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12月14日 四十七士討ち入りの日、義士祭(東京都高輪泉岳寺)、赤穂義士祭(兵庫)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
サイネリア(紫)   悩める思い出・喜び        ○
ツルウメモドキ   大器晩成             ○
マツ        同情・かわいそう・慈悲・不老長寿 
          永遠の若さ・勇敢         ○
ワタ(綿)ノ実   優秀・有益            ×

∞…∞12月14日・今日という日 ∞…∞

ジェニファー・ハースト   (1983)  タレント
永川勝浩   (1980)  野球
タタ・ヤン   (1980)  歌手
中野美奈子   (1979)  アナウンサー
マイケル・オーウェン   (1979)  サッカー
ラド・セレフ   (1978)  O-ZONE
田口理恵   (1978)  歌手、元Say a Littele Prayer
網島志朗   (1978)  漫画家 「JINKI:EXTEND」
桃井はるこ   (1977)  歌手、声優
安部みちこ   (1977)  アナウンサー
福浦和也   (1975)  野球
Ryoji   (1974)  ケツメイシ、Vo.
TERU   (1972)  タレント、どーよ
魚喃キリコ   (1972)  漫画家
浅井 樹   (1971)  野球
石割博之   (1970)  タレント、ブラザース
鮎貝 健   (1970)  タレント
ディンゴ (デーブ・ニルソン)   (1969)  野球
高木希世子   (1968)  アナウンサー
田中幸雄   (1967)  野球
まいど豊   (1965)  俳優
トモフスキー (大木知之)   (1964)  ミュージシャン、元 カステラ
大善尊太   (1964)  相撲
高野 寛   (1964)  歌手
高倉美貴   (1960)  女優
清水信之   (1959)  ミュージシャン
世良公則   (1955)  歌手
上杉祥三   (1955)   俳優
内田喜郎   (1953)  俳優
錦野 旦   (1948)  歌手
森 詠   (1941)  作家
太田一也   (1934)  大学教授
中田ダイマル   (1913)  漫才師
阪東妻三郎   (1909)  俳優
クリストフ・オーギュスト・ティートゲ   (1909)   詩人
植芝盛平   (1881)  合気道創始者
小金井良精   (1858)  解剖学者
林 鳳岡   (1644)  儒学者
ミカエル・ノストラダムス   (1503)  占星術師
応神天皇   (200)  天皇

 ○ 平清盛の女徳子、法皇の猶子として入内(1171)
 ○ 大石良雄以下四十七士が本所の吉良上野介邸に討ち入り(1702)
 ○ 中学校令改正で男女別学となる(1891)
 ○ ライト兄弟が動力航空機による初飛行に成功。約3秒半、35mの距離を見事に飛翔(1903)
 ○ ノルウェーのアムンゼンと4人の隊員が南極点初到着(1911)
 ○ ボクシングで世界初の日本人同士のタイトルマッチ(1967)
 ○ 石油ショックで民放5社深夜放送自粛決定(1973)
 ○ 最後のSL、国鉄室蘭本線で走る(1975)

赤穂義士祭、吉良祭
1702年(元禄15年)12月14日は赤穂浪士による吉良邸打ち入りの日。
江戸本所松坂町にあった吉良邸の一部は現在松坂公園となり、毎年この日は元禄市でにぎわう。
午前中は義士祭、午後は吉良祭が行われる。

南極の日
1911年(明治44年)にノルウェー探検家、アムンゼンが世界で初めて南極点に達した日。





ノストラダムス(1503-1566)
今日では予言者として知られるノストラダムス(本名ミシェル・ド・ノートルダム)は1503年12月14日フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンスに生まれました。

おじいさんのピエールが占星術師でアンジュのルネ王の侍医であったという説もあるのですが、Erika Cheetham によればそれは俗説で実際は穀物商であったといいます。
父のジャックは医者の娘と結婚して収税吏をしていたとのこと。

                アンヌ
 ピエール            ‖―――セザール
  ‖――――ジャック  +――ミシェル
 ブランシェ   ‖―――+   ‖―――+―男子
       レニエール |  アドリエ +―男子
             |
             +――ジャン(詩人・判事)

ミシェルは5人兄弟の長男で、末弟のジャンも詩人として知られ、後にプロヴァンス高等裁判所の判事も務めています。
ミシェルは小さい頃から高い才能を示したため、祖父のピエールが彼にラテン語や数学・占星学などを教えたともいいます。

初めアヴィニョンの学校に入りますが、彼は優秀すぎて浮いた存在であったようで、後にモンペリエの大学に移り、ここで医師の資格を取ります。
そして南フランスで当時流行っていた悪疫の撲滅のための治療活動に従事し、この時、この病気に対する特効薬を発明したともいいます。

