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12月12日 カーバッテリーの日(日本蓄電池工業会1985)、パンの日(毎月)豆腐の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ホウレンソウ    活力               ○
マツ(松)     同情・かわいそう・同情・慈悲
          不老長寿・永遠の若さ・勇敢    ○
ムラサキハナナ   熱狂・優秀            ○
ワタ        偉大・崇高・繊細・有用な・優秀  ○

∞…∞12月12日・今日という日 ∞…∞

美山加恋   (1996)  女優
洸太レイシー   (1992)  タレント
宮澤亜理沙   (1987)  女優
日高光啓   (1986)  AAA
MIZUHO (斉藤瑞穂)   (1985)  ZONE、Vo. Dr.
平 愛梨   (1984)  タレント
未来玲可   (1983)  歌手
加藤あい   (1982)  女優
大木優紀   (1980)  アナウンサー
瀧上伸一郎   (1978)  タレント、流れ星
宮本真希   (1977)  タレント
田辺研一郎   (1977)  アナウンサー
小島宏美   (1977)  サッカー
瀬戸朝香   (1976)  女優
林 克治   (1976)  タレント、カリカ
桑島法子   (1975)  声優
吉田尚記   (1975)  アナウンサー
立花美哉   (1974)  シンクロナイズドスイミング
レイ・ミステリオ   (1974)  プロレス
田中陽子   (1973)  歌手
村松有人   (1972)  野球
TETSU (高野 哲)   (1972)  元ZIGZO、元MARICE MIZER、Vo.
坂田 聡   (1971)  タレント、ジョビジョバ
坂井香代子   (1970)  タレント、地球防衛軍レッド
上遠野浩平   (1968)  作家
藤森夕子   (1968)  タレント
栗原正尚   (1968)  漫画家
松浦有希   (1968)  歌手、作曲家、作詞家
江端郁巳   (1967)  タレント
江端郁世   (1967)  タレント
古代祐三   (1967)  作曲家
菅原祥子   (1966)  声優
ウルティモ・ドラゴン   (1966)  プロレス
ホイス・グレイシー   (1966)  グレイシー柔術
永野広一   (1966)  声優
高橋ヒロシ   (1965)  漫画家 「クローズ」
アロンゾ・パウエル   (1964)  野球
折笠 愛   (1963)  声優
サブゥー   (1963)  プロレス
志村知幸   (1963)  俳優
山西 惇   (1962)  俳優
西村雅彦   (1960)  俳優
ちば 拓   (1959)  漫画家 「キックオフ」
エバートン・ノゲイラ   (1959)  サッカー
シーラ・E   (1957)  パーカッショニスト
板東尚樹   (1957)  声優
大森隆志   (1956)  元サザンオールスターズ
三木聖子   (1956)  歌手
中村梅雀   (1955)  歌舞伎役者
ラジニカーント   (1950)  俳優
カール・ウィルソン   (1946)  ビーチボーイズ、G.
舟木一夫   (1944)  歌手
所 功   (1941)  歴史学者、大学教授
黒江透修   (1938)  野球
あした順子   (1934)  漫才師
ジョン・オズボーン   (1929)  劇作家
津村 謙   (1923)  歌手
武田イク   (1919)  武田鉄矢の母
小津安二郎   (1909)  映画監督
木村伊兵衛   (1901)  写真家
朱徳   (1886)  政治家
エドヴァルト・ムンク   (1863)  画家
福沢諭吉   (1834)  思想家
ギュスターヴ・フローベール   (1821)  作家
後円融天皇   (1358)  天皇(北朝)
北条貞時   (1271)  鎌倉幕府執権

 ○ 高杉晋作らが品川に建築中のイギリス公使館を焼き払う(1862)
 ○ イタリアのマルコーニが米英間の無線通信に成功(1901)
 ○ 北原白秋らがパンの会を結成(1908)
 ○ 日本最初の喫茶店が東京の京橋にオープン。3銭のコーヒーを白いエプロン姿の少女が運んでくれるが話題となり、大いに繁盛(1911)
 ○ 孫文が「建国大綱」発表(1923)
 ○ 張学良ら西北軍が蒋介石を監禁。西安事件(1936)
 ○ 米国カリフォルニアに初の「モーテル」がオープン(1925)
 ○ 児童福祉法が公布(1947)
 ○ 旧軍人による池田隼人首相ら政府要人暗殺計画が発覚し、13人が逮捕される(三無事件)(1961)
 ○ 国鉄、リニアモーターカーが実験センターで時速504Kmを達成(1979)


