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10月 5日 時刻表記念日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クズ        恋のため息            ○
クコ        お互いに忘れましょう・誠実    ○
シュロ       勝利               ○
チグリシア     鮮やかな場面           ○
チョウセンアサガオ(ダチュラ)愛敬・偽りの魅力・変装 ×
ヤシ        勝利               ×

∞…∞10月 5日・今日という日 ∞…∞

阿部祐大朗   (1984)  サッカー
ニッキー・ヒルトン   (1983)  モデル
北野井子   (1982)  歌手
田臥勇太   (1980)  バスケットボール
YOPPY   (1980)  タレント、THE★SCANTY、Vo.
ソン・スンホン   (1976)  俳優
ケイト・ウィンスレット   (1975)  女優
永池恭男   (1973)  野球
星野貴代子   (1973)  タレント、元みるく
ルイス・ロペス   (1973)  野球
酒井雄二   (1972)  ゴスペラーズ
宮崎吐夢   (1970)  俳優
浅井理恵   (1970)  女優
西脇亨輔   (1970)  アナウンサー
遠藤由美子   (1967)  タレント
橋本聖子   (1964)  政治家、スケート、自転車
藤原啓治   (1964)  声優
琴ヶ梅聡   (1963)  相撲
マイケル・アンドレッティ   (1962)  レーシングドライバー
黒木 瞳   (1960)  女優
国安わたる   (1960)  歌手
カレカ   (1960)  サッカー
関根明子   (?)  声優
豊川 誕   (1958)  歌手
江口信夫   (1958)  ドラマー
郭 源治   (1956)  野球
山口祐一郎   (1956)  俳優
立野政治 (立野正士)   (1955)  野球
李 博士 (イ・パクサ)   (1954)  ポンチャック歌手
中島ゆたか   (1952)  俳優
辺見マリ   (1950)  歌手、女優
やしきたかじん   (1949)  歌手、タレント
照屋林賢   (1949)  りんけんバンド、Vo.
米田建三   (1947)  政治家
西岡徳馬   (1946)  俳優
今野雄二   (1943)  映画評論家、作家
桂 春蝶   (1941)  落語家、タレント
浜田卓二郎   (1941)  政治家
笹川 尭   (1935)  政治家
江角英明   (1935)  俳優
鈴木尚之   (1929)  脚本家
舛田利雄   (1927)  映画監督
矢野 徹   (1923)  作家
竹山逸郎   (1918)  歌手
南 美江   (1915)  女優
徳大寺伸   (1911)  俳優
ディック・ミネ   (1908)  歌手
浦辺粂子   (1902)  女優
中山義秀   (1900)  作家
政岡憲三   (1898)  アニメーション作家
甲賀三郎   (1893)  作家
ロバート・ゴダード   (1882)  ロケット研究者
徳川家斉   (1773)  徳川幕府将軍

 ○ パリの庶民数千人がヴェルサイユに行進し王宮に乱入する(1789)
 ○ 東京音楽学校開校(1887)
 ○ わが国初の時刻表が出版される(1894)
 ○ 立教大学登山隊、日本人初のヒマラヤ登頂成功(1936)
 ○ 服部時計店クォーツデジタル腕時計を発売(1973)
 ○ 銀座と新宿で土曜歩行者天国(1974)
 ○ 山口百恵、日本武道館でラストコンサート(1980)
 ○ ポーランドのワレサ「連帯」委員長にノーベル平和賞が授与(1983)

時刻表記念日
1894(明治27)年、庚寅新誌社から日本初の本格的な時刻表『汽車汽船旅行案内』が出版された。福沢諭吉の勧めにより手塚猛昌がイギリスの時刻表を参考に、発車時刻や運賃のほか、紀行文等を掲載して発刊。

折り紙供養の日
折り紙作家、河合豊彰氏により、「達磨忌」のこの日と、「花まつり」の4月8日に制定。

たまごの日
毎月5日。
日本養鶏協会、日本卵業協会など関係団体が制定。

共和国記念日(ポルトガル)

