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10月21日 あかりの日(日本電球工業会など1981)、国際反戦デー

花ノ名前      花ことば            誕生花として
アザミ 権威・触れないで・独立・厳格・復讐・満足・安心○
チトニア      優美・優美な仕種         ○
ムラサキシキブ   愛され上手・聡明な女性      ○
ワタ(綿)ノ花   偉大・崇高            ×

∞…∞10月21日・今日という日 ∞…∞

栗林みえ   (1981)  女優
吉永雄紀   (1981)  俳優
高野志穂   (1979)  女優
乙一   (1978)  作家
高山樹里   (1976)  ソフトボール
岡本真也   (1974)  野球
須貝たまき   (1974)  漫画家
ブライアン・コーリー   (1973)  野球
米倉利紀   (1972)  シンガーソングライター
森田成一   (1972)  声優、俳優
西島千博   (1971)  バレエダンサー
河本育之   (1967)  野球
アルシンド・サルトーリ   (1967)  サッカー
さかもと未明   (1965)  漫画家
今井 寿   (1965)  BUCK-TICK、G.
アンドニ・ゴイコエチェア   (1965)  サッカー
ペリー荻野   (1962)  コラムニスト
唐沢なをき   (1961)  漫画家
千住 明   (1960)  作曲家
渡辺 謙   (1959)  俳優
村上幸子   (1959)  歌手
蟷螂 襲   (1958)  俳優
永島敏行   (1956)  俳優
角替和枝   (1956)  女優
キャリー・フィッシャー   (1956)  女優
実川俊晴 (あんしんパパ)   (?)  ミュージシャン
古川益三   (1950)  まんだらけ社長
大場政夫   (1949)  ボクシング
橋爪大三郎   (1948)  大学教授
蛭子能収   (1947)  漫画家
呉 智英   (1946)  評論家
五月みどり   (1939)  女優
白川由美   (1936)  女優
春日三球   (1933)  漫才師
江戸川乱歩   (1894)  作家
栗原忠二   (1886)  画家
エドモンド・デ・アミーチス   (1846)  作家
アルフレッド・ノーベル   (1833)  科学者
徳川吉宗   (1684)  征夷大将軍

 ○ マゼラン海峡発見(1520)
 ○ 伊能忠敬、全国地図の作成開始(1800)
 ○ 米総領事ハリス、徳川13代将軍家定に謁見(1857)
 ○ 発明王エジソンが日本産の竹を焼いて作った炭素を用いた白熱電球を完成(1879)
 ○ 東京専門学校(早稲田大学の前身)開校式(1882)
 ○ 野球の第1回早慶戦開催(1903)
 ○ 国家公務員法公布(1947)
 ○ 朝永振一郎、ノーベル物理学賞決定(1965)
 ○ 銀座でウーマンリブ旗揚げ(1970)
 ○ 志賀直哉没(1971)
 ○ 巨人・長嶋監督が辞任(1980)

国際反戦デー
1967年のこの日、世界各地でアメリカのベトナム戦争介入に反対する集会が開かれたことから、ベトナム戦争反対の国際統一行動日となった。
ベトナム戦争終結後は世界平和実現のための行動日となった。

あかりの日
日本電気協会・日本電球工業会等が1981(昭和56)年に制定。
1879(明治12)年、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させました。
あかりのありがたみを認識する日。

孫の日(10月第3日曜日)

軍隊の日(ホンジュラス)

直哉忌
小説家・志賀直哉の1971(昭和46)年の忌日。


あかりの日(10.21)
10月21日は「あかりの日」です。
これは発明王エジソンが1879年に実用性の高い白熱電球を発明したことにちなんだものです。

人類の歴史は火の制御とともに始まります。
火は熱と光という2つのものを人間に与えてくれました。
火によって人類は天敵から身を守るとともに、食べ物を加熱調理することを覚えました。

そして火は夜間も人類が活動できる礎を与えてくれました。
最初は松明(たいまつ)の形で。後には燈明(とうみょう)・蝋燭(ろうそく)・ランプなどの形で。

しかしほんの130〜140年前まで、光を出すには必ず火を燃やさなければなりませんでした。
それを分離した革命家がエジソンであったということもできるでしょう。

もっとも電球を発明したのはエジソンではありません。

1879年2月、イギリスのスワンが炭素繊条を使った白熱電球を発明しました。
それ以前にも火を使わないあかりとしては1821年に発明されたアーク灯もありました。
(1878年3月25日に日本で最初にアーク灯がともったのが、電気記念日になっています)

