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11月19日 農協法公布記念日(全国農業協同組合中央会)
     鉄道電化の日(鉄道電化協会)、トークの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オトギリソウ    秘密・迷信・盲信・信心・秘密   ×
ハゼノキ      真心               ○
ワレモコウ     感謝・変化            ○

∞…∞11月19日・今日という日 ∞…∞

橋本甜歌   (1993)  タレント
大沢千秋   (1981)  声優
本多彩子   (1980)  タレント
U:suke   (1979)  Baby Boo
少路勇介   (1979)  俳優
森本さやか   (1977)  アナウンサー
浜谷健治   (1977)  タレント、ハマカーン
柴田 淳   (1976)  シンガーソングライター
朝比奈慶   (1975)  女優
末武里佳子   (1974)  アナウンサー
金沢イボンヌ   (1974)  陸上競技
マリオ・バルデス   (1974)  野球
水内 猛   (1972)  サッカー
吉田真理子   (1972)  タレント
菅谷大介   (1971)  アナウンサー
佐倉しおり   (1971)  女優
山口敏弘   (1971)  サッカー
アンディ・シーツ   (1971)  野球
杉岡みどり   (1971)  タレント
吉田真里子   (1970)  歌手
藤崎仁美   (1968)  女優
紫吹 淳   (1968)  女優
麻倉 晶 (斉藤さおり)   (1968)  歌手、Romantic mode、Vo.
田中久美   (1967)  女優
中島優子   (1964)  アナウンサー
ジョディー・フォスター   (1962)  女優
パラダイス山元   (1962)  ラテンミュージシャン
メグ・ライアン   (1961)  女優
安藤優子   (1958)  アナウンサー
松任谷正隆   (1951)  作曲家
松崎しげる   (1949)  歌手
水谷実雄   (1947)  野球
沢 竜二   (1940)  俳優
廣田尚敬   (1935)  写真家
藤岡重慶   (1933)  俳優
森崎 東   (1927)  映画監督
インディラ・ガンジー   (1917)  政治家
ピーター・フェルディナンド・ドラッカー   (1909)  大学教授
浪花千栄子   (1907)  女優
江川トミ   (1899)  料理研究家
野田高梧   (1893)  脚本家
高見沢遠治   (1890)  画家
ジェームス・ガーフィールド   (1831)  アメリカ大統領
フェルディナンド・マリー・レセップス   (1831)  外交官、スエズ運河建設
明正天皇   (1623)  天皇

 ○ コロンブス、プエルトリコを発見(1493)
 ○ 俳人、小林一茶没(1827)
 ○ 作曲家シューベルト没(1828)
 ○ 米大統領リンカーンが「人民の、人民による、人民のための政治」の有名な演説(ゲティスバーグ演説)を行う(1863)
 ○ 「農業協同組合法」が公布(1947)
 ○ 広島で女性初のボクシング試合(1950)
 ○ 東海道本線全線の電化が完成(1956)
 ○ 都で、失業未亡人救済対策として、「緑のおばさん」を採用(1959)
 ○ 戦後初の赤字国債発行を閣議で決定(1965)
 ○ 史上最短命の横綱栃ノ海引退。在位2年9か月(1966)
 ○ 山口百恵、三浦友和挙式(1980)
 ○ ジュネーブで米ソ首脳会談。レーガン、ゴルバチョフ(1985)

農業協同組合法公布記念日
全国農業協同組合中央会(JA全中)が制定。 1947(昭和22)年、「農業協同組合法」が公布された。

緑のおばさんの日
1959(昭和34)年、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員(緑のおばさん)の制度がスタートした。

鉄道電化の日
1956年(昭和31年)の今日、東海道本線の全線が電化されたことを記念して1964年(昭和39年)に鉄道電化協会が設定したもの。

ガリフナ移民の日(ベリーズ)

ペレの日(ブラジル・サントス市)
ブラジル・サンパウロ市郊外のサントス市が1995(平成7)年に制定。
1969年、サントスFCで活躍したサッカー選手・ペレが、1000号ゴールの偉業を達成した。

一茶忌
俳諧師・小林一茶の1827(文政10)年の忌日。

勇忌,かにかく忌
歌人・劇作家・小説家の吉井勇の1960(昭和35)年の忌日。
かにかくに祇園は恋し……から「かにかく忌」とも呼ばれます。






鉄道電化の日(11.19)
1956年(昭和31)11月19日、東海道本線の大津−米原間の電化工事が完了し、これで東海道線(の本線)が全て電化されました。
鉄道電化の日はこれを記念して1964年に鉄道電化協会が制定したものです。

鉄道が生まれたのは1814年(イギリスのスティーヴンスン), 日本で最初に鉄道が走ったのは1872年の新橋−横浜間(新橋は後の汐留駅,横浜は現在の桜木町駅),電車が生まれたのは1879年(ジーメンス社),日本で初めて走ったのは1895年の京都の塩小路東洞院−伏見京橋間です。