達磨忌
禅宗の祖・達磨大師が528年ごろに入寂した日。
南インド香至国の王子として生まれ、中国に渡って禅宗を始めた。
達磨の置物は、緋色の衣を着て座禅した達磨大師の姿を模して作られたもの。

レモンの日
1938(昭和13)年、高村光太郎の妻・智恵子の命日。
智恵子は精神病を病んでいたが、亡くなる数時間前にレモンをかじり、智恵子はもとの智恵子に戻ったと言われる。




達磨大師
10月5日は達磨忌。全国の禅寺で法要が営まれます。

達磨(だるま)大師は禅宗の祖とされる人で、6世紀頃の人です。

インドで生まれて中国に渡り崇山少林寺で9年間座禅を組んで悟りに達したといいます(面壁九年)。
あまり長い間座禅をしていたために足が腐ってしまったという俗説があのユーモラスなダルマ人形を生んだともいいます。

禅の公案の中に、達磨大師が中国に到着した時梁の国の武帝(在位502-549)と交わした会話というのが伝えられています。
それによると武帝が「私は今までたくさん寺を造り僧を育てて来た。
これはどのくらいの功徳になっているだろうか」と聞くと達磨大師は「功徳は何もない」と答え、「では仏教における聖なる真理は何か」と聞くと大師は「空っぽで何もない」と答え、更に武帝が「何もないというのなら、お前は何者だ」と聞くと「知らぬ」と答えたといいます。

(こういう人物を処刑しなかった武帝の器の大きさに乾杯! 但しこの武帝 は後世の評価としては、仏教に力を入れすぎて財政を破綻させたと言われ ています。達磨大師はこの国にはいつかず、魏の国の少林寺に行きました)

ところで、ダルマ人形の発祥の地は、吉野裕子氏によれば群馬県高崎市近郊の少林山達磨寺だとのことです。
水戸光圀が帰依していた中国僧心越禅師が開いた寺でこの心越禅師が書いた一筆書きの達磨像を1783年、9代目住職東嶽和尚が木型に作り当時続いていた天変地異の邪気を祓う呪物として農民達に伝授したのが始まりだとのことです。
現在この近辺で作られて全国に出荷されているダルマの人形は年間150万個に達するとのことです。(吉野裕子「ダルマの民俗学」岩波新書)。

しかし、ダルマ人形の元が一筆描きの達磨像であったなら、この人形に手足のないことも分かるのですが、そうなると達磨大師に関しての俗説で、あまり長時間座禅していた為に手足が腐ってしまったというのは、どちらかというと、逆にこの人形に手足がないことから発生したものかも知れません。







時刻表の日(10.5)
10月5日は時刻表の日です。
私はてっきり語呂合わせかと思っていたのですが改めて確認すると、日本初の本格的時刻表である『汽車汽船旅行案内』の第1号が出版されたのが明治27年(1894)の10月5日であることから定められたものだそうです。

日本の時刻表は明治5年(1872)に新橋〜横浜間に鉄道が開通して以来、制作されていたのですが、各地の鉄道や船・馬車などの時刻表が各社からバラバラに出ているため、遠くまで旅行しようという人は現地での交通機関の時刻が分からず不便をしていました。
そこでイギリスに全国の交通機関の時刻表を1冊にまとめた本が出版されていることを知った慶応大学の福沢諭吉が、その慶応出身の手塚猛昌(1894-?)が庚寅新誌社という出版社を経営していたことから、彼にこういう本を作らないかと提案。実現したものです。
この本には日本各地の鉄道定期運行されている馬車、汽船、などの時刻表が網羅されている上に様々な紀行文なども載っていて、旅のガイドという雰囲気であったそうです。

大きさはB6くらいで第1号は本文65ページ・広告31ページ。広告には交通機関や銀行、慶應義塾などのほかに、旅にお勧めの品として護身用の銃などの広告もあったとのこと。
巻頭に折りたたみ式の路線図が綴じ込まれていて、価格は6銭だったとのことですが、この時代に全国の時刻表の最新状態を確認して編集し、それを月刊で刊行する作業はひじょうに大変だったのではないかと思われます。

