戻る ▲トップページ

11月03日 文化の日(国民の祝日,1948)、レコードの日(日本レコード協会)
     ハンカチーフの日(日本ハンカチーフ連合会)、文具の日、うるしの日
     明治神宮祭

花ノ名前      花ことば            誕生花として
キク        私を信じて下さい・女性的な愛情
          清浄・高潔・破れた恋・真の愛   ○
キク(黄)      やぶれた恋・高潔         ○
ブリオニア     拒絶・断念・自制         ○
フレンチ・マリーゴールド
          嫉妬・大人びた配慮        ×

∞…∞11月03日・今日という日 ∞…∞

うしくん   (1998)  人形、パペットマペット
カエルくん   (1998)  人形、パペットマペット
錦戸 亮   (1984)  タレント、NEWS、関ジャニ∞
エフゲニー・プルシェンコ   (1982)  フィギュアスケート
平岩 紙   (1979)  女優
渡瀬美遊   (1979)  タレント、女優
武幸四郎   (1978)  競馬騎手
敦賀信人   (1977)  カーリング
原口あきまさ   (1975)  タレント
新塾マンモス   (1975)  タレント、超新塾
内藤聡子   (1974)  キャスター、気象予報士
TOMO   (1972)  声優、タレント、元 少女隊
高岩成二   (1968)  アクション俳優
墨田ユキ   (1967)  女優
アンディ・スターマー   (1965)  ミュージシャン
木村匡也   (1965)  ナレーター
神奈月   (1965)  タレント
現代洋子   (1964)  漫画家
神取 忍   (1964)  プロレス
向井亜紀   (1964)  タレント
ハン・ソッキュ   (1964)  俳優
中島文明   (1957)  ダンガンブラザースバンド、Vo. 作詞家、作曲家
堤 幸彦  (1955)  映画監督
小林たつよし   (1955)  漫画家 「リトルコップ」
宮本文昭   (1949)  オーボエ奏者
高田 明   (1948)  ジャパネットたかた社長
柄本 明   (1948)  俳優
リチャード・アレン・クルーガー   (1948)  野球
河村たかし   (1948)  政治家
ゲルト・ミューラー   (1945)  サッカー
三原綱木   (1945)  元 ブルーコメッツ
亀渕友香   (1944)  ゴスペルシンガー
渡辺元智   (1944)  高校野球監督
河原崎健三   (1943)  俳優
ペドロ・モラレス   (1942)  プロレス
長坂秀佳   (1941)  作家、脚本家
佐々木竹見   (1941)  競馬騎手
松本育夫   (1941)  サッカー
小林 旭   (1938)  歌手
さいとう・たかを   (1936)  漫画家 「ゴルゴ13」
西村寿行   (1930)  作家
小島剛夕   (1928)  漫画家 「子連れ狼」
手塚治虫   (1928)  漫画家 「鉄腕アトム」
山口 瞳   (1926)  作家
櫟木久助   (1926)  オクモリ会長
山崎豊子   (1924)  作家
外山滋比古   (1922)  評論家
チャールズ・ブロンソン   (1921)  俳優
増位山大志郎 (初代)   (1919)  相撲
高橋 鉄   (1907)  性風俗研究家
浪越徳治郎   (1905)  指圧師
毛利菊枝   (1903)  女優
秋元不死男   (1901)  俳人
山口誓子   (1901)  俳人
早川徳次   (1893)  シャープ創業者
桂 文楽 (八代目)   (1892)  落語家
近藤乾三   (1890)  能楽師
アドルフ・ダスラー   (1900)  アディダス創業者
山川菊栄   (1890)  評論家
渡辺 節   (1884)  建築家
福来友吉   (1869)  心理学者、心霊学研究者
高峰譲吉   (1854)  応用化学者
田中正造   (1841)  政治家
ジョン・モンターギュ・サンドイッチ   (1718)  貴族、政治家
足利義昭   (1537)  室町幕府将軍
武田信玄   (1521)  武将