しかしアーク灯は点灯するのに技術が必要な上、電極の消耗が激しいので絶えず電極間の距離を調整してやる必要がありましたし、スワンの白熱電球は寿命に問題がありました。

エジソンは寿命の長い白熱電球を作るべく、フィラメントの素材として色々なものを試したあげく、一番使えそうもない素材であった「竹」が実は最も長くもつことを発見しました。
この時彼が使った竹は日本の京都産のものであったそうです。

(その頃、日本の東芝もフィラメントの材料を探していたらしいのですが、エジソンが京都産の竹を使ったと聞き、灯台もと暗しの思いに打たれたと聞きます。)

エジソンはこの新しい白熱電球を売り出すために会社を設立、これが現在のGE(General Electric)社のもとになります。
そしてこのGE社ではそのあともフィラメントの素材について研究を重ね、1910年頃GE研究所のクーリッジが引出加工したタングステンによる丈夫なフィラメントを開発。
これによって電球の寿命は更に延びました。

この頃日本ではカラクリ儀右衛門(田中久重)の会社である東芝(当時は東京電気)が独自に開発してきた白熱電球に関する技術とGE社と提携して得られた技術をもとに安定した電球を製造、これに「マツダ・ランプ」の名前を付けます。
この「マツダ」は「松田さん」ではなく実はゾロアスター教の神「アフラ・マヅダ」からとられたものです。

この東芝はこのマツダランプに改良を加え、1925年電球の内面にツヤ消しを施したまぶしくない電球を開発、これが現在の電球の基本になっています。

今までのあかりとして電球と勢力を2分する蛍光灯はGE社のノイマンにより1938年に発明されました。
これが日本で最初に使われたのは1940年、法隆寺の壁画の写真撮影のときでした。

(法隆寺の壁画はカラー写真の発明前だったが、カラーフィルターを掛けて三原色に分解して撮影された。おかげで、我々はこの失われた壁画を原色で見ることができる)

この頃の蛍光灯には演色性が悪い(太陽光の元で見た時と色が違う)という欠点がありましたが、その後天然色蛍光灯、昼光色蛍光灯、更には3波長式蛍光灯が開発されて、かなり改善されてきました。

また、蛍光灯はエネルギーの光への転換効率が良いのが長所で、白熱電球に比べてずっと小さい電力で同量の光を出すことができます。
しかし最大の欠陥は放電により発光させているため、商用交流の周波数50MHz/60MHzに対応した周期100MHz/120MHz単位の光のチラツキが出ることです。
このため蛍光灯の下で長時間作業をすると目を悪くするという深刻な問題がありました。

これを改良したのがインバーターで、これは蛍光管に供給する電気の周波数をあげ400MHzにすることにより、チラツキを小さくしています。
子供の勉強机などには少々高価でもインバーター付きの蛍光灯を設置したいものです。

さて、電球や蛍光灯はだいたい半年あるいは2〜3年も使っていれば寿命が来て切れてしまいます。
基本的に照明器具はランブが切れることを前提に設計されているのですが、切れないことを前提にしたあかりが使われ始めています。
それがLED(light Emitting Diode)で、これは本来整流器として使用されていたダイオードがわずかながら電力を消費し、結果的に消費された電気の一部が光になっていることに注目し、わざとその光をたくさん出すような半導体の組み合わせを探し当てたものです。
LEDは弱い光しか出しませんが発熱が小さく非常に長い寿命を持っており、家電製品や情報機器のパイロットランプや表示板などに多数使用されています。
液晶ディスプレイのバックライトもLEDです。

20〜30年ほど前から、アメリカでは「Akari」と呼ばれる新しい照明器具が注目されています。
これは日本の提灯(ちょうちん)をヒントに作成されたもので、電球などの発光体を和紙で包むことにより、間接光のような柔らかい光を得るものです。
次第に日本にも逆輸入されてくるのではないかと思われます。