児童福祉法公布記念日
1947年(昭和22年)のこの日、15歳未満を対象に就労制限を設けた児童福祉法が公布されたのを記念。

パンの日
パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。 1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。
この日を記念して毎月12日をパンの日としています。

ダズンローズデー
プライダルファッションの第一人者である桂由美さんと内田和子さんが提唱。
12本の薔薇を愛情の印として恋人に贈る日。(Dozen Rose Day)

漢字の日
1995年(平成7年)に日本漢字能力検定協会(漢検)が制定した日。
「いい(1)字(2)いち(1)字(2)」(いい字1字)の語呂合わせ。
毎年、清水寺「奥の院」舞台にて森貫主が「今年の漢字」を発表する。

バッテリーの日
日本電池工業会が1985年(昭和60年)から制定した。語源を同じとする野球のバッテリーのポジションの番号が「1」「2」となることから。





バッテリーの日(12.12)
さて11月11日「電池の日」の続きです。

12月12日は以前は「カーバッテリーの日」だったのですが、1991年に「バッテリーの日」と改称されました。
理由は聞いていませんが、やはりバッテリーといえばカーバッテリーが主であった時代から、それ以外の場でもバッテリーが注目されるようになってきたからでしょうか?

日本語でバッテリーといえば蓄電池の意味なのですが、英語のbatteryは一般に電池の意味です。
特に区分する場合は、rechargeable batteryなどとも言うようです。
専門家は一次電池・二次電池という言い方もします。
英語でも普通の電池をprimary cell/primary battery, 蓄電池をsecondary battery,secondary cell などともいいます。

バッテリーの語源はラテン語のbattuereで「打つ」という意味。
バッターとかバトルなどと同じ語源です。
そこから砲台のこともバッテリーと呼んだので、電気を発するものとか、ボールを発するものということで、電池や投手のこともバッテリーと呼ぶようになりました。
後に野球のバッテリーは投手とその球を受ける捕手の組の意味に変化しています。

バッテリーの日が12月12日になったのは、一二が回路図の電池の記号に似ているからかな?と思ったのですが、野球のバッテリーからの連想で、野球の投手と捕手の位置番号が1と2だからということだそうです。
1985年に日本蓄電池工業会(現・電池工業会)が定めたものです。

さて普通の電池も蓄電池も、化学反応により電気を起こしているのは共通なのですが、蓄電池の場合は電圧を逆に掛けることにより放電の時と逆の化学反応を起こして、電気を起こす力を貯めることができるようになっています。
普通の電池にはこのような特性がありませんから、普通のマンガン電池やアルカリ電池を無理矢理、充電器につないだりすると、異様に発熱したり爆発する危険もありますので、絶対にしてはなりません。

現在日本国内で使用されている蓄電池には、鉛電池・ニッカド電池、ニッスイ電池、リチウムイオン電池の4種類が主にあります。

鉛電池は1860年にプランテ(Raimond Lous Gastorn Plante)が発明したもので、現在、カーバッテリーやコンピュータのUPS(無停電電源装置)などに使用されています。
フル充電した状態で使い続ける(浮動充電)のが前提の場で力を発揮しますので、車の運転により常に充電され続けるカーバッテリーや、通常電源で常に充電され続けるUPSには最適です。
この鉛電池の泣き所は深い放充電に弱いことで、一度完全に放電させてまた充電するということを繰り返すと、5〜6回程度で寿命が来てしまう場合もあります。
また放電しきった状態で長時間放置すると、サルフェーションという現象が起きて電池が使い物にならなくなってしまいます。
カー用品店で売っているバッテリー添加剤はこのサルフェーション防止の効果があります。

ニッカド電池(ニッケルカドミウム電池,NiCd電池)は1899年にスウェーデンのユングナー(Waldemar Jungner)が発明したもので、アルカリ蓄電池と言われる場合もありますが、アルカリ蓄電池という場合はニッケル鉄電池(NiFe)も含めます。
NiFe電池はユングナーの翌年エジソンが発明したものです。

ニッカド電池は鉛電池とは逆に深い放電と充電を繰り返す用途に向いており、電源から離れたところで長時間使用される、電気シェーバー、ノートパソコン、携帯電話などに使用されてきました。
こちらは逆にフル充電のまま電源をつないだままでの使用を続けると短期間で電池の寿命を縮めます。
また、フル放電する前に充電を始めると「メモリー効果」といって本来のフル充電位置より浅い所をフル充電位置であるかのように電池が思いこんでしまい、結果的に電池の容量が小さくなってしまうという問題が起きます。
また素材に使用されているカドミウムは環境破壊の原因になるとして近年問題視されるようになってきました。