 ○ 「君が代」、宮中で初めて演奏(1880)
 ○ 東京初のホテル、帝国ホテル開業(1890)
 ○ 第一回体育デー(1924)
 ○ 「類猿人ターザン」帝都座で公開(1932)
 ○ 小西六が国産初のカラーフィルム発表(1940)
 ○ 日本国憲法公布(1947年5月3日施行)(1946)
 ○ 物理学者・湯川秀樹、中間子理論の研究により日本人初のノーベル物理学賞受賞(1949)
 ○ 映画「ゴジラ」封切(1954)▲法隆寺金堂の昭和大修理、20年で完了(1954)
 ○ 船橋に初のヘルスセンター誕生(1955)
 ○ スプートニク2号で初めて宇宙を飛んだ犬、ライカ犬死す(1957)

祝日・休日 文化の日
自由と平和を愛し、文化をすすめる

文化の日
1948年(昭和23年)に「自由と平和を愛し、文化を進める日」として国が制定した国民の祝日。

天長節(明治)
1873(明治6)年から1911(明治44)年までの祝日。
明治天皇の誕生日。
1872(明治5)年までは9月22日に行われていたが、1873(明治6)年の太陽暦の採用にともない、9月22日を太陽暦に換算した11月3日に変更された。
1912(明治45)年7月30日の明治天皇の崩御に伴い廃止され、昭和に入ってから「明治節」として復活した。

明治節
明治時代の天長節。
詳しくは「天長節(明治)」を参照のこと。

レコードの日
1957年(昭和32年)に日本レコード協会が「レコードは文化財」との考えから文化の日をレコードの日と設定した。

文具の日
1987年(昭和62年)に東京文具事務用品商業組合ら文具業界が「文化と文具は歴史的にも同じ意味を持ってきた」との見地から文化の日を文具の日と制定。

晴れの特異日
晴れる確率の高い日。

サンドウィッチの日
サンドウィッチ店チェーンの神戸サンド屋が制定。
サンドウィッチの生みの親とされるイギリスのサンドウィッチ伯爵(Sandwich 1718-1792)の誕生日であり、また「いい(11)サン(3)ド」の語呂合せ。

ゴジラの日
1954(昭和29)年、東宝の怪獣映画「ゴジラ」の第1作目が封切られました。

いいお産の日
「いいお産の日実行委員会」が1994(平成6)年から実施。
「いい(11)おさん(03)」の語呂合せ。
出産の現状をもっと多くの人たちに知ってもらい、今のお産の状況を少しでもより良いものにして行く日。

まんがの日
日本漫画家協会と出版社5社が2002(平成14)年8月に制定。
「漫画を文化として認知してもらいたい」ということから、文化の日を記念日とした。

みかんの日
全国果実生産出荷安定協議会と農林水産省が制定。 11月3日と12月3日の年2回実施。

ハンカチーフの日
日本ハンカチーフ連合会が1983(昭和58)年に制定。フランスのルイ16世の王妃マリー・アントワネットが、国内のハンカチはすべて正方形にするようにという布告をルイ16世に出させたことから、マリー・アントワネットの誕生日11月2日に近い祝日を記念日とした。

クエンカの独立記念日(エクアドル)

独立記念日(ミクロネシア連邦)

コロンビアからの独立の日
(パナマ) 1903年、パナマがコロンビアから分離独立しました。




崇峻天皇の暗殺(592)
崇峻天皇5年(592)11月3日、天皇が当代一の実力者・蘇我馬子に弑し奉られるという事件が起きました。

古来、暗殺されたと思われる天皇は何人かいますが、これほど明確に記録されているのは崇峻天皇が唯一の存在です。

崇峻天皇(泊瀬部天皇:はつせべのすめらみこと)は元々、蘇我と物部の勢力争いに乗じて即位した天皇です。

用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなったあと、誰を次の天皇にするか、もめている最中に、最有力候補であり物部が推していた穴穂部皇子が蘇我の兵に殺害されてしまいます。

