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3月21日 国際人種差別撤廃デー(国連)、ランドセルの日
     太陽の日(毎年春分の日、ソーラーシステム振興協会)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
イカリソウ     人生の出発・君を離さない     ×
サクララン  人生の出発・同感・満足・安心立命・愛情 ○
スイートピー(ピンク)  門出・優美         ×
テンモンソウ       爽やかな心         ○
マダガスカルジャスミン  二人で東方へ旅に      ×
マンサク        呪文・霊感・魔力・感じやすさ ○

∞…∞ 3月21日・今日という日 ∞…∞

張沢紫星   (1995)  タレント
大森玲子   (1984)  タレント
河合久美   (1981)  声優
ロナウジーニョ・ガウーショ   (1980)  サッカー
竹森 巧   (1978)  タレント、アップダウン
音尾琢真   (1976)  タレント
やまもとかずや   (1975)  漫画家
出島武春   (1974)  相撲
石井正則   (1973)  タレント、アリtoキリギリス
白鳥 哲   (1972)  声優
山王丸和恵   (1971)  アナウンサー
新山志保   (1970)  声優
濱ノ島啓志   (1970)  相撲
土田世紀   (1969)  漫画家 「編集王」
アリ・ダエイ   (1969)  サッカー
水島広子   (1968)  政治家
川島だりあ   (1967)  FEEL SO BAD、Vo.
龍巻のピー   (1967)  元AURA、G.
岡 浩也   (1967)  俳優
山崎和佳奈   (1965)  声優
江國香織   (1964)  作家
高田裕三   (1963)  漫画家 「3×3 EYES」
片岡嗣実   (?)  ミュージシャン、パーキッツ
葛城哲哉   (1961)  ミュージシャン
川端健嗣   (1961)  アナウンサー
ローター・マテウス   (1961)  サッカー
アイルトン・セナ   (1960)  レーサー
植松伸夫   (1959)  作曲家
シルビア   (1958)  歌手、ロスインディオス&シルビア
田崎真也   (1958)  ソムリエ
ゲイリー・オールドマン   (1958)  俳優
友里千賀子   (1957)  女優
佐々木るん   (1956)  声優
板井圭介   (1956)  相撲
バッキー木場   (1956)  ナレーター
フィリップ・トルシエ   (1955)  サッカー
小川節子   (1952)   女優
岩城滉一   (1951)  俳優
チョー・ヨンピル   (1950)  歌手
残間里江子   (1950)  プロデューサー、エッセイスト
加藤和彦   (1947)  作曲家
ティモシー・ダルトン   (1946)  俳優
九重佑三子   (1946)  女優、歌手
平野レミ   (1940)  歌手、料理研究家
阿知波信介   (1940)  俳優
井上孝雄   (1935)  俳優
原 哲男   (1934)  俳優、タレント
本田靖春   (1933)  作家、評論家
高森和子   (1932)  女優、文筆業
豊登道春   (1931)  相撲、プロレス
宮城まり子   (1927)  女優、歌手、ねむの木学園園長
信夫山治貞   (1925)  相撲
升田幸三   (1918)  将棋棋士
斉藤茂太   (1916)  作家、精神科医
西田修平   (1910)  棒高跳び
佐賀 潜   (1909)  作家、弁護士
川喜多かしこ   (1908)  映画文化活動家
村瀬幸子   (1905)  女優
藤原義一   (1898)  建築学者
柳 宗悦   (1889)  美術研究家
モデスト・ムソグルスキー   (1836)  音楽家
ヨハン・セバスチャン・バッハ   (1685)  音楽家
憲子内親王   (1669)  皇族

 ○ 対馬より金、献上される。元号を大宝と改元。同時に大宝令の一部も施行(701)
 ○ 真言宗の開祖・空海、没。62歳(835)
 ○ 藤原道長が病のため出家する(1019)
 ○ 柳生一族、家光に剣法を伝授(1621)
 ○ ナポレオン法典が公布(1804)
 ○ 小学校令が改正され、義務教育年限が6年となる(1907)
 ○ 東京で初めての麻雀全国大会開催(1929)
 ○ 講道館、落成(1934)
 ○ 函館市で大火。死者650人(1934)
 ○ 第1回NHKのど自慢全国コンクール優勝大会(1948)
 ○ 日本初のカラー劇映画「カルメン故郷に帰る」封切(1951)
 ○ 奈良・高松塚古墳で極彩色壁画発見(1972)
 ○ 浦河沖地震(1982)
 ○ 誘拐された江崎グリコの江崎勝久社長が自力で脱出する(1984)
 ○ グリコ・森永事件の発端となったグリコの江崎勝久社長誘拐事件が午前0時に時効成立となる(1994)
 ○ 明石海峡大橋開通(1998)