やがて彼はアドリエ・ド・ループジャックという女性と結婚し二人の男の子をもうけますが、おりしもヨーロッパにペストの大流行がやってきました。
そして彼はこのペストで最愛の妻と二人の子供を失ってしまうのです。

医者の身であるにも関わらず自分の家族も救えなかった、という無力感に打ちひしがれていた彼に、妻の親が「娘が死んだ以上、持参金を返せ」と言ってきました。
また日頃の彼の科学者としての異端的な言動を教会が問題にしようとしていました。

1538年頃から1554年まで彼は放浪を続けており、その間の消息は分かっていませんが、いくつかの伝説は残されています。

彼がミラノに立ち寄った時、一人の若い修道僧とすれちがった。
その時ミシェルは突然彼の前にひれ伏して「猊下」と言った。
同行していた別の修道僧が「お前は頭がおかしいのか?」と思わず聞いたら彼は「貴いお方の前で、ひざまずいて礼をするのは当然です」と答えたという。
その修道僧は40年後ローマ法王になった。

ある町の領主に歓待された時、庭に黒豚と白豚がいるのを見て領主がふと「この豚たちの運命が分かるかね?」と聞いた。
するとミシェルは「黒豚のほうは今夜あなたに食べられてしまうでしょう」と答えた。
面白いと思った領主はコックに白豚のほうを料理して今夜の食卓に出すよう命じた。
ところがコックが白豚を捕まえようとしていた時、狼がやってきてその豚をさらって逃げてしまった。
仕方なくコックは黒豚を料理した。
その晩、領主がミシェルに「ほら、これは黒豚ではなく白豚の方だよ」というとミシェルはコックに確認して下さいという。
そこで領主がコックを呼ぶと事故があって、やむを得ず黒豚を料理したことが報告された。

1554年南フランスに大規模な病気の流行があり、ミシェルはエクスやリヨンの市長に請われてその地に赴き、献身的な医療活動にあたります。
この活動が評価されて、彼はまた大手を振って外を歩ける状況になったようです。
彼はこの年アンヌ・ボンサールという女性と再婚しています。
またこの頃から彼は占い師としてもかなり知られるようになっていたようです。

1556年には彼は王妃カトリーヌ・ド・メディシスに呼ばれパリに赴き、国王アンリ2世とその子供たちに関する占いをしています。
ミシェルは4人の王子のうち3人が王になるだろうと予言したようですが、これはのちにその通りになっています。(フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世)

王妃はパリで2度、その後ミシェルの晩年の居住地であるサロンの近くを偶然訪れた時にもう1度と合計3度も彼を謁見しています。
コペルニクスの地動説の支持者でもあって(天体の位置を計算しようとすると従来の周天円方式よりコペルニクスの地動説方式の方が遙かに計算が楽)常に教会の動向を伺っていなければならない彼としては最も心強い支援者であったかも知れません。

この王妃がサロンを訪れた時に従者として来ていた少年に「彼は後に国王になるであろう」と予言したという伝説もあります。
その少年は後カトリーヌの娘のマルグリットと結婚してブルボン王朝を興したアンリ4世でした。

晩年は医師としての活動よりも占い師としての活動のほうが多くなっているようで、彼のもとには多数の著名人が訪れて、様々な占いの依頼をしたようです。
そして彼は1566年7月2日に亡くなりました。

ノストラダムスの占いの手法は2つで、ひとつは小さい頃から学んでいた占星術。
もうひとつは水鏡占いと呼ばれるものです。
これは水晶球占いなどと同様のものですが、この占いを遣える人は現代でも的中率が非常に高いことがその筋では知られています。
ただし、これはものすごいエネルギーを消耗しますし、天与の才能がないとまずできない占いです。

彼が残した有名な予言詩?群もほとんどがこの水鏡占いによって得られたものではないかとの説もあります。
彼の詩をいろいろな事件に無理にあてはめて「予言がまた当たった」などと騒ぐのは自由ですが、本人がどこまで意味を考えて、この大量の詩をのこしたのかは、今となっては謎でしょう。

ただ彼にとっては一種の黙示録的な世界のビジョンがあって、それを書かずにはいられなかったのでしょう。
日本では「諸世紀」という誤訳がまかりとおっていますがむしろ「百篇詩集」と訳すべきでしょう。
各々百篇から成る四行詩を集めたものを合計10集出していますが、なぜか第七集だけは42番でストップしています。
書かなかったのか書いたが差し障りがありすぎて世に出さなかったのかは不明です。
11,12集も出す予定があったそうです。

彼の詩の中に年の数字が出てくる箇所は非常に少ないのですが、この詩の英訳をして広くひろめたHenry C. Roberts は例えば第10集91篇の1609年ローマの教会その年の初頭に選挙を行うだろう灰色と黒色の者ひとりカンパーニアより登場するこの男ほど腹黒い人間は見たことがない。
(流智明訳「ノストラダムス全予言」二見書房)

という文章の1609という数字はミケアの宗教会議の年(325年)を基点とした数字で、これは1934年を意味し、この腹黒い男はヒットラーのことだと言います。
このロバーツ流の解釈ですとみんなが「外れた。良かった」などと言っている「1999年7の月」(第10集72篇)というのも、2324年のことということになるわけですが...

