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10月24日 国連デー、世界開発情報デー

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ウメ(梅)     高潔・忠義・澄んだ心・忠実・独立 ○
ガーベラ(ピンク)  崇高美              ○
クリ        公平・豪華・満足・真心      ○
セイヨウスモモ   誠実な一生            ×

∞…∞10月24日・今日という日 ∞…∞

神谷ゆう子   (1985)  タレント
木村カエラ   (1984)  モデル、歌手
いとうあいこ   (1980)  女優
秋月ひかり   (1977)  歌手
小島 啓   (1976)  タレント、元TOKIO
金成公信   (1975)  タレント、ハローバイバイ
延友陽子   (1974)  アナウンサー
ゴリけん   (1973)  タレント
鈴木佑季   (1972)  歌手
木村公宣   (1970)  スキー、回転
及川光博   (1969)  俳優、歌手
春川玲子   (1968)  ジッタリン・ジン、Vo.
辻 発彦   (1958)  野球
赤木 誠   (1958)  アナウンサー
遊川和彦   (1955)  脚本家
夏樹陽子   (1954)  女優
竹村 拓   (1953)  声優
ホープ (城後光俊)   (1949)  タレント、ゆーとぴあ
喜多条忠   (1947)  作詞家
島 英二   (1947)  ザ・ワイルドワンズ、Bass
高田恭子   (1946)  歌手
小林カツ代   (1937)  料理研究家
ビル・ワイマン   (1936)  元ローリング・ストーンズ、Bass
上田五千石   (1933)  俳人、作家
渡辺淳一   (1933)  作家
宇津井健   (1931)  俳優
高松英郎   (1929)  俳優
瀬川 伸   (1916)  歌手
ブルーノ・ムナーリ   (1907)  デザイナー、絵本作家
奥むめお   (1895)  婦人運動家
ジュール・リメ   (1873)  法律家、元 FIFA会長

 ○ フランスの三色旗制定(1790)
 ○ わが国初の鉄道トンネル工事(1870)
 ○ 西郷隆盛、参議辞職(1873)
 ○ 熊本で神風連の乱(1876)
 ○ ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる。暗黒の木曜日(1929)
 ○ 太平洋戦争レイテ沖海戦(1944)
 ○ マッカーサーによる、新聞の自由・独立勧告(1945)
 ○ 国際連合憲章発効(1945)
 ○ 東京オリンピック閉幕。日本の獲得メダルは金16、銀5、銅8(1964)
 ○ 南海・野村克也捕手、打撃三冠王に輝く(1965)

国連デー
国際デーの一つ。1948(昭和23)年から実施。
1945(昭和20)年、ソ連の国際連合憲章への批准により、発効に必要な20か国の批准が得られたため、国連憲章が発効し、国際連合が発足しました。
日本は1956(昭和31)年に加入が認められました。
1971(昭和46)年の国連総会で、国連加盟国はこの日を公的な休日として記念するよう勧告されました。(United Nations Day)

暗黒の木曜日
1929(昭和4)年10月24日木曜日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌のきっかけとなりました。
当時のアメリカは、第1次大戦の軍需により好景気が続いていましたが、1920年代末には景気後退の前兆が見られ始めていました。
10月24日の取引が開始して1時間ほどの間に急激に株価が下落し、そのスピードに人々がパニックになって一斉に売りに出ました。
市場介入等により、その日の取引終了時には前日の終値まで値を戻しましたが、5日後の10月29日火曜日にも、取引開始と同時に「暗黒の木曜日」を超える売りが殺到し、「悲劇の火曜日」と呼ばれました。

世界開発情報の日
1972(昭和47)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1970(昭和45)年、「第2次国連開発の10年のための国際開発戦略」が採択されました。
世界中で行われている開発に関する情報を集めて、地球全体の開発のバランスを考える日。(World Development Information Day)

ツーバイフォー住宅の日
日本ツーバイフォー建築協会が制定。

独立記念日(ザンビア)
1964(昭和39)年、アフリカのイギリス領北ローデシアがザンビア共和国として独立しました。

トリコロール記念日
(フランス) 1794年、フランス国民公会が、現在フランスの国旗となっている青・白・赤の三色旗(トリコロール)を国家の象徴と定めました。
フランス革命の時、市民軍はパリ市の色である赤と青の帽章をつけました。
革命が全国に広がって市民軍は国民軍となり、その総司令官に任命されたラファイエットは、「市民と王家が協力して新しい国を作るべき」として、帽章に王家の色である白が加えられました。
王政は1791年に廃止されましたが、この3色を使った三色旗は国民軍のシンボルとなりました。


ツーバイフォー住宅の日(10.24)
10月24日は2×4ということでツーバイフォー住宅の日です。
社団法人・日本ツーバイフォー建築協会が制定しました。
24日は毎月あるのですが、なぜ10月なのかはよく分かりませんでした。

