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11月23日 勤労感謝の日(国民の祝日1948)、手袋の日(日本手袋工業組合1981)
     外食の日(日本フードサービス協会1984)、Jリーグの日(1993)
     いい兄さんの日、農林水産祭、ふみの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
キク(白)      真実               ○
シダ        愛らしさ・誠実・魅惑・夢・愛矯  ○
テッポウユリ    あなたは正直・純潔・甘美     ×
ミカン       あなたは純潔です・花嫁の喜び・清純○
メシダ       魅惑・魅力的           ×

∞…∞11月23日・今日という日 ∞…∞

飯島一馬   (1996)  ボウリング
岩崎ひろみ   (1976)  女優
三瓶   (1976)  タレント
おのまきこ   (1976)  花*花
茶野隆行   (1976)  サッカー
萬 雅之   (1976)  俳優
畑野浩子   (1975)  女優
細見大輔   (1973)  俳優
黒田哲広   (1971)  プロレス
松本亜紀   (1969)  タレント、元おニャン子クラブ
林田健司   (1965)  シンガーソングライター
ドン・フライ   (1965)  プロレス
杉山洋介   (1964)  paris match、元SALLY、G. Vo.
西森博之   (1963)  漫画家 「今日から俺は!」
士郎正宗   (1961)  漫画家 「攻殻機動隊」
ブルック・ジャコビー   (1959)  野球
山口弘和   (1956)  コント山口君と竹田君
シーナ   (1954)  シーナ&ザ・ロケッツ、Vo.
聖 悠紀   (1949)  漫画家 「超人ロック」
鶴見五郎   (1948)  プロレス
綿引勝彦   (1945)  俳優
堺すすむ   (1942)  ギター漫談
十朱幸代   (1942)  女優
栗本慎一郎   (1941)  政治家
たこ八郎   (1940)  ボクシング
大木 淳   (1940)  映画監督
大坪元雄   (1939)  競馬評論家
青木盛久   (1938)  外交官
青山京子   (1935)  女優
田中邦衛   (1932)  俳優
シュリ・サティア・サイババ   (1926)  宗教家
小林桂樹   (1923)  俳優
白井義男   (1923)  ボクシング
小松原三夫   (1917)  ゴルフ
田村魚菜   (1915)  料理研究家
清川虹子   (1912)  女優
常ノ花寛市   (1896)  相撲
久米正雄   (1891)  作家、劇作家
ボリス・カーロフ   (1887)  俳優
浄厳   (1639)  僧侶
中原師遠   (1070)  官吏

 ○ 関東地方に元禄大地震。小田原城破損。マグニチュード8.2。死者2300人以上
 ○ 富士山が大噴火し宝永山ができる(1707)
 ○ 大相撲で初めて女性の見物が許可される(1872)
 ○ サンフランシスコで世界初のジュークボックス誕生(1889)
 ○ 樋口一葉、没。25歳(1896)
 ○ 大日本スケート競技連盟結成(1929)
 ○ アメリカで「ライフ」誌創刊(1936)
 ○ 角川書店創業(1945)
 ○ 第一回全日本合唱コンクール(1948)
 ○ 朝鮮戦争休戦(1951)
 ○ 初の日米間テレビ宇宙中継受信実験でケネディ大統領暗殺を伝える(1963)
 ○ Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)の初の公式戦、 ナビスコカップ決勝が東京の国立競技場で行なわれる(1992)

勤労感謝の日
「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝し合う日」として1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日。
戦前はこの日を新嘗祭と呼び、宮中では天皇が新しい米などを神殿に供えた。

新嘗祭
1873(明治6)年から1947(昭和22)年までの祭日。天皇が新穀を天神地祇に勧め、また、親しくこれを食する祭儀。明治5年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていた。
明治6年から太陽暦が導入されたが、そのままでは新嘗祭が翌年1月になることもあって都合が悪いので、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととし、明治6年ではそれが11月23日だった。
翌明治7年には前年と同じ11月23日に行われ、以降11月23日に固定して行われるようになった。戦後は皇室典範からこの儀式は除外されたが、各地の神社での新穀感謝の祭事は続いている。