『汽車汽船旅行案内』は漢数字で時刻が記されていましたが1904年には横書きでアラビア数字を使用した「旅のつれづれ」という時刻表が出版され、1910年には外国人旅行者向けに鉄道院編纂の「TRAIN SERVICE」という日本語英文併記の時刻表も出ています。

一方、大正年間に業務用の時刻表はかなり使い手の良い形に発展していたのですがそれを見た一般の客から「それが欲しい」という声が高まり、その声に応えて1925年4月、日本旅行文化協会から鉄道省編纂「汽車時間表附汽船自動車発着表」(通称「汽車時間表」,244ページ,定価50銭)が刊行されました。
これが現在でも鉄道マニアにウケが良い「JTB時刻表」の創刊号です。

戦後、日本全国の国鉄の駅にはこの「交通公社の時刻表」が置かれていたのですが、国鉄が1987年4月に分割民営化された時、JR側とJTB側との株式の所有に関する話し合いがこじれ、その結果、JR側は交通公社の時刻表を駅から撤去。
代わりに鉄道弘済会(キオスクなどを運営している会社)の子会社であった弘済出版社(現・交通新聞社)の「大時刻表」をJR公認として「JR時刻表」の名前に改訂して、駅に常備するようにしました。
なお、この時刻表は民営化の1ヶ月前に改名されたため1987年3月号だけは「JNR時刻表」の名前で出ていました。

日本の鉄道はひじょうに正確に運行されているため、それを背景に日本には時刻表マニアというものが存在しています。
どこからどこへ行くのに何時の汽車に乗ればいいか、というのもかなり高速に調べることができました。
JTB時刻表が時刻大改訂の度に主宰する「日本一周早周り」のコンテストにも何度か参加したことがあります。

しかしこういう技術も、今は「乗り換え案内」のようなソフトの登場でほとんど無用になってしまいました。
この分野ではなんといってもヴァル研究所が1988年2月に発売した「駅すぱあと」が草分けです。
最初は単に乗り換え経路を案内するだけだったのが、やがて時刻表そのものをソフト内に取り込んで、最短時間などを求めることができるようになりました。





南北朝合一(1392)
歴史上に名を残した「後」のつく天皇が3人います。

後白河天皇、後鳥羽天皇、後醍醐天皇、です。

後白河天皇は保元の乱で政治の実権をつかみ、平清盛・源頼朝をいいようにあしらって、「日本一の大天狗」と言われました。

後鳥羽天皇は鎌倉幕府を倒して天皇親政を取り戻そうと承久の変を起こしますが失敗、隠岐に流されました。

そして、後醍醐天皇も鎌倉幕府を倒すために元弘の変を起こして失敗、いったん隠岐に流されますが、ここから更に再起して足利尊氏の協力を得て倒幕を実現します。
これが建武の中興です。

しかし、ここから天皇は尊氏と対立してしまいます。尊氏は別の天皇・光明天皇を立て、後醍醐天皇は奈良の山中に逃れて南北2つの天皇が並び立つ前代未聞の事態になりました。

結局尊氏は北朝により征夷大将軍に任命され、室町幕府が成立して、南朝に対して徹底的な弾圧を加えますが、南朝も深い山の中で抵抗強く、この並立状態は56年間も続きました。

そして、元中9年(明徳3年,1392)閏10月5日、南朝の後亀山天皇が皇位の象徴である三種の神器を北朝の後小松天皇に譲り、両者の合一が実現しました。
その間に将軍の地位は尊氏の孫の義満の時代になっていました。

後亀山天皇は三種の神器を渡す時、両者の系統が交互に皇位に就くことを交換条件としましたが、実際に皇位についた後、統一朝廷側はその約束を反故にし、後亀山天皇の皇子が皇太子に据えられて、南朝の系統の天皇がその後皇位に就くことはありませんでした。

なお、禅僧として有名な一休はこの後小松天皇の皇子と言われています。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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