物部と蘇我は仏教を受け入れるかどうかについても対立していました。

古くからの伝統を持ち物部神道を擁する物部一族は当然排仏派。
これに対して新興勢力で宗教的基盤のない蘇我は仏教を導入して、それを自分たちに都合のよい宗教勢力に育てようとしていました。
そしてここにきて天皇後継者を巡る争い。

そこでこの穴穂部皇子殺害事件をきっかけに両者は武力衝突に至ります。
このとき、敏達天皇妃の額田部皇女(後の推古天皇)・聖徳太子・泊瀬部皇子らが蘇我側に参加しました。

はじめ元々「もののふ」を支配する故に物部の名を持つ、軍事的経験の深い物部が優勢でしたが、やがて当時14歳の聖徳太子が急いで四天王の白木の像を彫り、それを掲げて先頭に立って進軍すると、蘇我側の志気は上がり、やがて物部の大将である物部守屋が、蘇我側の遠距離からの弓矢攻撃により射殺されますと、物部は総崩れになって、蘇我の圧勝に終わりました。

そしてこの戦争の勝利の結果、蘇我軍に参加した泊瀬部皇子が天皇に就任することになりました。(崇峻天皇)

天皇には蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)と、大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が入内しますが、奇妙なことにどうも小手子の方が正妃的な立場にあったようです。
天皇と小手子の間には皇子と皇女が一人ずつ生まれています。
あるいは天皇になる前からの妻なのかも知れません。

また、蘇我勢力に支援されて天皇になったものの、蘇我馬子との関係は必ず
しもよくなかったようです。そして4年後。

崇峻天皇5年10月4日、天皇に猪を奉る者がありました。
すると天皇は「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」とおっしゃいました。

このことを、日本書紀では小手子が馬子に手紙で報せたと書いてあるのですが、大伴の娘がわざわざ蘇我にこんなことを報せる道理がありませんので、実際は河上娘が報せたのでしょう。

そして天皇はなぜか武器を集めさせはじめました。

こんな機会を馬子が逃す訳がありません。
「天皇が自分を無実の罪で討とうとしている。だから自分は正当防衛で天皇を討つ」そういう「正当な理由」を馬子に与えてしまいました。

蘇我馬子は蘇我に忠実な東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)という者を刺客として崇峻宮に送り込み、これを暗殺しました。
ここで誤算だったのは、直駒は調子にのって後宮にいた美女を略奪してしまいます。
ところが、これがなんと馬子の娘の河上娘でした。

そこで直駒は折角危険で重要な任務を果たしたのに馬子の命で殺害されてしまうことになります。
もっとも天皇殺害犯ですから、こういうことがなくても、できれば何かの理由をつけて消しておきたかったかも知れません。

なお河上娘のその後の消息については日本書紀は何も語っていません。
天皇の元妻では再婚できる相手も限られるので、あるいは尼にでもなったかも知れません。
ただし、河上娘は後に聖徳太子の妃となった刀自古娘(とじこのいらつめ)と同一人物ではないかとの説もあります。
確かに相手が事実上の天皇である聖徳太子なら再婚もノープロブレムです。

なお、崇峻天皇の皇子の蜂子皇子(はちすのみこ)は聖徳太子に助けられて都を脱出し、東北まで逃れて、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)を開いたといわれています。

崇峻天皇亡き後は、額田部皇女が数十年ぶりの女帝として即位し、聖徳太子を摂政とし、馬子を大臣として、トロイカ体制による政権が発足。
やがて十七条憲法・冠位十二階が定められて、日本の法治政治の歴史が始まります。




武田信玄(1521-1573)
元亀4年(1573)4月12日、甲斐の武田信玄が上洛を目前にして亡くなりました。
53歳でした。

武田は清和源氏の子孫です。新羅三郎義光の子の義晴が甲斐の武田村に入りここから武田一族が興っています。
東北の南部氏、また支流の多い小笠原氏もこの武田の傍系です。
信玄(晴信)は義晴から数えて18代目になります。