Jリーグの日
1992年(平成4年)のこの日、Jリーグ初の公式戦の決勝戦が行われたことを記念して1993年(平成5年)に制定。

いいふみの日
郵政省が制定。「いい(11)ふみ(23)」の語呂合わせ。

外食の日
1984年(昭和59年)に日本フードサービス協会が協会創立10周年を記念して設けた日。
家族で外食することの楽しさを知ってもらおうと、祝日の勤労感謝の日としたという。

手袋の日
1981年(昭和56年)に日本手袋工業組合が設けた日。
冬に向かい手袋の需要が増すことから、手袋PRを目的に勤労感謝の日を選んだ。

いい兄さんの日
「いい(11)にい(2)さん(3)」の語呂合せ。

ゲームの日
全日本アミューズメント施設営業者協会連合会・日本アミューズメントマシン工業協会・日本SC遊園協会が制定。
仕事や勉強の尊さをはっきり自覚しながら、ゆとりある遊びとしてのゲームを楽しみ、ゲームと生活との調和が感じられる日であるとして、勤労感謝の日を記念日とした。

いい家族の日
全国家族新聞交流会が制定。 「いい(11)ファ(2)ミ(3)リー」の語呂合せ。

一葉忌
小説家・樋口一葉の1896(明治29)年の忌日。




いいふみの日(11.23)
毎月23日は「ふみ(文)の日」ですが、特に11月23日は「いいふみ(良い文)の日」になっています。

「ふみの日」は郵政省(現郵政公社)が1979年に定めたもので「手紙の楽しさ、手紙を受け取るうれしさ」を通じ、文学文化を継承する一助となるようにとの趣旨のものです。
文月23日ということで7月23日も重視されています。

1979年当時は電話がようやく国民一般に行き渡ってきた頃で、コミュニケーションの主役が手紙から電話に移ろうとしていた時期。
それに対する危機感もあったのでしょう。
それが今度は電子メールへと移っていくことを誰が想像したでしょうか。
その通信関係の企業を統括していたのも郵政省でしたが、郵便局が民営化されていたら、今度はNTTグループに拮抗する、巨大な通信会社になっていたかも知れません。
(NTT<電電公社も郵政公社も、元をただせば逓信省で戦後分割されたもの)

現在手紙といえばほとんどがビジネスレターと年賀状・暑中見舞などの儀礼的なものになってしまいました。
知人に用事があれば、だいたい電話するかメールするかですね。
手紙で送らなければならないのは、概してかなり角の立つ用件です。
ラブレターも紙に書いて渡すというのは中学生の最初の告白の時だけ、という感じで、親しくなってしまえば電話か携帯メールというのが普通になってしまいました。
郵便受けに入っているのは、チラシ・広告・DM・通販カタログ・請求書、あるいは封筒に入る程度の品物が送られてたケースです。

しかし昔は遠くに住む人とのコミュニケーションは手紙以外の手段がありませんでした。
どこの国でもある程度政治的に落ち着いた地区では、駅の制度を作り、リレー方式で手紙が送られるシステムを確立していました。
江戸時代の日本でも宿場ごとにそういう拠点が作られ、特に急がない手紙は飛脚が馬に多数の郵便物を積んで引いて次の宿場まで歩いて運んでいました。

いわゆる「飛脚」のイメージにある、文箱をくくった棒を持ち走っていくようなものは、特別料金を払った「速達」です。
更に急ぐものは早馬を仕立てていました。
この場合、駅ごとに馬を替えてリレーするので、今ならバイクで運ぶくらいの速度で手紙を運んでいたようです。
「忠臣蔵事件」では江戸から赤穂まで、主君切腹の報せが届くのに4日もかかっていますが、これは生類哀みの令のおかげで早馬が使えなかったためだそうです。
ほんとにあの時代に外国が攻めて来なくて良かったですね。





