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12月16日 電話創業の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クルミ       知恵・野心・知性         ×
ストレリチア    おしゃれな恋・寛容・気取った恋
          輝かしい未来・恋の伊達者     ○
ハンノ木      荘厳・不屈の心・剛勇       ○
ブバルディア    交わり・夢想家          ○

∞…∞12月16日・今日という日 ∞…∞

橘 慶太   (1985)  w-inds.
稲月 彩   (1985)  Whiteberry、G.
高橋大斗   (1980)  ノルディックスキー複合
竹松 舞   (1980)  ハープ奏者
吉田健一   (1979)  三味線奏者、吉田兄弟
松田悟志   (1978)  俳優
辺見えみり   (1976)  タレント、女優
佐藤 修   (1976)  ボクシング
ナヲ (川北奈緒)   (1975)  マキシマムザホルモン、Dr. Vo.
深沢里奈   (1974)  アナウンサー
大熊啓誉   (1974)  タレント、シャカ
内田大介   (1974)  俳優
HAKUEI   (?)  PENICILLIN、Vo.
細川茂樹   (1971)  俳優
叶 恭弘   (1970)  漫画家 「プリティフェイス」
イーグル沢井   (1967)  プロレス
穂積由香里   (1967)  女優
アベフトシ   (1966)  ミッシェル・ガン・エレファント、G.
佐野美和   (1966)  政治家、タレント
田代 純   (1966)  アナウンサー
犬山イヌコ (犬山犬子)   (1964)  女優、声優
立川笑志   (1963)  落語家
上田美恵   (1963)  女優
桂木 文   (1960)  女優
ガダルカナル・タカ   (1956)  タレント
松山千春   (1955)  シンガーソングライター
安西マリア   (1953)  歌手
坂田おさむ   (1952)  歌手、タレント
蔵間竜也   (1952)  相撲、タレント
ぼんちおさむ   (1952)  タレント
上方よしお   (1952)  漫才師
山下真司   (1951)  俳優
ホーン・ユキ   (1950)  女優
森田健作   (1949)  政治家、俳優
真実一路   (1948)  俳優
石倉三郎   (1946)  俳優、元コント・レオナルド
服部幸應   (1945)  料理研究家
小川和久   (1945)  軍事評論家
田岡俊次   (1941)  朝日新聞編集委員
望月三起也   (1938)  漫画家 「ワイルド7」
相原信行   (1934)  体操
山本直純   (1932)  作曲家
フィリップ・K・ディック   (1928)  作家
平田昭彦   (1927)  俳優
戸川猪佐武   (1923)  評論家
大木 実   (1923)  俳優
アーサー・チャールズ・クラーク   (1917)  作家
葦原邦子   (1912)  女優
北村西望   (1884)  画家
出口ナオ   (1836)  宗教家
ルートビッヒ・ベートーヴェン   (1770)  音楽家

 ○ 富士山噴火(1032)
 ○ イギリスで『権利の章典』が成立(1689)
 ○ ボストン港に停泊していたイギリス船で開かれた茶会でインディアンに変装した植民地人が東インド会社の茶箱342箱を海中に投げ捨てる[ボストン茶会事件](1773)
 ○ 天明の大飢饉(1783)
 ○ 高杉晋作が、遊撃隊を率いて下関を襲撃(1864)
 ○ 東京・横浜両市内および両市間で日本初の電話事業開始(1890)
 ○ 東京山手線の電車が運転を開始(1909)
 ○ 東京八重洲口開く(1929)
 ○ 東京・浅草オペラ館開館(1931)
 ○ わが国最初の高層ビル、日本橋の白木屋(現、東急百貨店)火災で全焼。死者14人、重傷者21人(1932)
 ○ 戦犯に指名された近衛文麿が自宅で服毒自殺する。54歳(1945)
 ○ 夢の島のゴミ埋め立てが始まる(1957)

念仏の口止め
正月の神様(年神様)は念仏が嫌いであるとして、この日の翌日から1月16日の「念仏の口明け」までは念仏を唱えないというしきたりがある。
この日はこの年最後の念仏を行う日となる。

紙の記念日
1875年(明治8年)のこの日、元幕臣の渋沢栄一が設立した東京の抄紙会社が営業運転を開始したことによる。
こちらは王子製紙の前身。

電話の日
1890年(明治23年)のこの日、日本で初めて電話が開通したことに由来する。

和解の日(南アフリカ)

戦勝記念日(バングラデシュ)






電話創業の日(12.16)
1890年のこの日、東京と横浜で電話の営業が始まりました。
当時の加入者は東京で155人、横浜で42人。
電話交換手は昼は女性7名(多分全員良家の令嬢),夜は男性2名でした。

この時の電話番号は東京の部が1は東京府庁で2は逓信省電務局などです。
この時大隈重信が177だったのは有名ですが、ほかに渋沢栄一が158, 後藤象二郎が247, 前島密が248, などといった番号が割り当てられていました。

