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12月24日 クリスマスイブ(キリスト降誕の前夜祭)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
シロジンチョウゲ(白沈丁花)やさしい木・人工美    ×
モミ        高尚・昇進・時間・永遠・崇高   ○
ヤドリ木      困難の克服・征服・忍耐強い    ○

∞…∞12月24日・今日という日 ∞…∞

小林 翼   (1998)  俳優
石原さとみ   (1986)  女優
小田瑞穂   (1986)  タレント
相葉雅紀   (1982)  タレント、嵐
赤坂七恵   (1979)  タレント
川元文太   (1974)  タレント、ダブルブッキング
田上よしえ   (1974)  タレント
Daカルロス喜田造 (EQ)   (1972)  ラッパー
逸見太郎   (1972)  俳優
リッキー・マーティン   (1971)  歌手
アレックス・カブレラ   (1971)  野球
小川知子   (1971)  アナウンサー
大宝智子   (1971)  女優
志賀真理子   (1969)  タレント
藤崎あや   (1968)  歌手
佐東由梨   (1967)  歌手
高須光聖   (1963)  放送作家
長野智子   (1962)  アナウンサー
北川悦吏子   (1961)  脚本家
島津悦子   (1961)  歌手
小野不由美   (1960)  作家
生島ヒロシ   (1960)  司会者
トミーズ雅   (1959)  漫才師、トミーズ
白都真理   (1958)  女優、タレント
樋口宗孝   (1958)  ラウドネス、Dr.
ハミド・カルザイ   (1957)  政治家、アフガニスタン大統領
福島瑞穂   (1955)  政治家、弁護士
伊藤和典   (1954)  脚本家
竹山 聖   (1954)  建築家
千葉和臣   (1951)  海援隊
伊藤銀次   (1950)  ミュージシャン、元シュガー・ベイブ
こぼん   (1948)  漫才師
柏木由紀子   (1947)  タレント、女優
喰 始   (1947)  放送作家、WAHAHA本舗主宰
小池重明   (1947)  将棋棋士
小松原一男   (1943)  アニメーター
平尾昌晃   (1937)  作曲家
吉田君のお父さん (安川勝司)   (1935)  酪農家
中村 正   (1929)  声優
エヴァ・ガードナー   (1922)  女優
阿川弘之   (1920)  作家
ハワーズ・ヒューズ   (1905)  実業家、飛行家
鈴木貫太郎   (1867)  政治家
木下清敬   (1845)  建築家
ジェームス・プレスコット・ジュール   (1818)  物理学者

 ○ 「聖しこの夜」作曲される。オーストリアの山村の神父ヨゼフ・モールが作詞。翌日村の学校の音楽教師フランツ・クサヴァーが作曲(1818)
 ○ ベルディ作曲「アイーダ」がカイロで初演(1871)
 ○ チョコレートの広告掲載される。 「かなよみ新聞」に“貯古齢糖”と文明開花の明治らしく当て字で表記(1878)
 ○ 日本初の無線電信の実験に成功(1897)
 ○ 有楽町に日本劇場(日劇)開場(1933)
 ○ 戦後、アメリカ軍の支配下にあった奄美群島返還日米協定調印(1953)
 ○ NHK、FM放送開始(1957)
 ○ 南ベトナムでクリスマス停戦始まる(1965)
 ○ アポロ8号世界初の月周回飛行(1968)
 ○ チャップリン死去。88歳(1977)

クリスマス・イブ
キリスト降誕の前夜祭。キリスト教の祭礼のひとつだか、日本では宗教とは関係の無い年中行事となっているようだ。

納めの地蔵
1年で最後の地蔵の縁日。

キリスト降誕祭前日(デンマーク)

母と子供の日(ベネズエラ)

ヤップ州憲法記念日(ミクロネシア連邦ヤップ州)