勤労感謝の日・新嘗祭
勤労感謝の日は戦後国民の祝日が定められた際(1948)に「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨で定められました。
アメリカのLabor Day に相当するものと思われますが(「勤労感謝の日」ならLabor Dayに相当しますが「新嘗祭」ならむしろThanks Giving Dayに相当するのかも知れません。これは11月の第四木曜です。日程的にも日本の現在の新暦による新嘗祭と重なります。ただ本来はThanks Giving Dayは新嘗祭より神嘗祭の方なのかも知れません。)、アメリカのLaborDayは9月の第1月曜です。
しかしこの11月23日は明らかに新嘗祭を意識して定められたものということで、論者の間にも意見の相違はないものと思われます。

新嘗祭(にいなめさい)は古くからの国家の重要な行事であり「瑞穂の国」の祭祀を司る最高責任者である大王(おおきみ,天皇)が国民を代表して、農作物の恵みに感謝する式典でした。
「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことをいいます。

律令制度のもとでは、季秋(9月)11日に神嘗祭(かんなめのまつり),仲冬(11月)の最初の卯の日に相嘗祭(あいなめのまつり),2番目の卯の日に新嘗祭(にいなめのまつり)を行うことになっていました。
この新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行うものを特に大嘗祭(おおなめのまつり)といい、これが実質的にその天皇の即位を天下に知らしめる大規模な祭典となっていました。

現在は新暦に移行したため、伊勢神宮では10月の15〜25日に神嘗祭、11月23日に新嘗祭を実施しています。
宮中では10月17日が神嘗祭,11月23日が新嘗祭です。
昔はその年の新米は新嘗祭が終わるまでは誰も食べないのが習慣でした。
陰暦の11月の第二卯日というと太陽暦で見ればこれはちょうど冬至頃に相当します。

日本には昔からいろいろなダブルスタンダードがあるのですが、基本的に公式の暦は中国風に立春から始めるということになってはいても、実はここに農業民族最大の祭典である新嘗祭をほぼ冬至に行うということで本当は1年を冬至から始めていたわけです。
新嘗祭はつまり本当は新年の祭りであり、だからこそ、大規模な式典が行われ、天皇にとっても重要な儀式であったわけです。

新嘗祭がいつ頃から行われていたのかは必ずしもはっきりしないのですが、日本書紀で皇極天皇元年(642)の11月16日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初です。
この日は西暦では642年12月12日(グレゴリウス暦642年12月15日)で干支は丁卯にあたり、既にこの時代には新嘗祭は11月の第二卯日というのが、確立していたのでしょう。

昔は新嘗祭の前日(つまり大晦日)には鎮魂祭(たましずめのまつり)が行われ、翌日に群臣が小忌衣を着て集まって豊明節会(とよあかりのせちえ)が行われ、各氏族の自慢の姫たちによる五節舞(ごせちのまい)が舞われました。
むろんその中で大王が目を留めた姫はそのまま入内する意味も兼ねていたようです。

なお「五節舞」という名前は、その舞の見事さに天の貴人たちが見物に降りてきて、その様がまた慶ばしいこので、その天女たちを大王が五度見上げた、ということから名前が付いています。
通常の新嘗祭では舞姫は4人、大嘗祭の時だけは5人で、いづれも卯日をはさんで2日前の丑日から翌日の辰日まで、4日間(つまり大晦日〜正月三日)行われました。

この新嘗祭関連の民俗行事としては、やはり年迎え的な行事が残っています。
能登半島の「あえのこと」などは、まさに「あえ(饗)」は嘗の意味でしょう。
東日本各地には「油しめ」といって、餅をつきテンプラを食べて髪に油を付けるという行事があります。




富士山大噴火(1707)
宝永4年(1707)11月23日、富士山は有史に残る中で最大の噴火をしました。

富士は古来より名山として知られ、日本の象徴とされてきました。
富士山に関する最も日付の古い記録は孝安天皇92年(BC301)庚申の年に、雲霧が晴れたところに米俵を積み上げたような山の勇姿が現れた、というものです。
孝安天皇は実際にはAD3世紀頃の人と思われます。
この伝承により庚申の年は富士山に縁のある年とされています。