ここまで自由な解釈をしてしまうと、どうとでも読めるような気もします。
ユングは夢を分析する時、必要以上にシンボルを「解釈」するなと警告しています。
「なぜなら、どんな夢からどんなことでも読みとれてしまうから」

『予言をするのは簡単だ。但し時期と事実の両方を同時に当てることは難しい』
という西洋の名言(迷言?)もあるようです。




赤穂浪士の討入り(1702)
元禄15年12月14日の晩(今の時刻では15日の午前4時頃だが、当時は明け方から1日が始まる感覚があったので14日深夜と考える)、赤穂浪士47名が吉良上野介邸に押し入り、上野介を殺害して主君の仇を討ちました。

この事件は『忠臣蔵』という名前で語り継がれています。

事件の発端は1年半前、元禄14年3月14日午前11時頃のことです。赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が、江戸城・松の廊下で吉良上野介(きらこうづけのすけ)義央に斬りかかる事件がありました。

浅野内匠頭は皇室の使者を迎える準備に携わっていたのですが、そのおり、要領がわからずに吉良上野介の不興を買って馬鹿にされたため、発作的にこのような愚行に及んだと言われています。

浅野内匠頭はそばにいた大奥留守番役・梶川与惣兵衛に「殿中でござる!」と必死に抱き止められましたが、上野介は背中と眉間に傷をうけました。

殿中(江戸城内)で抜刀するというのは絶対的な禁止事項。事件を聞いた徳川五代将軍綱吉は激怒、その日のうちに内匠頭に切腹を命じました。

歌舞伎(仮名手本忠臣蔵)では吉良が「この船侍め」などと言い、それに対して浅野が怒って前から斬りつけることになっています。
なおこの「松の廊下」の後には現在石碑が立っており、誰でも皇居にいけば見ることができます。

切腹の知らせは早馬により3月19日、赤穂に到着。
城内には家臣が集まり騒然とします。
そして吉良上野介にはおとがめがなかったことと、赤穂藩が取りつぶされることになったことが次々と到着する使者により明らかになります。

やがて幕府から正式に城下から去るよう命じる文書が届くと、家臣たちは口々に籠城して幕府に対抗しようという声をとなえます。

その幕府側の受城使は、4月16日に赤穂に到着しました。
赤穂藩の遺士たちの抵抗も予想されたため6000人の軍勢を連れてきていました。
これに対して、赤穂藩国家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)良雄は家臣たちに籠城策を取ったり全員切腹して果てることを許可せず、そのまま幕府に城を引き渡します。

内蔵助ら赤穂藩と幕府側との城引渡し事務は6月25日までかかっています。
この時点で赤穂藩は浅野内匠頭の息子の浅野大学をたててお家を再興できるよう幕府に願い出ており、内蔵助もそれに一縷の望みを託して、赤穂を発ち、京都山科に移りました。

一方幕府は浪士たちが敵討ちに出るのではないかと警戒、内蔵助の周辺にも間者を配置しますが、当の内蔵助はそのような様子はみじんも見せずに京都で連夜のように豪遊、その様子に内蔵助の近くにいて敵討ちに燃えていた藩士たちも次々と彼の元を去っていきます。

そんな中9月2日、吉良の屋敷が幕府の命により、江戸城内呉服橋御門内から本所へ移されました。
この不可解な移動は、幕府がわざわざ赤穂浪士たちに仇討ちをさせやすいように警備の手薄な本所に移させたのではないか、と今日では憶測されています。

11月2日、大石内蔵助が江戸に入りました。緊張が漂いますが、内蔵助は亡き主君の墓に詣でただけで再び京都に戻りました。
そしてまた京都での豪遊を続けます。内蔵助はあくまで浅野大学に関する沙汰を待っていました。

しかし翌年7月18日、いったん閉門扱いになっていた浅野大学の閉門が解除されたものの、大学は屋敷召し上げの上、広島浅野藩お預けになってしまいました。
これで浅野家再興の望みは絶たれてしまいます。
この知らせは24日京都の内蔵助の許に届きました。