このため最近急速にNiCd電池の代替として使用されるようになったのがニッスイ電池(ニッケル水素電池)で、松下電器の商品名からメタハイ電池とも呼ばれます。
記号ではNiMHと書かれることが多いようです。

ニッスイ電池は電極に水酸化カドミウムの代わりに水素吸蔵合金を使用しています。
ニッカド電池と同じ1.5Vの電圧を持つため、簡単にニッカド電池の代用として使用することができました。
電気工作の得意な人は自分で、ニッカド電池の代わりにニッスイ電池を入れて電化用品を使用したりしていたようです。
またニッスイ電池はニッカド電池よりメモリー効果が小さいという特徴があります。

さて最近パソコンや携帯電話ではリチウムイオン電池(Li-ion)を使用するものが多くなりました。
これは1991年にソニーが開発したもので、正極に遷移金属(主としてコバルト)の酸化物リチウム化合物、負極に炭素を使用しています。
ニッカド電池に比べて遙かに軽く電力も大きいのが特徴で、日常的に持ち歩くことの多い、携帯電話やノートパソコンには、最適のバッテリーです。
またメモリー効果もないことから、携帯電話のようにメモリー効果のことを知らず、フル放電する前に充電し始める(継ぎ足し充電する)人の多い電化製品にも良く合っています。
また最近は鉛電池に代わり、UPS用に使用されるケースも出てきました。
鉛電池は極端に重いので、ホストコンピュータを運用する所では、しばしばUPSを設置するために床の強化をしなければならなかったのですがリチウムイオン電池なら軽いのでそのような工事の必要がありません(ただし価格的にはまだまだ高いようです)。

ただ、このリチウムイオン電池は過充電に弱く、充電しすぎると最悪爆発する場合もあります。
日本国内で大手メーカーが製造しているものには過充電にならないよう、充電開始からのタイマー制御をしたり溶液の濃度チェックをしたりするなど、二重・三重の安全装置が付いていますので、そのようなことが起きることはありませんが、外国では粗悪品を使用して携帯電話が爆発したような事故もあります。
一見、有名メーカーの商品のようにみえてもメーカー名が騙られている場合もありますので、パソコンや携帯の交換用バッテリーを買う場合は、確かな店で確かなメーカーのものを買うようにしましょう。

さて最後に、ノートパソコンの超長時間駆動や車の(バッテリーではなく)動力そのものに使用することを想定して現在各国の多くのメーカーで開発にしのぎを削られているのが、燃料電池です。

これは水素が酸素と結合して水になる途中の過程で、水素イオンと電子に分かれたところを、その電子が酸素の所までたどりつく間の流れを利用して電気を起こしているもので、純粋な水素を利用すれば排ガスなどの心配のないクリーンエネルギーですし、水素を話題の夢の物質カーボンナノチューブなどを利用して大量に蓄えておけばかなり長時間エネルギーを供給し続けることができます。
水素のかたまりを大量に蓄えるというのは危険ではありますが、何重もの安全機構の採用が評価され、現在アメリカでは燃料電池の航空機内への持ち込みが許可されるようになりました。
日本でも近い内に関係する法律が改訂されることが見込まれています。

未来の自動車は全てこの燃料電池で動くようになり、ガソリン車は無くなるだろうとも言われており、世界の自動車メーカーの間では、燃料電池の開発競争に勝ったところだけが次の世代に生き残ることができるとも言われています。
2002年にはトヨタとホンダが製作した燃料電池カー(FHCV,FCX)が日本政府に1台ずつ納品され、官邸と経産省で使用されています。
また先日の愛知万博でも日野製の燃料電池バスが走っていました。

現在はこの水素燃料自体の供給体制がありませんが、将来的には全国のガソリンスタンドで水素の充填が可能になるだろうと言われています。
また、現在はトヨタのFHCVが月額リース料120万円、ホンダのFCXが80万円というのが公式の価格ようで普通の人には手が出ない超高額ですが、ホンダが今年アメリカのラスベガス市に納入したFCXは月額6万円という価格になっており(但しこれは宣伝用も兼ねた超破格値らしい)、今後燃料電池に関する技術が上がってくるにつれ、価格は急速に下がってくるものと思われます。
少なくとも、過去の鉛電池を使用した電気自動車は10年以内に姿を消すでしょう。