富士山の神様は木花咲夜姫(このはなさくやのひめ)。
日本の山を統括する大山祇神(おおやまずみのかみ)の娘で、姉が石長姫(いわながひめ)。
こちらは浅間山の神様です。
木花咲夜姫を祀るのが全国1300社ほどある浅間神社(せんげんじんじゃ/あさまじんじゃ)で、その中心は南側が富士宮市の富士山本宮浅間神社(せんげんじんじゃ)、北側が山梨県一宮町の山梨浅間神社(あさまじんじゃ)です。「あさま」は通常「浅間」と書きますが「朝天」という書き方も過去には見られます。

古事記では、木花咲夜姫は初代天皇・神武天皇の曾祖母にあてられています。
また竹取物語ではかぐや姫が残していった「不死」の薬を大勢の人々(富士)が奉じて頂上で燃やしたということになっており、(不死の薬が燃えているから)いつまでも煙が出ているとされています。

富士山の名前については「不二」「不尽」「布士」などの文字も見られます。
「富士」という書き方は中世頃からのようです。
美称としては芙蓉峰・蓮華峰などというものもあります。

富士山(3776m)という山は4層構造になっています。
一番下の地盤になっているのは御坂統(みさかとう)という地層で、これは約2000万年前に形成されたものです。

その上に、20〜40万年前頃、小御岳(こみたけ)と愛鷹山(あしたかやま)が出現して、安山岩性の激しい噴火活動をしました。
この愛鷹山は現在でも富士山の南側にその姿をほぼそのまま残しています。(標高1504m)

その後、2〜8万年ほど前に、小御岳の上に、古富士山が出現して活動をしました。
この火山も激しい火山で玄武岩と火山灰の混じった泥流や火砕流を多く流しました。
そして1万年前頃から現在の富士山が活動を始めます。

この山は柔らかい玄武岩質の柔らかい溶岩を何度も流し、小御岳・古富士を飲み込んでしまいました。
新富士山の特に大きな噴火は1万年前と2200年前です。
その後、歴史時代に入ってからの噴火記録は次のように17回あります。

からの噴火記録は次のように17回あります。

1. 781 桓武天皇の世。この噴火の後、北口浅間神社が現在地(富士吉田市)に移されたとされています。

2. 800-802 同じく桓武天皇の世。大噴火で、昼間でも真っ暗になるほど火山灰が降り、川は真っ赤になったと記録されています。足柄路が溶岩が熱いまま通れなくなったため、代わりに箱根路が開かれました。

3. 826 藤原冬嗣がなくなった年。

4. 864 清和天皇の世。大噴火で、青木ヶ原溶岩流が「せの海」を分断し、西湖・精進湖が生まれました。この後、山梨浅間神社が現地に移動しました。

5. 870 清和天皇の世。

6. 932 朱雀天皇の世。

7. 937 朱雀天皇の世。この噴火で山中湖が形成されました。

8. 952 村上天皇の世。

9. 993 一條天皇の世。

10. 999 同。

11. 1017 藤原道長の時代。

12. 1033 藤原頼通の時代。

13. 1083 後三年の役が起きた年。

14. 1435 後花園天皇の世。

15. 1511 吉田兼倶が亡くなった年。

16. 1707 徳川綱吉の時代。大噴火。関東一円に大量の火山灰を降らせて農業に大きな被害を与えた。川が埋まってしまって氾濫を起こした例もある。この時の火口が、富士山にこぶのように付いている宝永山(2693m)です。

17. 1854 安政の世相の騒がしい時代。雪が融ける程度の小噴火。

(噴火の年代については資料によりばらつきがありますが、上記は理科年表の記事をベースにしました)

宝永4年の大噴火は11月23日の朝10時ころから始まり、約半月続きました。
吹き出した火山灰の量は8億立方メートル。
積もった火山灰の厚さは遠く離れた横浜でも5cmほどになりました。
3つの火口ができており、噴火は下の方の火口から順に起きました。
この噴火の1月半前の10月4日には、遠州灘と紀伊半島沖で巨大地震が2つ同時に発生しており、この地震だけで2万人の死者が出ています。
宝永の大噴火もこの宝永大地震が引き金になったと言われています。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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