ツーバイフォーとは2インチ×4インチ(5cm×10cm)の角材を使用して家を建てる工法なのですが、最も特徴的なのは太い柱を使わず、壁で家の重みを支える方式を採ります。
そのため本格工法(軸組工法)に比べて安価に速く家を建てることができる場合が多く、この工法が認可された1980年代後半以降、家を建てたいが予算が少ないという人たちに大きな人気を得ました。

ツーバイフォーのもうひとつの利点は、外国産の部品を多く使用しているためデザインが若い人の好みに合うものが多いこと、工法上、屋根裏部屋の設置が容易であることなどです。
(初期のツーバイフォー住宅は使用する接着剤がシックハウスの原因となったが、現在ではそのような問題を起こす接着剤は使用しない)

デザインとスピードの問題を上げれば、ツーバイフォーより更に手軽なものとして、軽量鉄骨工法というものがあります。
積水ハウス・ヘーベルハウス・パナホームなどが採っているもので、速く建てられるということは、家を建て替える時などに一時住まいの期間も短くて済むということで、嬉しい点です。

また本格工法で家を建てる場合は施工する工務店の技術力(とモラール)で出来が大きく左右されるのに対して、ツーバイフォーでは技術の差が出にくいので、あまりよく知らない工務店に頼んでも、ひどい目に遭う恐れが少ない利点があります。
これが積水ハウスなどになると、問題の起きる余地は更に小さくなります。
特に年収数百万円クラスの多くの庶民にとっては、こういう問題はかなり大きなものがあります。

ツーバイフォー住宅は新築状態ではかえって本格工法より耐震性などが強い面があるのですが、壁で家を支えるということは、その壁が長年の雨風で傷んでくると、急速に劣化してしまう弱点があります。
そのため住宅業界の外にいる一般の人の認識としては、ツーバイフォーは20年も持てば良い方、というのが多くの見方のようです。
そのため基本的にローンは10年以内で組め、と言う人もまた多くいます。
なお鉄骨工法の場合は、鉄骨の錆に注意する必要があります。

しかしどちらも本当はちゃんとメンテしていれば大丈夫のはずで、大正年間にツーバイフォーで建てられた東京駅や、明治年間にやはり同様の工法で建てられた札幌時計台などが今でもしっかりしているのは良い例です。
鉄骨工法のメーカーなどもメンテさえしていれば50年とか60年もつと言っているようです。

基本的には家は建てたらそのまま放置ではなく、毎年の点検、それに5年に1度程度の大規模メンテ(塗装の塗り直しや管系統・配電系統のチェック更新など)が必要で、その程度の予算は最初から頭に入れた上で家を建てないと、本当にローン終了前に家が崩壊してしまう場合もあります。



ノルマントン号事件(1886)
日本人なら、この屈辱は忘れてはいけません。

1886年10月24日、ノルマントン号事件が起きました。

この日紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没しましたが、この時イギリス人の乗務員が全員脱出したのに、乗っていた日本人の船客23人は全員水死しました。

この事件に関して当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にありました。
そしてこの領事の裁判の結果、船長は無罪となり、日本国民の怒りが爆発しました。

日米修好通商条約の条文(他国との条文も同様)

第六条
日本人に対し法を犯せるアメリカ人はアメリカ領事裁判所にて吟味の上アメリカの法度を以て罰すべし。
アメリカ人へ対し法を犯したる日本人は日本役人糾しの上日本の法度を以て罰すべし。

これを締結した時の幕府のスタッフにはここにとんでもない問題が潜んでいることに気付く者はいなかった。
折角アメリカが来る前に色々外国との付き合い方を教えてあげるから開国の条約を結びましょうと言ってくれたオランダの誘いを断った報いである。

政府はこのような問題を引き起こしている不平等条約の改正を実現するため、まずは日本が欧米と対等な力を持つ国であることをアピールする必要がありました。

そのため外務卿・井上馨らが中心になって国内の法典の整備に務めるとともに、日本にも西洋風の社交クラブを作ろうと鹿鳴館を創設しました。
(もっとも当時の西洋人から見れば鹿鳴館は場末の酒場程度のセンスでできていたとのことです)

しかし井上の急速な欧化政策はそれ自体が国民の反発をくらい井上は失脚します。
そしてその後任の大隈重信を経て、その次の外務大臣陸奥宗光がイギリスと精力的な交渉を行い、1894年、ついに領事裁判権の撤廃などを含む新条約を締結することに成功しました。

屈辱的なノルマントン号事件から8年、不平等条約が結ばれてから40年目の快挙でした。

このあと日本は日清戦争に勝利して「列強」の仲間入りをします。

しかし外面だけを欧米並にしたものの国民意識が十分付いて行っていなかったことが軍部の暴走を許し、満州侵略・太平洋戦争の悲劇へと突き進む元になっていきました。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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