なお、トヨタのベストセラー・ハイブリッド車プリウスは、トヨタと松下の合弁企業・パナソニックEVエナジー社が開発したNiMH電池を使用しています。
鉛電池だと車体が重くなり燃費が落ちるのを嫌ったのでしょうか。
ただNiMHはメモリー効果があるので、それが起きにくいような充放電の微妙なコントロールをしているようです。
メーカーによってはもっと軽くメモリー効果も無い、リチウムイオン電池の採用を検討しているところもあるようですが、車のバッテリーはパソコンなどより厳しい環境で使用されるので、液漏れによる爆発事故防止のため、かなり厳重な安全装置を作らなければならないのが課題のようです。





福沢諭吉(1834-1901)
「天は人の上に人を造らず」の言葉で知られ、慶応義塾の創立者、そして1万円札の人物である福沢諭吉は天保5年12月12日(太陽暦1835年1月10日)に大阪堂島の中津藩屋敷で生まれました。

父百助は13石2人扶持という下級武士でしたが翌年(翌々年との説も)死亡したため一家は中津に帰り、諭吉は地元の塾で漢学を学びました。
二十歳の時に長崎に出て蘭学を学びますが、翌年大阪に行って緒方洪庵の適塾に入り、ここで非常に強い影響を受けることになります。

いったんは兄の死で家を継ぐことになり中津に戻りますが、適塾への思いが諦めきれず、藩の許しをもらって在籍のまま大阪に戻り、やがて適塾の塾長にまで任じられます。

そして安政5年(1858)藩から江戸に出仕するよう命が下ったのを期に、同塾の岡本周吉とともに江戸に下って中津藩の築地の江戸屋敷内(現中央区明石町)に「一小家塾」を設立しました。
これが現在の慶應義塾のはじまりです。

翌年開港されてアメリカ人が多数入ってきた横浜を見て、これからの時代は英語が必要と痛感、勉強しはじめます。
そしてその翌年、咸臨丸による渡米使節に下僕として加わり、アメリカを見聞、その翌年には遣欧使節にも加わってフランス・イギリス・オランダ・ドイツなど7ヶ国を訪問してその雰囲気を肌で体験しました。

元治元年(1864)にいったん中津に戻りますが、2ヶ月には小幡篤次郎(後に慶応2代目塾頭)らのこの地でできた弟子を伴い江戸に戻り、海外の経験をもとに『西洋事情』を著します。

その「西洋事情」が刊行された翌慶応3年今度は幕府の軍艦受取使節の随員としてアメリカに渡り、多数の教科書を購入してきました。大政奉還・王政復古と続いたこの年があけた慶応4年(1868)4月3日、新銭座の有馬家控屋敷に塾を移し、時の年号にちなんで『慶応義塾』と改名します。

しかしこの新銭座は環境が悪く、福沢自身病気になってしまいます。
学生も増えてきて分塾を幾つか作っても間に合わなくなってきたことから明治4年三田の島原藩邸を欧米の警察制度の調査の仕事と交換条件に払い下げを受けることに成功、ここに移転(現在地)しました。
この年幼稚舎を併設します。

『学問のすゝめ』はその翌年明治5年から9年にかけて出たものです。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名なくだりは初編の書き出し部分。
この本は340万部も売れたといいますので明治の超ベストセラーです。
今でいえばドラえもん並みのヒットです。

明治23年には大学を設けて外国人の教授を迎え高等教育を開始します。
そして明治31年にはそれまでの正課を普通課に吸収して、幼稚舎・大学科と学年暦を統一、一貫教育が受けられる仕組みに改めました。

一方明治25年には北里柴三郎を助けて伝染病研究所を設立。
北里は後に慶応義塾医学部の初代学部長になっています。また明治27年には地元大分の耶馬渓の青ノ洞門付近の景勝地が売却されるという話を聞きこれを買い取りました。
これは自然保護運動の先駆けとされます。

福沢は何度か政府の要職に請われているようですが、一貫してそれを断ってあくまで民間で文明開化に貢献しました。
彼は政治的な活動を中心におく板垣退助らとは完全に立場を異にしていたようです。
それ故に、伊藤博文・大隈重信・板垣退助という戦後の最初の政治家紙幣シリーズではなく、夏目漱石・新渡戸稲造という次の文化人紙幣シリーズに入っているのでしょう。

明治34年(1901年)2月3日午後10時50分脳溢血のため死去。
享年66歳。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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