電車は蒸気機関車に比べて噴煙が無いこと、(ボイラーを事前に熱くするような)発進準備が不要なこと、進行方向を転換するのにいちいち機関車を反対側に付け直さなくても良いことから、京都市電などに見られるように最初は都市部での鉄道に採用されました。
東海道線でも大正14年に東京−横須賀間に電気機関車が走っています。

またその頃、鉄道技監の島安次郎は先頭車両のみでなく各車両に電動部を設置すれば大きな運搬能力を持つと同時に速度は時速250kmを越す超高速鉄道が作れるという意見書を提出しています。
これが新幹線の基本構想で、結局それは島安次郎の息子の島秀雄が完成させるわけですが、戦前は予算配分の関係と、電力を工場などに優先して使いたかったため一般鉄道での電化工事は抑えられパワーを必要とする急勾配の区間(1911年の碓井峠など)や火事発生の危険を少しでも抑えたい長いトンネルの区間(丹那トンネル・関門トンネルなど)を優先して電化は行われていました。

そのため市電以外の一般鉄道の電化が進み始めるのは戦後で、特に新幹線の成功がそのはずみを付けました。
蒸気機関車では燃料の石炭を積み込むために余分な荷重も発生しますし、燃料補給の際に長時間の停車が必要になりますが、電車ではそれが不要なため、実は電車というのは都市部の鉄道だけでなく、長距離鉄道にも適していたのでした。

ですからこの1956年の東海道本線の電化というのは、鉄道技術の面でも1964年の東海道新幹線の開通の前哨戦的な役割も果たしています。
新幹線構想が一般に公表されたのは、この東海道本線電化完成の翌年1957年です。

東海道本線の電化完成後、東京−大阪間を最速で走ったのは特急「つばめ」ですが、この当時の電気機関車は非力なので7時間半もかかっています。
この特急の前身は戦前の超特急「燕」なのですが、燕は東京から沼津までの区間を電気機関車、それ以降を蒸気機関車に引かれて8時間で大阪まで到達しているようですので、それほど早くなったという感覚はなかったかも知れません。

やはり一般の人に衝撃を与えたのは新幹線の「ひかり」がわずか3時間10分で東京−新大阪を結んだことだったでしょう。
ひかりは実は日本の鉄道史上最初に(営業区間で)時速100kmを越した特急でした。
在来線に100kmを超す特急(もちろん電車特急)がお目見えするのは新幹線開通の翌年です。

ところで日本の鉄道の電化工事はあちこちでバラバラに進行したため、直流の区間と交流の区間が複雑に入り組んでいます。
例えば東海道本線は直流なのに東北本線は交流で、その切替駅である黒磯には、全ての列車がいったん停車(運転停車を含む)していたことは鉄道ファンには良く知られています。

この黒磯での切り替えは初期の段階では例えば東京方面から来た直流機関車に引かれた下り列車がやってきたら、駅に停車した所でいったん機関車をを切り離して構内の架線の電気供給を交流に切り替え、そこで交流機関車を再度連結して出発する、などという実に大変なことをしていました。

現在では交流・直流の両用機関車を使用し、駅構内を走って通過しながら、切り替えることが可能になっています。

このような切り替え地点というのはほかに電化区間と非電化区間との境界線にもあり、電気とディーゼルの両用機関車を使用して走行中の車内に、親切な場合は「電力を切り替えますのでいったん照明を切ります」というアナウンスが流れています。
しかしきっと乗っている人の大半が知っているだろうという感じの近郊列車ではこのアナウンスが省略されることもあり、たまたま遠くから来ていた人は事故かと思ってびっくりするということもあるようです。








小林一茶
文政10年(1827)11月19日、俳人・小林一茶が亡くなりました。

江戸時代の俳人といえば、まずは松尾芭蕉と与謝蕪村の二大巨匠が輝いていますが、それに続く存在がこの小林一茶でしょう。

めでたさも 中くらいなり おらが春
やせ蛙 負けるな 一茶ここにあり
雀の子 そこのけそこのけ  お馬が通る
名月を 取ってくれろと 泣く子かな
我と来て 遊べや 親のない雀

小林一茶は宝暦13年(1763)信州にて生まれました。
15歳のとき江戸に奉公に出、25歳の時二六庵竹阿の弟子となり、3年後竹阿が亡くなると、その後継者となって一茶と称しました。

一茶は江戸から房総付近にかけて旅をしながら俳句を読み続けました。
何ヶ所か立ち寄り先にしていたところがありますが、特筆すべきなのは上総富津の女流俳人・織本花嬌のところでしょう。
二人は静かに愛を育てていきますが、やがて文化10年花嬌の死によって、この愛は終わりを告げます。
一茶51歳の時。

翌年一茶は故郷に戻り結婚しますが、生まれた子供がみな夭折。
更に妻も亡くなり、更にその後結婚した2番目の妻とは短期間で離婚しています。
更に亡くなった文政10年には家が全焼する不幸にも襲われており、晩年は苦労が多かったようです。

これがまぁ つひのすみかか 雪五尺





で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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