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11月21日 フライドチキンの日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
イチョウ      しとやか・鎮魂・長寿       ○
オキザリス     輝く心              ○
カリン       可能性がある・豊麗・優雅・唯一の恋○
カンパニュラ(フウリンソウ,ツリガネ草ベルフラワー)
          感謝・大望・抱負・不変・貞節・誠実
          思いを告げる・後悔・うるさい   ×
ホタル袋      誠実               ○

∞…∞11月21日・今日という日 ∞…∞

池脇千鶴   (1981)  女優
高木和道   (1980)  サッカー
冨田洋之   (1980)  体操
高松新一   (1980)  タレント、オジンオズボーン
田野和彦   (1978)  アナウンサー
山下芳輝   (1977)  サッカー
shuji   (?)  Janne Da Arc、Dr.
伊藤高史   (1976)  俳優
SACHIKO   (1973)  DOUBLE
森 富美   (1973)  アナウンサー
神尾 米   (1971)  テニス、タレント
川畠成道   (1971)  バイオリニスト
盛田幸妃   (1969)  野球
IWASAKI   (1969)  FLOW、Dr.
古賀稔彦   (1967)  柔道
緒形幹太   (1966)  俳優
ビョーク   (1965)  歌手
ライデン湯沢   (1965)  元聖飢魔 II、Dr.
服部隆之   (1965)  作曲家
川村万梨阿   (1961)  声優
紀藤正樹   (1960)  弁護士
ヒクソン・グレイシー   (1959)  グレイシー柔術
西脇美智子   (1957)  タレント、ボディビルダー
川勝正幸   (1956)  編集者、ライター
鈴鹿景子   (1955)  女優
加川 良   (1947)  シンガーソングライター
中村幻児   (1947)  映画監督
岡本富士太   (1946)  俳優
藤森照信   (1946)  建築史家
ゴールディー・ホーン   (1945)  女優
平幹二朗   (1933)  俳優
谷 幹一   (1932)  俳優
佐野周二   (1912)  俳優
三原 脩   (1911)  野球
馬越恭平   (1844)  実業家
荒木田久老   (1746)  国学者
江月宗玩   (1574)  僧侶
九条頼嗣   (1239)  鎌倉幕府将軍

 ○ 平将門、常陸国府を襲撃(939)
 ○ とんちで有名な一休宗純、没。87歳
 ○ 近松門左衛門、没。72歳(1724)
 ○ フランス人のモンゴルフィエ兄弟が気球で初の有人飛行成功(1783)
 ○ 東京・木挽町(現在の銀座)に歌舞伎座開場(1889)
 ○ 関西鉄道会社で客車の外側に塗装を施して等級を区別(1896)
 ○ 第一回早慶戦。11対9の接戦で慶応勝利(1903)
 ○ トルストイ、没。82歳(1910)
 ○ ニクソン米大統領が共同声明を発表し、「核抜き」「本土並み」の1972年沖縄返還を確認(1969)
 ○ 第一期長嶋巨人軍監督誕生(1974)
 ○ ユネスコ、「体育・スポーツ国際憲章」採択(1978)
 ○ 伊豆大島三原山、209年ぶりに大噴火。島民ら1万300人、観光客2000人に島外避難命令(1986)
 ○ バングラデシュで非常事態宣言(1990)

世界テレビデー
1996(平成8)年12月17日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1996(平成8)年、国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催されました。
国連加盟各国は、平和・安全・経済・社会開発・文化交流の拡充等の問題に焦点を当てたテレビ番組の世界的な交流を促すことにより、この日を記念するように呼びかけられました。
World Television Day

歌舞伎座開業記念日
1889年(明治22年)に東京・木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場したことを記念して。

インターネット記念日
1969年(昭和44年)にインターネットの元型と言われるARPAネットの公開実験が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで行われた事による。

フライドチキンの日
1970(昭和45)年、名古屋市郊外に日本ケンタッキー・フライド・チキンの第1号店がオープンしました。

早慶戦の日
1903(明治36)年、初の早稲田大学対慶應義塾大学の試合「早慶戦」が行われました。
東京・三田で行われた野球の試合で、11対9で慶應が勝利しました。

寄生虫予防運動
寄生虫に対する知識の普及を目的に1953年(昭和28年)から始められた運動。
30日まで。

八一忌,秋艸忌,渾斎忌
歌人・書家の会津八一の1956(昭和31)年の忌日。

波郷忌,惜命忌,忍冬忌
俳人・石田波郷の1969(昭和44)年の忌日。




一休(1394-1481)
文明13年(1481)11月21日卯の刻。
「とんちの一休」でおなじみの、一休宗純禅師が亡くなりました。

権威を否定し、悟りさえも否定して、壮絶に庶民の中で生き抜いた、巨大な禅僧でした。
「まともな」禅僧からは破戒僧と蔑まれ、庶民からは生き仏とあがめられた、強烈な人格でした。