江戸川乱歩(1894-1965)
明智小五郎シリーズなど多数の探偵小説を世に送り出した江戸川乱歩(本名平井太郎)は1894年(明治27年)10月21日、三重県名張町に生まれました。
父は名張郡役所の書記でした。
3歳の時に父の異動に伴い名古屋へ移り住み、この地で尋常小学校・高等小学校・中学校と進み、1912年に愛知県立第五中学を卒業します。
父は4年前に貿易関係の仕事をする平井商店を興していましたが太郎が中学を卒業して3ヶ月後に倒産。
一家は朝鮮に渡りますが、太郎はすぐに単独で帰国。
早稲田大学の予科に入ります。
そして湯島天神の活版屋雲山堂に住みこみ、苦学を始めます。
そしてそれと同時に彼の華麗な職業遍歴が始まりました。

 1913 大学部に進級。封筒貼りなどの内職
 1914 自治新聞の編集手伝い
 1915 市立図書館の貸出係,英語の家庭教師
 1916 大学卒業。貿易商の仕入係, 徴兵検査
 1917 弁士,タイプライター販売員,鳥羽造船所電機部(-1919)
 1919 古本屋,雑誌の編集,支那ソバ屋。村山隆子と結婚
 1920 東京市の職員,時事新報の記者
 1921 日本工人倶楽部書記長。長男誕生。
 1922 ポマード瓶の意匠宣伝印刷,弁護士助手
 1923 大阪毎日新聞広告部

秀作「二銭銅貨」のアイデアを考えたのが一時的に失業していた1920年のことといいます。
妻からお金が尽きてしまったけど、どうしようと言われ、わずかに手元にあった二銭銅貨を見つめているうちにこのことを思いついたとも。
ちなみに1920年頃の物価では二銭というとアンパン1個の値段です。
この作品は1922年の秋に書き上げられ「新青年」に原稿を送ります。
そして1923年の同誌4月号に掲載されました。
そして1924年の年末に作家活動に専念することを決意して毎日新聞を退職。
その年の11月に執筆して翌年の新青年2月号に掲載された「心理試験」そしてそれと前後して発表された「D坂の殺人事件」が好評で、それにより実際作家として生活していけるめども立ったのでした。
この頃、後に彼の編集者となる横溝正史との交友も始まります。
この後しばらくの作品年譜を見てみましょう。

 1923 二銭銅貨
 1925 D坂の殺人事件,心理試験,屋根裏の散歩者,人間椅子
 1926 人でなしの恋,パノラマ島奇譚,一寸法師
 1928 陰獣
 1929 孤島の鬼,芋虫,押絵と旅する男,蜘蛛男
 1930 魔術師,黄金仮面,吸血鬼
 1931 白髪鬼,恐怖王
 1934 人間豹,黒蜥蜴
 1936 緑衣の鬼,怪人二十面相,大暗室
 1937 少年探偵団,幽霊塔,悪魔の紋章
 1938 妖怪博士
 1939 暗黒星,大金塊,地獄の道化師,幽鬼の塔

1925年から1930年にかけては当時の世相や文学上の流行に連動して耽美な作品が続いています。
「屋根裏の散歩者」「人でなしの恋」などの倒錯度は凄まじいですし「蜘蛛男」「黒蜥蜴」などの凄惨さは子供の内にこういう本を読めば完璧にトラウマになってしまうでしょう。
しかし彼は1932年頃に2度目の休筆宣言(1度目は一寸法師の後)をした付近から明らかに著作のペースを落としています。
二二六事件などを契機に世の中がどんどんきな臭くなってきた世相を反映していました。

その中彼は1936年こんな世の中だからこそ子供達を元気付けようと、初めて少年向けの小説「怪人二十面相」を世に送り出します。
黄金仮面・黒蜥蜴などのような冷酷な殺人者とはうってかわって血の嫌いな怪盗・二十面相を登場させ、主役も本来の探偵・明智小五郎ではなく、その少年助手の小林少年をメインにしています。
この路線は1937年「少年探偵団」1938年「妖怪博士」と続きますが、1939年彼の作品は官憲により全て発禁処分となり、終戦まで事実上著作活動ができなくなってしまいました(戦時中は小松龍之介の名前を使用)。

なお、小林少年の初登場は1930年の「吸血鬼」の事件です。
その前に同年の「魔術師」の事件で文代が登場しており、「吸血鬼」の事件で明智小五郎と結婚しています。

さて戦争が終わってから1946年乱歩はアイリッシュの「幻の女」に刺激されて再び作家活動に戻ります。
手始めに同年「探偵小説土曜会」を結成、翌年「日本探偵作家クラブ」に改組します。