信玄は武田信虎の嫡子として大永元年(1521)11月3日に生まれました。
幼名は太郎。16歳で元服。将軍・義晴から一時もらい晴信と名乗ります。
天文10年(1541)に父を追放して甲斐国の主となりました。
(この年、海野平を攻めて海野棟綱の領地を取得。海野に仕えていた真田幸隆は1545年より武田に従う)

当時日本は1467年の応仁の乱以降、国全体の統制が失われ群雄割拠の時代になっていましたが、この武田信玄やそのライバルであった上杉謙信(長尾景虎)あたりから、この状況を解消し、天下を統一しようという思想が出てきます。
そのためには卓越した軍事力を掌握する必要がありました。

信玄は他国に大いに恐れられた騎馬隊を含め鉄壁の戦力を築き上げ、象徴として風林火山の旗を立てました。

 疾如風  はやきこと風のごとし
 徐如林  しずかなること林のごとし
 侵略如火 おかすこと火のごとし
 不動如山 うごかざること山のごとし

孫子の中の一節です。
信玄は政治的・軍事的な才能のみならず教養も高く、学芸方面の知識が豊富であったようです。
ただし新しいことには概して疎かったともいいます。

信玄と同じ頃にやはり天下統一を志向しだした上杉謙信とは1553〜1564年の5度にわたって川中島の決戦を行い、謙信と信玄の一騎打ちまであったといいますが、決着は付きませんでした。

そうこうするうちに南の今川と衝突します。今川は将軍家・足利家に比較的近い関係にあり、今川義元も将軍家を中心に天下統一を志向していましたが1560年にその義元が桶狭間の戦いで尾張の小大名・織田信長に倒されるハプニングもありました。
しかしその子の氏真は体制を立て直し、再起の機会を待っていました。

その今川氏真は1567年に甲斐と駿河の往来を禁止します。
このため塩が甲斐に入ってこなくなって、本当に困りますが、ここで信玄のライバル上杉謙信が窮状を見かねて日本海の塩をプレゼント、危機を脱しました。
信玄は1567年には娘のお松を信長の嫡子信忠と結婚させ、1568年には三河の徳川家康とも同盟を結んで今川に対抗しました。
そしてその今川を破るのは1570年のことです。

しかし今川が倒れると、織田も徳川も今度は武田を脅威に感じます。
両者は武田との同盟を破棄。連合して武田と睨み合う形になりました。
そして元亀3年12月22日、両者は三方ヶ原の合戦で激突します。

結果は武田軍の勝利。
家康も必死の奮戦を見せましたが老獪な信玄の采配の前になすすべもありませんでした。
負けを悟った家康は自刃しようとしますが夏目次郎左右衛門が止め、家康を無理矢理馬に乗せて、その馬の尻を槍でつついて逃したといわれています。
しかし信玄はこの奮戦した家康を敵ながら、あっぱれな武人であると高くかったともいいます。

しかし折角ここで家康を破ったにも関わらず、信玄は病に倒れてしまいました。
いったん信州の駒場城まで引き返し、療養に努めますが、回復はおもわしくなく、とうとう4月12日の夜遅く、息を引き取りました。

死にあたって信玄は自分の死後のことを心配し、自分の死を3年間伏せよと遺言します。
しかし、それが可能な時代ではなく、2年後の1575年の長篠、武田軍はリベンジに燃える織田・徳川連合軍に新兵器の銃の連射をくらって騎馬隊が壊滅。
それを機会に家臣団が次々と離反し、武田家は滅亡しました。




早川徳次生れる(1893)
1893年11月3日、シャープの創業者の早川徳次が東京で生まれました。

9歳でカンザシ職人の見習いになり、金属加工に関するわざを身につけます。

何かと工夫が好きで、いろいろな発明をしていましたが、19歳の時にベルトに穴を開けずに留められるバックルを考案。
これを「徳尾錠」と名付けて特許を取りました。このバックルは大量に売れて、徳次はその売上を元に自分の工場を設立します。
最初の従業員は徳次を含めて3人でした。