当時の「電話加入者人名表」が手元に画像しかないので判読が難しいのですが、岩崎弥太郎が160ではないかと思います。
この手の話をすると掲示板でしばしば話題になる138番のマクドナルドですが、いろいろ調べてみたのですが、最初は日本で最初に英語を教え和英辞典まで作ったというアメリカ生まれのカナダ人
(しかも父はスコットランド人,母はチヌーク族という本当に国際的な人)
ラナルド・マクドナルド(Ranald McDonald,1824-1894)ではないかとも思ったのですが、むしろ当時日本でホテルの経営などをしていたアメリカ海軍元大佐のマイケル・マクドナルド(Michael McDonald)のほうかも知れません。
この人の活動期間がよく分からないのですが1890年頃確かに日本にいたようです。

なお当時の電話料金は定額料金で東京が40円,横浜35円でした。この時代1円で米が15kg買えていますので今の値段にすれば40円は12万円くらいの感覚。
豊かな家ではそう苦にならない金額でしょう。そこで当時は東京府内で電話の加入を申し込んでも、線が近くまで来ていない場合は10年近く待たされる場合もあったともいいます。







紙の記念日(12.16)
明治8年(1875)12月16日に東京王子の「抄紙会社」の工場の開業式が行われたのを記念するものです。
この会社は渋沢栄一(澁澤榮一)が発議し、三井組・小野組・島田組らが発願して明治5年11月に設立、翌年2月に大蔵省紙幣寮の認可を得て「抄紙会社」と命名されました。
王子の工場にはイギリス製の機械が導入され、イギリス人技師の指導のもと明治7年夏頃から試験生産が始まりますが、最初の頃はなかなかうまく動かず、まともな紙ができるまでに3ヶ月ほどかかって、12月になってやっと「開業式」にこぎ着けました。

渋沢は日本の文明水準の向上には本の普及が必要であると考え、そのためには出版事業を興す必要があり、そのためには西洋式の印刷機に使用できる「洋紙」の生産が必要であると考え、製紙産業の隆興が必要であると考えました。

王子の地が選ばれたのは、川のそばで紙の生産に必要な水が得られるとともに原料や製品の運搬に便利であること、また当時は洋紙の原料はボロ布だったので、大都会・東京のそばで原材料が大量に得やすかったことです。
木材パルプを製紙原料に使い始めるのは1899年からです。

この「抄紙会社」は現在の王子製紙・日本製紙のルーツです。

ただ、日本で最初に洋紙の生産を始めたのは実はこの会社ではなく1874年6月に営業開始した有恒社です。
歴史的に見ると、抄紙会社が1893年に王子製紙と改称、1924年に有恒社と北海工業を吸収、更に1933年には富士製紙,九州製紙を吸収していますので両者は結果的には合流していることになります。

しかし「紙の日」として有恒社の方ではなく、少し遅れた抄紙会社の営業開始日が選ばれているのは、やはり抄紙会社の方がこの会社の源流と考えられたからでしょう。

なお、王子製紙は戦後巨大すぎるとして解体され、苫小牧製紙,本州製紙,十條製紙に分割されました。
この内の十條製紙は1993年に山陽国策バルブと合併して日本製紙となり、2003年には更に大昭和製紙と合併しています。
なお、この持株会社の名前は日本ユニパック(unipac)といいますがコンピュータのユニバック(univac)とは無関係です。

苫小牧製紙は1952年に王子製紙と改称。その後、北日本製紙、日本パルプ工業、東洋パルプを吸収、1993年に神崎製紙と合併して新王子製紙になりますが、1996年に本州製紙と再合併して王子製紙の名前に戻ります。「王子製紙」の名前
は2度消えて2度復活しているので、不死鳥のようだとも言われています。

現在、日本の製紙業界は、王子製紙・日本製紙・三菱製紙+中越バルブ、の3社がトップグループを形成し、そのあとを大王製紙・北越製紙・レンゴーの3社が追いかける展開となっています。

なおティッシュペーパーの有名ブランドは下記の会社が製造しています。

・エリエール 大王製紙が1979年に開発。ソフトティッシューの草分け。
・スコッティ 山陽バルブとスコットの合弁・山陽スコットが1963発売。
       山陽バルブはその後日本製紙に、山陽スコットはクレシアと改名
・クリネックス 十條製紙とキンバリー・クラークの合弁・十條キンバリー
       から1963発売。十條製紙は後に日本製紙。
       十條キンバリーはクレシアと合併。
・ネピア   王子製紙が1971年に王子ティシュを設立して販売開始。
・ホクシー  元々北海製紙の製品。北海製紙を略して北紙でそれをカタカナで
       ホクシーと呼んだもの。北海製紙は後に王子製紙に吸収されます
       が、戦後の王子製紙解体では本州製紙の系列となりその子会社の
       北海製紙という形になりますが、本州製紙の王子製紙への合流で
       王子ティッシュと合併しています。
・エルモア  四国のカミ商事の商品