7月28日、京都円山にて内蔵助ら19人の浪士が密かに集まり、吉良邸討ち入りを決めます(円山会議)。
一方江戸では京都からの連絡を受けた堀部安兵衛が隅田川船上で同士たちを集め意志を確認しました(隅田川船上会議)。

昨年と同じ頃11月5日、大石内蔵助は江戸に入りました。
昨年と同じ行動ですし、普段の内蔵助を見ていればとても何か大きなことをしそうには見えませんでした。
警戒は弛んでいます。

しかし彼らは行動しました。


12月14日深夜。討ち入り。
参加者47名。

浪士たちは表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入。
上野介は物陰(一説では炭小屋の中)に隠れているところを発見され、討ち取られます。
吉良邸は不意を付かれたためほとんど無抵抗の状態で、討ち入り側には一人の死者も出ていません。
討ち入りに参加したのは次の面々です。

大石内蔵助良雄 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房
間瀬久太夫正明 小野寺十内秀和 大石主税良金 礒貝十郎左衛門正久
堀部弥兵衛金丸 近松勘六行重 富森助右衛門 潮田又之丞高教
堀部安兵衛武庸 赤埴源蔵重賢 奥田孫太夫重盛 矢田五郎右衛門助武
大石瀬左衛門信清 早水藤左衛門満堯 間喜兵衛光延 中村勘助正辰
菅谷半之丞政利 不破数右衛門正種 千馬三郎兵衛光忠 木村岡右衛門貞行
岡野金右衛門包秀 吉田沢右衛門兼定 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄
岡島八十右衛門常樹 武林唯七隆重 倉橋伝助武幸 村松喜兵衛秀直
杉野十平次次房 勝田新左衛門武堯 前原伊助宗房 間瀬孫九郎正辰
小野寺幸右衛門秀富 間十次郎光興 奥田貞右衛門行高 矢頭右衛門七教兼
村松三太夫高直 神崎与五郎則休 茅野和助常成 横川勘平宗利
間新六光風 三村次郎左衛門包常 寺坂吉右衛門信行

そろいの羽織を着て堀部安兵衛宅に集まって向かった、などという話や「山」「川」といった合い言葉を使った、という話がありますが、実際は怪しまれないようにみんなばらばらの衣装で、江戸市内の数カ所に分散して集合してからできるだけばらばらに吉良邸をめざしたようです。

ただし内蔵助ら数人の武士がほんとうに火消装束を着てたようです。
これは夜中に町を歩いていて見とがめられたときに「火の用心の夜回りをしている」と答えるためであったと言われています。

赤穂浪士一同はただちに泉岳寺の浅野家の墓の前に上野介の首を捧げ、焼香。
この時、内蔵助は寺坂吉右衛門に密命を与え立ち去らせ、残りの46名の浪士が自首して出ました。

寺坂は討ち入り直前に逃亡したとか、討ち入りメンバーが全滅するか吉良が屋敷外に逃げ出した時のためのバックアップ要員として待機していたという説もありますが、彼は一人だけ武士の身分ではない足軽であったため、内蔵助ら幹部が寺坂まで罪を問われるのは気の毒であると考え参加しなかったことにした、という説に私は魅力を感じます。

さて、この浪士たちの処分について幕府内部ではかんかんがくがくの議論が続きました。
大勢は武士道の鏡であり、あっぱれという意見でしたが、結局は彼らは死してこそ英雄であるということになり裁可がおります。

翌年2月3日、幕府より切腹の命令伝達。翌日夕方、46名全員切腹。
泉岳寺の浅野家の墓の周りに埋葬されました。浪士たちの遺児も遠島などの処分になります。

その後のことも少し述べておきましょう。

6年後将軍綱吉が死去しますと、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦が行われ、浅野大学の処分は解かれ、浪士たちの遺児の遠島も解除されました。

そして宝永7年(1710)9月16日、浅野大学は安房の国に500石を与えられ旗本に取り立てられました。
また大石内蔵助の三男の大三郎が広島浅野家に召し抱えられています。

浅野大学のその後の子孫については詳しいことが分かりませんが、大石大三郎の子孫は今でも続いていて、現在内蔵助から数えて11代目になっているそうです。
この直系の子孫の大石雪絵さんが演歌歌手をしているというのもよく知られています。


四代目鶴屋南北の『仮名手本忠臣蔵』は文政8年(1725)7月初演されました。
ここで「仮名手本」というのは、浪士の数が「いろは」の数47と、ちょうど一致していたことによります。

南北はこのセンセーショナルな事件を見事にメロドラマに仕立てました。
当時の歌舞伎とか人形浄瑠璃というのは今でいえばお昼2時頃のテレビの連続ドラマのようなものです。

彼はさらにこの事件のサブストーリーとして「東海道四谷怪談」を組み立てています。
それについては例えばこちらを参照してください。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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