「元旦は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」

彼はそう言ってお正月に髑髏を持ち歩いたりしました。女犯・飲酒・肉食をわざとのように行いました。

(髑髏を持って歩くシーンをTVのアニメシリーズで脚本に書いたのは辻真先)

一休が生まれたのは明徳5年(1394)の元旦であると言われています。
幼名は千菊丸。

南北朝を統一した後小松天皇の御落胤ですが、当時はその南北朝の分裂が、やっと解決してまだ少し。
南朝側の残党が残る時代。一休の母は藤原一族の出身(日野中納言の娘伊予局あるいは藤原顕純の娘藤侍従といわれる)ですが、南朝側と通じていることを疑われ、里に下がっての寂しい出産であったとのことです。

しかも、天皇の血を引く者として、誰かが何かにかつぎ出さないとも限りません。
恐らく彼の周囲は常に何者かによって監視されていたでしょう。
その身を保護し、欲がないことを示すためにも、彼は幼いうちに寺に入り仏門に励むことが必要でした。

6歳で安国寺に入り、周建の名前を与えられます。良家の子弟の多い寺で、身分を明かすことを許されない周建は苦労したようですが、次第にその才覚を発揮。
寺の書庫をその住処として、数々の経典を読破します。

この頃のエピソードが「とんちの一休」の話となって後世まとめられました。

周建がかなり優秀な僧になりそうだということを知った権力者である前将軍・足利義満は、周建を師匠とともに自分の邸宅に招き、場合によってはそのまま闇に葬ろうと考えました。
この時、出された食事の中に魚が入っていたので師匠はそれを食べませんでしたが、周建は食べてしまいました。
すると、義満は「僧が魚を食べるとは何事?」と詰問します。

それに対して周建は「喉は単なる道路です。
八百屋でも魚屋でも何でも通します」と言ってケロリとしています。

それにムッとした義満は刀を抜いて周建の眼前に突き出し「ならば、この侍も通して見よ」と言います。
ところが周建は「道路には関所がございます。
それがこの口です。
うむ。
怪しい奴。
通ることまかりならぬ」と言って平然としています。

やはり、こいつはただ者ではない、と義満は考え何とか破綻させてやろうと、「周建よ。そこの屏風の絵の虎が毎晩抜け出して往生しているのだ。その虎を縛ってはくれないか?」といいます。

すると周建はまた平気な顔で縄を乞い、その縄を持って屏風の前に立つと、「今から虎を捕らえます。どなたか、屏風の後ろに回って虎を外に追い出して下さい」と叫びました。

これにはさすがの義満も苦笑。この強烈な個性の持ち主を抹消する気も失せて、引き続き監視だけ続けていくことに決めました。

このような一種の機転というのは、禅僧には必須のものです。
しばしば「禅は瞬発力である」ともいわれます。
中国の臨済と黄檗の壮絶な禅のやりとりなども有名です。

安国寺で学べるだけのことを学んだ周建は経典を読んでもどうしても得られない何かを求めて遊学。
11歳の時宝幢寺の清叟、12歳の時建仁寺の慕詰に学んだ後、16歳の時生涯で最大の師ともいうべき西金寺の謙翁に出会います。
そして安国寺を出て謙翁に従うことにします。
その後の一休の人生はある意味で謙翁の境地に追いつくことであったとも言えるでしょう。

この謙翁が自分の名前宗為の一字を付けて宗純の名前を与えました。
宗純は師に付き従って超貧乏な生活の中修行を続けます。
この謙翁から宗純は禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきであることを学びました。

しかしその心酔していた謙翁が21歳の時死去。

宗純は途方に暮れ、一時は自殺未遂までしました。
しかし、ここで彼は、彼の才能を最も高く認めることになる大徳寺の華叟の門を叩きます。

この華叟のもとでの生活は謙翁のもとでの生活にも増して貧乏かつ厳しいものでした。
この華叟のもとで宗純はカラスの声を聞いて大悟。
華叟は彼こそ自分の後継者と考えて印可を与えようとしますが、宗純はそれを拒否しました。