ポケモン事件(1997)
1997年12月16日 TV東京系アニメ「ポケットモンスター」を見た子供などが全国で500人以上気分が悪くなり病院に運ばれる。意識不明になった子もあった。

これは暗い部屋で強い光の点滅「フリッカー」を見たのが原因。視角神経が混乱して体調不調になったもの。
同様の視角効果により外国では死者が出た例もあるが、日本のポケモン事件の場合は幸いにも死者は出なかった。

しかしTV東京では事態を重く見て当面の放送を自粛、実験なども行って 原因の追求につとめた。
そしてその後アニメ番組には「部屋を明るくしてごらんください」というテロップが入るようになった。

大人でも暗いところから明るい所に突然でると、一種のめまいのようなものがすることがある。
フリッカーの場合は、そういう状況が数秒間もON/OFF繰り返されたようなものであり、意識を失う人があっても、不思議ではないかも知れない。




藤原定子(977-1000)
長保2年(1000)12月16日、皇后藤原定子が皇女?{女美}子を出産しますが、難産のため亡くなってしまいました。

定子は内大臣(のち関白)・藤原道隆と歌人として名高い高階貴子の娘で貞元2年(977)の生れ。
永祚2年(990)1月5日に一条天皇が元服するとその月25日に入内。
2月11日に女御、10月5日には立后して中宮となります。
当時14歳、一方の一条天皇は11歳。さぞかし可愛い両陛下であったものと思われます。

定子は母譲りの才媛で、純情な天皇は彼女に姉のようにあこがれ、二人は熱い愛を育てていきます。
この定子に仕えたのが「枕草子」で名高い漢文の遣い手・清少納言でした。

しかし長徳元年(995)4月に定子の父道隆が亡くなると周囲はきな臭くなってきます。
右大臣の藤原道兼が関白に昇進し、その後任に満を持して藤原道長が就任。
次第に政治の実権を取っていきます。

しかも翌年には定子の兄の藤原伊周が花山上皇に矢を放つという事件に連座して太宰府に流されると、定子の味方は幼い天皇一人になってしまいました。

長保元年(999)11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産み落としますが、その日、藤原道長は愛娘・彰子の入内を強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前代未聞の一帝二后の事態を引き起こします。

そして12月定子没。世は道長の天下へと進んでいきます。




出口なお(1836-1918)
天保6年(1836)12月16日、福知山で大本教の開祖となる、出口なお(なを)が生まれました。

幕末頃から明治初期にかけての新宗教ラッシュには目を見張るものがありますが、中でも特筆すべき存在は、中山みき(1798-1887)の天理教、香取源七(1814-1883,後改名して金光大神)の金光教と、この大本教でしょう。

これらの宗教に共通しているのは、封印されていた神の復活をうたっていることで、その流れは大本教に国家的弾圧が加えられたあと、岡本天明らへと引き継がれています。

出口なおは、ごく普通に育ちごく普通に結婚し、8人の子供を育てて、やがて52歳の時に夫と死別。その後、長男は行方不明、次男は戦死、娘の内2人が心の病にかかる苦労に見舞われます。

そんな中で55歳の時、彼女は霊夢を見、突然神懸かりになり、艮の金神のお告げを受けます。
最初周囲からは、おかしくなったかと思われますが、やがて自動書記による「お筆先」を書き始め、病気治しの祈祷をするようになって、信者がつくようになります。

これだけですと、彼女は一介の小さな教祖様で終わっていたところですが、運命は大きな出会いを用意していました。

山籠もりの修行をして祈祷師をしていた上田喜三郎(1871-1948)がお告げをうけてこの地を訪れ、偶然なおの三女ひさに出会い、なおの理解者となりました。

大教団の成立には、カリスマ的教祖に加え、運営手腕に優れたサブが必要なものですが、喜三郎はまさにその運営手腕のある人でした。

なおは五女のすみと喜三郎を結婚させ、喜三郎の力によって教団は成長することになります。
そして、なおの筆先によって、喜三郎は名前を出口王仁三郎と改めます。

しかし、なおは日露戦争で日本が負けることを予言したのにこの予言が見事に外れてしまいました。
失望した信者らがなおの元を去り、また何かとなおと対立するようになっていた王仁三郎も教団を離れます。
この後、教団は非常に困窮し、なおの筆先を書き留める用紙にも事欠く状態であったといいます。

しかし2年後、王仁三郎は教団に復帰。彼の元で教団は再組織化され、再び大きく発展しました。
それとともに王仁三郎は教団の全権を掌握。教義の体系化を図り、教団も合法的なものに変えて、国家神道の枠組みの中に収まるよう尽力します。

その様子を見守りながら、なおは大正7年死去。その墓はのちに大本教への弾圧の際、破壊されてしまいました。

※出口なおの誕生日については天保7年の1月3日説、1月22日説もあります。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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