこの地名になった。
人名が頭に付かないめずらしいケースだ。
「田中(たなか)新田」は八柱霊園地区と江戸川沿い古ヶ崎地区の2ヵ所にあった。
八柱地区は元来田中山と、呼ばれた土地だが、行徳商人の田中三左衛門が開いたという説もある。
また古ヶ崎地区は不明だが、地域に田中稲荷神社がある。
「八柱(やはしら)」の地名は、紙敷、大橋、和名ヶ谷、秋山、河原塚、田中新田、高塚新田、串崎新田の八村が合併して各々がその柱になったことから名付けられた。
正式名は、濁らないが、新京成線八柱駅は濁る。
●下谷三十町歩の美田地帯・歴史伝える鎮守の稲荷
江戸川沿いの低湿地帯に展開する新田は、先の「田中新田(現古ヶ崎)」から順に北上すると、「伝兵衛(でんべえ)新田(現栄町)」「主水(もんと)新田」、7人の右衛門によって開かれたという「七右衛門(しちえもん)新田」「九郎左衛門(くろうざえもん)新田(現新松戸)」など開拓者の名前が頭に付いた新田地名が続く。
こうした新田地域は「下谷三千町歩」と呼ばれた美田地帯で、モチ米「江戸川モチ」が生産品だった。
そして、耕地6新田69世帯は現金収入のため「六和餅製造組合」を設立し、そのモチ米でお餅を作って全国に売りさばいた。
ねばりのあるおいしい餅で売れ行きがよかったという。
その六和電灯敷設記念碑が主水新田稲荷神社にあり、神社東裏には千葉県環境部の地盤の変動をはかる基準点、精密水準点がある。
それぞれの新田に祀られた鎮守・稲荷神社は確かに新田の歴史を伝えている。
《参考資料》
坂本伴治編「松戸の地名の由来」
横塚和男編「京葉散歩・松戸市編」