3年後の1915年、徳次は当時あった「繰出鉛筆」というセルロイド製の筆記具に改良を加え金属製で使いやすい筆記具を完成。これをスクリューペンシルと名付けて売り出しました。

この筆記具はまだ筆の文化である国内では当初反応がにぶかったのですが、ペンの文化の欧米でたいへん注目され、結果的にはそれに引きずられる形で国内でも販路が開けていきました。
徳次はこの年「早川兄弟商会金属文具製作所」を設立。この筆記具の生産に力を入れるとともに、名称もエバー・レディ・シャープ・ペンシル(常に先がとがっている鉛筆)と改名、更に後には単純にシャープ・ペンシルという名前にしました。
これが後に社名の元となりました。

シャープペンシルの事業は非常に好調でしたが、運命の1920年9月1日。
東京は関東大震災に襲われます。

この震災で徳次は奥さんと2人の子供を失い、自らも怪我をしました。
工場もだめになってしまいました。
傷心の徳次は生まれ故郷を離れ、大阪に移って、ラジオの製造の研究に手を染め、1925年4月、国産初の鉱石ラジオの製造に成功します。
この年6月大阪NHKがラジオ放送を開始。
早川のラジオは飛ぶように売れました。
このラジオにはまもなく「シャープ」という銘が入れられるようになります。
そのため、ラジオ放送の普及とともに、全国にラジオの製造メーカーとしてのシャープの名前が知れ渡ります。

シャープはその後戦後になりテレビ放送が始まるとそれに合わせてテレビを発売。
1956年には「シャープ電機株式会社」を設立。更にはその他の電化製品にも手を広げ、総合電機メーカーとして成長していきます。

1960年にはコンピュータ業界にも進出。
1964年には世界初の電卓を発売、更には1973年には世界初の液晶表示小型電卓を発売しました。
今日のシャープのイメージに大きく関わる技術開発でした。

徳治は1970年に会長に退きますが、この年、会社本体も「シャープ株式会社」に改名しました。
そして1980年6月24日逝去しました。

その7年後の1987年、シャープは本格的な電子手帳を発売。
とうとうシャープは会社の原点となった筆記具の世界に戻ってきました。
今日電子手帳の定番ともなっているザウルスなどについて、徳次は恐らく天国から嬉しそうに眺めていることでしょう。





手塚治虫(1928-1989)
11月3日は『漫画の神様』手塚治虫の誕生日です。
手塚は決して絵がうまい訳ではなかったのですが「子供だまし」ではない、本格的なストーリー構成と思想を持った作品を数多く世に送り出し、その後の多くの漫画家に強い影響を与えました。
日本に今日のような漫画文化が成立し、大人が読んでも面白い作品が多数あるのは、ひとえに手塚の功績ということができるでしょう。

手塚治虫(本名治)は1928年11月3日、大阪府豊中町(現豊中市)で生まれました。
少年時代に田河水泡の「のらくろ」などを愛読、海野十三の小説にも夢中になります。
小学校時代に既に漫画を描いてガリ版刷りで印刷して配布したりしていたようです。
彼のレギュラーキャラである「ヒゲオヤジ」が登場する漫画も中学時代に描いていました。

1946年彼のメジャーデビュー作となる「マアチャンの日記帳」が少国民新聞(後の毎日小学生新聞)に連載されました。
1950年には「漫画少年」に「ジャングル大帝」が連載、そして1953年に有名なトキワ荘に住むようになります。
ここには後に、赤塚不二夫・藤子不二雄(二人とも)・石ノ森章太郎らが入ってきて、一大若手漫画家拠点になりました。

1955年には「リボンの騎士」がラジオで連続ドラマとして放送され1957年には「鉄腕アトム」の紙芝居版のテレビ放送が始まります(アニメ版は1963年)。
1965年には更に「W3(ワンダースリー)」「ジャングル大帝」のアニメも放送開始されるのですが、このあたりから色々ともめ事も起きてきます。