彼にとっては印可さえも否定すべきものでした。
華叟が彼に一休の名を与えました。
一休の印可は本人が受け取らないまま、華叟のもとにずっと保管されることになります。

その後一休は諸国を放浪しながら禅の道を探索しました。
これ以降の一休の軌跡はしばらく庶民の中に埋もれてほとんど見えていません。
38歳の頃、亡くなる直前の実父・後小松上皇と1度だけ面会したことが記録されているのみです。
その間庶民の間で一休の人気は高まり、生き仏とみなされるようになりました。
また浄土真宗の中興の祖である蓮如とは深く親交し、互いにその凄さを認め合っていました。

81歳の時、一休は応仁の乱などの戦乱ですっかり荒れ果てた大徳寺の再建の為、その住職に任命されます。
庶民に人気のある一休の名前を利用して再建資金を集めようという朝廷の策でした。
むろん大徳寺の住職というのはこの当時単に名前だけですので、実際に一休が大徳寺に住むことはなく、相変わらず粗末な小屋で生活を続けました。
しかし、このことにより、一休を紹介する人はまず「大徳寺47世住持」の肩書きをつけます。

晩年の一休は旅芸人をしていた森(しん)という盲目の女と知り合い、愛を深めます。
森は約10年にわたって一休の世話をしました。
この時期、一休はまた漢詩集「狂雲集」をまとめています。
そして文明13年、大燈国師の命日に、森や幾人かの弟子に看取られてこの世を去りました。

『朦々淡々として六十年、末期の糞をさらして梵天に捧ぐ。借用申す昨日昨日、返済申す今日今日。借りおきし五つのもの(地水火風空の五大)を四つ(地水火風)返し、本来空に、いまぞもとづく』

さいごの言葉でした。

なお、一休の弟子としては、テレビアニメでもおなじみの蜷川新左衛門、茶道の元祖・村田珠光、などが有名です。




歌舞伎の日(11.21)
11月21日は歌舞伎の日です。
これは明治22年(1889)の11月21日に東京木挽町に歌舞伎座がオープンしたことを記念するものです。

歌舞伎を始めたのは江戸初期の「出雲の阿国(おくに)」です。
彼女は元々は鍛冶屋の娘(能楽師あるいは狂言師の娘という説も)で、出雲大社の巫女になって念仏踊りを踊っていましたが、豊臣秀吉の御伽衆の紹介により京都の四条河原(北野天満宮境内の説も)で念仏踊りの興行を実施。
人気を博しました。

これに刺激を受けたのが四条河原町付近にある多数の遊郭です。
遊郭が競って遊女達に男装させて阿国の一座に類似した踊りを踊らせ、これを遊郭の客引きに使用しました。
これを『女歌舞伎』といいます。

しかしこれは風紀上問題があるとしてすぐに禁止されます。
すると今度は女がだめなら男がいるさ、という訳で、元服前の美少年たちを動員した『若衆歌舞伎』がやはり同様に客引きをかねて実施されました。
するとこれもたちまち禁止されました。

しかし怪しげな興行の禁止は仕方ないとしても、この手の芸能を見たい人達のニーズはあります。
そこで生まれたのが、普通に男性の役者だけを使って演じる『野郎歌舞伎』でした。
これが現在の歌舞伎のルーツです。

やがてこの京の歌舞伎に刺激されて江戸にも歌舞伎を演じる劇場が生まれます。
その中でも正式に官許をもらって営業していたのが次の4座でした。

 中村座(猿若座) 初代中村(猿若)勘三郎が寛永元年(1624)に中橋で開業。

 市村座(村山座) 村山又三郎が寛永11年(1634)に宜町近くで開業。

 森田座 森田太郎兵衛(初代森田勘弥の養父)が万治3年(1660)木挽町で開業。
 
 山村座 山村長太夫が木挽町で開業。
 
森田座と山村座は向かい合わせで営業していました。
現在の歌舞伎座は実はこの森田座の跡に近い場所に建っています。
なお、森田座を初代森田勘弥の創始と書いている文献もあるのですが、実際は森田勘弥は森田太郎兵衛の養子になって跡を継いだもののようです。
この初代勘弥は初代坂東又九郎の実子で、守田と板東というのは創始以来の深い関わりにあります。

(この付近の歌舞伎役者の系列の話はまたいづれどこかで。なお森田勘弥は11代目から守田の字を使用している)

山村座は絵島生島事件で官許を取り消され廃業しました。
また森田座の方は天保13年(1842)に天保の改革により猿若町へ移転を命じられました。

やがて明治維新が起きて、世の中は全て西洋式が良くて日本式は価値がないようにいわれていた時代、その世相の中で西洋的な合理思想を背景にして、この伝統演芸を再生しようとした人がいました。
それが新聞社の経営者であった福地源一郎(1840-1906)で、彼はその新思想にもとづく演芸を上演するための新しい劇場を建設しようと考えました。
彼はその劇場を建てる場所として歌舞伎にゆかりの深い木挽町を選び、名前も「歌舞伎座」にしたのです。