実際の作品としては1949年の「青銅魔人」で再開。
これは「妖怪博士」の続編となる少年探偵シリーズで、この後「虎の牙(1950,後に地底の魔術王に改題)」に続き「透明怪人(1951)」の事件でとうとう二十面相は逮捕されてしまうのですが、ここでルパン張りに獄中から「今後は四十面相と改名する」と発表する「怪奇四十面相(1952)」。
そしてその四十面相が世界泥棒会議を開いて起こした「宇宙怪人(1953)」へと続いていきます。
そして翌年1954年の「鉄塔の怪人」で二十面相はあまりにもあっけなく死亡してしまいます。

この「鉄塔の怪人(後に「鉄塔王国の恐怖」に改題)」の最後で二十面相が死んでしまったことに対するファンの解釈は様々で、その死に様がとても二十面相っぽくないため、多くの議論を呼んでいます。

しかし乱歩はここで二十面相のシリーズをうち切った訳ではなく、このシリーズは更に続いています。
「海底の魔術師(1955)」には唐突に二十面相が再登場し、しかも復活したことに対する説明は特にありません。
これ以降の後期二十面相シリーズには下記のものがあります。

 1955 海底の魔術師,灰色の巨人
 1956 魔法博士,黄金豹,天空の魔人
 1957 妖人ゴング,魔法人形,サーカスの怪人
 1958 奇面城の秘密,夜光人間,塔上の奇術師,鉄人Q
 1959 仮面の恐怖王
 1960 電人M
 1961 妖星人R,超人ニコラ

後期シリーズには二十面相の意図がよく分からない作品もありますが、中には非常に優秀な作品もあります。
耽美さがあふれる「魔法人形」、少女助手花崎マユミや少年探偵団のメンバーが活躍する「塔上の奇術師」、特殊な新型爆弾を巡る陰謀に立ち向かう「電人M」などは秀逸です。

なお戦後の大人向きの作品としては「三角館の恐怖(1951)」「影男(1955)」などの名作があります。

晩年乱歩は経営難に陥ったミステリー雑誌「宝石」救済のために尽力し、自ら編集長になって、あちこちまわって原稿をもらい歩きました。
結局彼は10年弱間この仕事を続けますが、結局力及ばずして1964年に「宝石」は廃刊。

そして乱歩は1965年7月28日死去しています。1961年にも紫綬褒章を贈られていますが、死後、正五位勲三等瑞宝章が追贈されました。

なお、先にも一度ふれましたが、金田一耕助シリーズで知られる横溝正史は初期のころ「新青年」の編集長として江戸川乱歩を担当していました。
しかし乱歩の遅筆には散々悩まされていました。
それを象徴するエピソードが1928年新青年新年特別号に掲載された「あ・てる・てえる・ふいるむ」の事件です。

この時乱歩の筆が全然進んでいない様子に正史はかなり焦っていました。
穴をあけるわけには行かない。
そこで彼は密かに自分で乱歩風の作品を書き上げ、それを隠し持って締切寸前の乱歩の元を訪れます。
そして「先生、できましたでしょうか?」との正史の質問に乱歩は「済まない。全然できてない」の答え。
そこで正史は「無礼は承知なのですが、実はここに自分が先生風の小説を1本書いて来ました。これを先生の名前で掲載させていただけませんでしょうか?」

乱歩はそれを快諾し、トイレに立ちます。
そして戻ってきてから「実は書いたのだけど、自信がなかったんだ。君のがいい出来だから、それを載せて欲しい。自分が書いたのは今トイレに流して来た」と告白しました。

正史は恐縮しますが、結局この作品「あ・てる・てえる・ふいるむ」は乱歩の名前で雑誌に掲載されました。
もちろん現在では横溝正史の作品と修正されています。
ちなみにこの時乱歩がトイレに流してしまった作品は翌年改めて書き直されて発表されます。
それが「押絵と旅する男」です。
なお、正史が代作した乱歩作品は他にも2作あります。

なお、いうまでもないですが、江戸川乱歩という名前は推理小説の元祖といわれる「黄金虫」の作者「エドガー・ア・ランポー」のもじりです。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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