このW3に関しては最初「少年マガジン」に連載され始めたのですが3回目までいったところで、ファンの方ならご存じのトラブルがあり「少年サンデー」に移動してしまいました。
そのためW3の単行本には長らく最初の3回が収録されていませんでした。(手塚治虫全集でやっと収録された)

この時期にはファンクラブ組織に関するトラブル、テレビ放映に関するトラブルなどが集中しています。

その嫌な空気を払いのけるように1971年には「不思議なメルモ」をテレビ放映しますが、ここ数年の無理がたたって1973年に虫プロ倒産の事態に至ります。

しかしそれでも手塚は不死鳥のように蘇ります。新たな境地を切り開く漫画「ブラックジャック」を少年チャンピオンに読み切りで掲載した所思いがけない反響を呼び、これが連載に切り替わります。
この作品は第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞しました。
そしてこのような劇画路線の上に鬼作「アドルフに告ぐ」なども生まれました。
この作品を書いている時は手塚は途中で体調を崩して入院したりしています。

手塚は最後まで現役の漫画家でありつづけましたが1988年3月腹部の痛みを訴えて入院、2度の手術をして一時期は退院もしたのですが、1989年2月9日胃癌の為死去しました。
享年60歳。
それは彼が遺した膨大な作品(約700点)に比べると極めて短い人生でした。

ジャングル大帝
人間社会で育てられた白ライオンの子レオがジャングルに戻り、やがて森の王者になるまでを描く。
「ジャングルブック」「バンビ」などに刺激を受けて制作された作品で、レオは後に西武ライオンズのシンボルに採用された。
ディズニーが後に「ライオンキング」を発表した時にジャングル大帝に酷似しているとしてファンが抗議をしたのは有名。

鉄腕アトム
人類の文明の行く末を問いかける問題作である。
このテーマはトキワ荘の後輩・石ノ森章太郎にも引き継がれ、石ノ森は「サイボーグ009」「キカイダー」「仮面ライダー」といった一連の作品で社会に問い続けた。
ただしテレビでの鉄腕アトムはごく単純な勧善懲悪の物語に仕上げられている。
その脚本を書いていたのは辻真先(現推理作家−彼も思想的に手塚の後継者の一人である)らである。

テレビでは最初紙芝居版、ついで実写版が制作され、その後アニメ版が生まれた。
このアニメは国産初のアニメである。また後に改変されて「ジェッターマルス」というタイトルでも放送されたが往事の鉄腕アトムほどの人気は盛り上がらなかった。
なおアトムはサンケイ・アトムズ(現ヤクルト・スウァローズ)のシンボルマークに使用されていた。
 
今のようなブルーバック撮影のような技術がなかった時代で、アトムが空を飛ぶシーンはアトムを演じている子役をビルの上からピアノ線で吊って撮影する、などという、とってもコワイ撮影の仕方をしたらしい。

リボンの騎士
これは多数のバージョンがあり、その中のふたつのバージョンが手塚治虫全集に収録されている。
シルバーランドの王女(王子)サファイアは天使のいたづらのために本来の女の子の心の他に男の子の心も持って生まれてきた。
男子にしか王位継承権がないため昼間は王子として振る舞うが、プライベートな時間の中では娘の姿に戻り「亜麻色の髪の乙女」として隣国の王子フランツに恋される。
王位を狙う大臣の子プラスチック、命を懸けて彼女を救う海賊ブラッド、彼女に嫉妬する女神ヴィーナスまで入り乱れて、話はもつれにもつれていく。

サファイアの「リボンの騎士」としての勇姿は戦後間もない時期にこれから自立していこうとする女性たちの間で一種の手本とされた。

マグマ大使
地球を征服しようとするゴアに対決するためアースはマグマと妻のモル、そして息子のガムという三体のロボットを作った。
村上まもる少年が笛を1つ吹くとガムが2つ吹くとモルが3つ吹くとマグマがやってくる。
ゴアは人間社会を密かに侵略するため、人間モドキという生物を連れてきて人間に擬態させ、社会のVIPクラスをどんどん入れ替えていく。
 