この歌舞伎座のこけら落としには当時のトップスターである9代目市川團十郎・5代目尾上菊五郎・初代市川左團次がそろいました。
題目は河竹黙阿弥の「俗説美談黄門記」と大切所作事「六歌仙」でした。

福地源一郎が亡くなった後は劇場は松竹に接近、やがては経営権を移すことになり、大正3年以降は松竹が全面的に歌舞伎座を運営していくことになります。
劇場はなんどかの改修を経たのですが、大正10年火災で焼失。
再建途中に今度は関東大震災に見舞われ、再度作り直し。大正13年12月にやっと完成し、翌年新春から興行が再開されました。

しかしその劇場も昭和20年東京大空襲で焼失。
これが再建されたのは昭和25年12月。
興行が再開されるのは昭和26年1月3日になります。
こけら落としは『二条城の清正』『籠釣瓶』などでした。





インターネット記念日(11.21)
1969年の11月21日、アメリカのARPAネットの実験が始まりました。
これが結果的には現在のインターネットの元になっているので、この日はインターネット記念日になっています。

ARPAネットはアメリカとソ連の冷戦の産物です。
1957年ソ連が人工衛星スプートニクの打ち上げに成功。
アメリカは実際にソ連と戦争になった場合、宇宙から攻撃を受ける危険にさらされることになりました。
そこで宇宙開発にも慌てて大きな予算を割くと共に、宇宙戦争になった場合の防衛策を練るための研究所としてARPA(高等研究計画局−後の防衛高等研究計画局:DARPA)を組織しました。

ARPAの防衛システムの研究の中で、中心を持たない通信システムというものが提案されます。
どこかにホストがあってそこで軍事情報が集中管理されていたらそこを衛星軌道から狙い撃ちされると、アメリカの防衛機能は麻痺してしまいます。
しかし中心のない分散型のシステムであれば、やられた所を回避して、通信を続けることができますし、データも分散していれば1ヶ所やられたくらいでは平気です。

こういう思想のもとに生まれたのがARPAネットで、当初はカリフォルニア大学ロスアンゼルス校、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、スタンフォード研究所、ユタ大学の4ヶ所のコンピュータがパケット通信回線により相互接続されました。

1971年には接続箇所が19ヶ所に増え、1973年には同盟国のイギリス・ノルウェーとも接続されます。
1979年以降は同様のネットワークUSENET,BITNET,CSNET,またヨーロッパでEUNETなどが立ち上がり、1983年以降はこれらのネットが相互接続されるようになっていきました。
そして利用内容も当初の軍事利用から科学技術の研究、そして一般の商用利用へと発展していきます。

日本では1984年に村井純(当時は東工大助手)が中心になってJUNETが設立されまず東工大・慶応大・東大の相互接続が行われました。
参加大学は増えていき1986年にはアメリカのCSNETとも接続されます。
このJUNETで電子メール上で日本語を使用する時のルールなどが開発されました。
しかしJUNETはアメリカでネット接続の標準として固まったTCP/IPではなくUUCPを使用していました。

TCP/IPのネット設立の必要性を痛感した村井(当時は東大助手)はWIDEプロジェクトを立ち上げ、TCP/IPネットワークを作ろうとしますが、ここで問題になったのはこのネットを立ち上げるのに必要なルーターでした。
今でもルーターは高いですが当時は1000万円以上もするもので、通常の研究費ではとても買えない。
困っていた所に助け船を出したのがプロテオン社の営業をしていた高橋徹で、彼はハワイ大学に試供品として提供していたルーターの内の4台を無償で提供するという話を持ちかけ、村井はすぐにハワイに飛んでこれを持ち込みます。
この時、東京の税関で揉めたのだそうですが村井は「これは東大が使用するものであり、これが無ければ日本の科学技術は数年遅れてしまう」といって無理矢理通過させたというのは有名なエピソードです。

実際ここでTCP/IPネットワークが立ち上がっていなかったら、本当に日本のネット環境は世界標準から大きく立ち遅れることになっていたでしょう。

村井はこの提供されたルーターで東京・京都・大阪・福岡にネット管理センタ(NOC)を作り、ここに全国を結んだインターネットのバックボーンの基礎ができあがるのです。
日本のインターネット回線の多くはこのWIDEにつながるようにして増殖していきました。




で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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