NHK-FM開始(1957)
1957年12月24日 NHKがFM放送を開始する。

テレビは民放とNHKがほぼ同時にスタート(1953)していますが、FMラジオの場合は、民放のスタートは少し遅くなります。
1960年5月1日のFM東海が最初です。
FM東京は1970年になります。





吉原移転(1656)
明暦2年(1656)12月24日、幕府は吉原の遊郭を浅草三谷村(浅草寺裏手)に移転させました。

江戸の遊郭は1600年に徳川幕府が開かれた頃から自然に成立してきました。

江戸は家康から家光の頃に掛けて、川の流れを変えたり堀を作ったり、非常に多くの土木工事を行っていますが、このために地方から出てきた多くの男手が使用されました。
そして、その男たちを当て込んで、遊郭も多数作られたのです。

しかし遊郭が町の至る所にあるのは風紀上必ずしも好ましいものではありませんでした。

そこで、元和3年(1617)3月、これらの遊郭が一ヶ所に集められることになり庄司甚右衛門が中心になって日本橋の葦原町(現在の人形町付近と推定されている)に、大遊郭地帯が作られたのです。

この場所は葦(「あし」だが、縁起をかついで「よし」という)がたくさん生えている湿っぽい野原でしたので、そこからこの場所を「吉原」と呼びました。

ところが、この吉原が明暦2年(1656)10月17日、江戸の大火で焼けてしまいます。(振袖火事の前年だが、これも48町を焼く大きな火事)

そこで、新しい場所に移転して再建することになり、浅草に移ることが決まったのが、同年12月24日でした。
この移転にために幕府は19000両(今のお金にして19億円くらい)という大金を支給しています。
江戸にとって絶対的な必需品だったということでしょう。

この新しい場所も今まで同様「吉原」と呼ばれ、区別する場合、こちらを「新吉原」、以前あった場所を「元吉原」と呼びます。
そしてこの「新吉原」の遊郭は昭和31年(1956)の売春防止法成立まで、ちょうど300年間継続します。

(ちなみに現在は、ご存じの通りソープ街になっていて、実態はあまり変わっていないような)

吉原の初期の遊女たちは、ある意味では今の銀座のホステスのような存在で、客を楽しませるための話術、それを裏打ちする豊富な知識、更には上流階級の人々と交際するための和歌・茶道・書道・絵画、などのたしなみを身につけていました。
その中でも特に優秀な人は花魁、さらには太夫と呼ばれます。

太夫というのは、ほんとにすごいハイレベルの花魁のみに許される称号で、江戸の250年間の間にもこの称号を持つ花魁は20〜30人しか出ていません。
特に江戸後期は出ることが稀になっていきます。
当然このクラスと遊ぶには、超高額な投資が必要であったはずです。

江戸時代も基本的には売春行為はこの吉原でしかやってはいけないことになっていたのですが、江戸後期には、どうしても高くつく吉原に対して、もっと安価に提供する「岡場所」という、いわばもぐりの遊郭も登場します。
また、それ以外にも、水茶屋の女、銭湯の湯女(ゆな)、などが性の提供をし、もっと安く済ませたい向きには路上で勧誘する夜鷹、などというものも出没していました。

もっとも、こういうものは基本的には安いところになればなるほど、レベルも下がっていて、夜鷹までいくと、当時の夜ですから、顔が見えない方がいい(相当の高齢や病気など)というケースが多かったとも言われます。

吉原で1日に動いていたお金は現在のお金に直して1億円くらいであろうと言われています。

そこでは優秀な遊女がわりといい暮らしが出来ていたのに対し、成績の悪い下級女郎は虐げられ、厳しい労働環境の中で無理矢理働かせられ、かといって女郎をやめる自由もなく、死ぬと投げ込み寺に放り込まれて終わりという悲しい人生でした。

その報われない女性たちの霊は、今も吉原弁財天/吉原神社、浄閑寺、西方寺、などの地に眠っています。

合掌。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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