原作はかなり残酷であるが、テレビで放映された実写版ではさすがにソフトに改変されていた。

バンパイヤ
バンパイヤというのは本来吸血鬼の意味だが手塚は動物に変身する人間、狼男の部類として使っている。
そのバンパイヤの一族の少年トッペイが虫プロに入社するところから始まり、彼等一族を利用しようとする少年ロックの陰謀に手塚自身が巻き込まれていき、ついに手塚は秋吉台でロックたちにより殺害されてしまう!!

今ではとても放送できないような用語がポンポン飛び出す作品であるが未完に終わった異色作。
連載当時私が一番強い衝撃を受けた作品でもある。
シェイクスピアのマクベスに出てくる予言をする魔女のモチーフが使用されている。
もっともシェイクスピアはこれをギリシャ悲劇「メデイア」から借用したのであるが。

W3(ワンダースリー)
SFスパイアクションである。
地球を調査し野蛮な星であれば破壊するよう命じられた調査員ボッコ・ブッコ・ノッコはうさぎ・カモ・馬の姿に変身して地球に潜入した。
彼等が出会った少年・星真一の兄の光一は実は凄腕の情報部員で、ここから世界的な陰謀と地球の運命をかけた大騒動が始まる。
三人の調査員が乗った円盤形のUFOがタイヤのように転がって走っていくシーンがアニメでは見せ場であった。
原作はタイムマシンのパラドックスを非常にうまく使った名作である。

ふしぎなメルモ
交通事故で急死した母親が遺された幼い娘メルモのために赤いキャンディーと青いキャンディーを神様からもらってきてあげた。
このキャンディによりメルモは大人になったり赤ちゃんになったりして、色々な騒動を乗り切っていく。
性教育アニメとして制作された話題作。

なお、この作品の脚本に名前を連ねている松本守正とは実は辻真先である。
この番組は「サザエさん」と同じ時間帯に放映されていたため、そちらの脚本家として名の通っている辻はこちらは別のペンネームを使ったのであった。

ブラックジャック
闇の天才外科医ブラックジャックの活躍を描く長編。
ブラックジャックは正体不明で物凄い芸術的な手術の腕を持っているが正規の医師の免許を持っていないという想定である。
そして手術をした患者からは治療費として超高額のお金を取っていく。
 
加山雄三主演など実写で何度かテレビ放映されているほか劇場版アニメなども制作された。
なお登場人物でブラックジャックと一緒に暮らしているピノコという少女は、ブラックジャックが男性患者の人面瘡の中から取り出した一卵性双生児のなりそこないの子供の部品を組み立てて作った人造人間である。
ピノコが話す特殊な言葉はファンの間では「ピノコ語」と呼ばれ、普通の文章をピノコ語に変換するソフトまで存在する。

手塚治虫は漫画家として仕事をしながら、当時はとても漫画では食っていけなかったため、医学の勉強をし正規の医師の資格を取っている。
その手塚が自分自身の思い描く理想の医師の姿というものをブラック・ジャックに投影したのではないか、と論する人は言う。

アドルフに告ぐ
同じアドルフという名前を持った3人の男の生き様を描く。国粋主義者のアドルフ・カウフマン、ユダヤ人のアドルフ・カミル、そしてアドルフ・ヒットラーであった。
偶然彼等に関わった峠草平はアドルフ・ヒットラーが持つ驚愕の秘密を知ることになる。
その秘密を記した文書を巡って多くのスパイが入り乱れるが、事態はやがてどうにもならない悲劇へと突き進んでいく。

本来極めて後味の悪い筈の結末であるのに、ラストシーンを見た時の感じは単に心が凍ってしまったかのようであった。
何とでも評することはできるであろうが、そのどのような批評も的外れになってしまうかも知れない、或いは原理的に論評不能かも知れない鬼作。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