カラー映画の日
1951年(昭和26年)のこの日、国産初の総天然色(カラー)映画「カルメン故郷に帰る」が封切られた。
映画監督は木下恵介、主演は高峰秀子。ストリッパーの主人公が、成功したと偽って故郷の信州に帰り、さまざまな騒動を巻き起こすという喜劇。

催眠術の日
催眠術をかける時のかけ声「3、2、1」から。

国際人種差別撤廃デー
1966(昭和41)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1960(昭和35)年、南アフリカのシャープビルで、人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対する平和的デモ行進に対し警官隊が発砲し、69人が死亡した。
この事件が国連が人種差別に取り組む契機となった。
世界中で人種差別の撤廃を求める運動が展開される。(International Day for the Elimination of Racial Discrimination)

ランドセルの日
3+2+1の合計が小学校の修業年数の6になることから増田利正氏が提唱。
ランドセルを手のひらにのるミニサイズに加工する店、ミニランドセルの「スキップ」を経営している。

ベニト・ファレス建国の父誕生日(メキシコ)

和泉式部忌
平安中期の歌人・和泉式部の忌日。越前守大江雅致と越中守平保衡の娘の子で、和泉守橘道貞と結婚し「和泉式部」と呼ばれるようになる。
その才能は豊かで、殊に恋愛を詠んだ情熱的秀歌が多い。反面、その幾多の恋愛遍歴から、藤原道長からは「うかれめ」と揶揄されたこともある。

弘法忌,空海忌,御影供
真言宗の開祖・空海が835(承和2)年に高野山・奥の院で入寂した日。真言宗では「御影供」と呼ばれる。


カラー映画の日
1951年(昭和26年)のこの日、国産初の総天然色(カラー)映画「カルメン故郷に帰る」が封切られた。
映画監督は木下恵介、主演は高峰秀子。ストリッパーの主人公が、成功したと偽って故郷の信州に帰り、さまざまな騒動を巻き起こすという喜劇。

催眠術の日
催眠術をかける時のかけ声「3、2、1」から。

国際人種差別撤廃デー
1966(昭和41)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1960(昭和35)年、南アフリカのシャープビルで、人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対する平和的デモ行進に対し警官隊が発砲し、69人が死亡した。
この事件が国連が人種差別に取り組む契機となった。
世界中で人種差別の撤廃を求める運動が展開される。(International Day for the Elimination of Racial Discrimination)

ランドセルの日
3+2+1の合計が小学校の修業年数の6になることから増田利正氏が提唱。
ランドセルを手のひらにのるミニサイズに加工する店、ミニランドセルの「スキップ」を経営している。

ベニト・ファレス建国の父誕生日(メキシコ)

和泉式部忌
平安中期の歌人・和泉式部の忌日。越前守大江雅致と越中守平保衡の娘の子で、和泉守橘道貞と結婚し「和泉式部」と呼ばれるようになる。
その才能は豊かで、殊に恋愛を詠んだ情熱的秀歌が多い。反面、その幾多の恋愛遍歴から、藤原道長からは「うかれめ」と揶揄されたこともある。

弘法忌,空海忌,御影供
真言宗の開祖・空海が835(承和2)年に高野山・奥の院で入寂した日。真言宗では「御影供」と呼ばれる。


柳生十兵衛(1607-1650)
慶安3年(1650)3月21日、剣客として知られる柳生十兵衛三厳(1607生)が死去しました。

柳生十兵衛は徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた柳生但馬守宗矩の長男で、同じく家光の剣指南役をしていましたが、後に諸国を漫遊。
やがて郷里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上の弟子に剣術を指南しました。
その弟子の中に、鍵屋辻の仇討ちで知られる荒木又右衛門などがいます。

新陰流(しんかげりゅう)は上泉伊勢守信綱が戦国末期に編み出した剣術で、二世の柳生石舟斎宗厳以降、柳生家に伝えられたため、柳生新陰流とも呼ばれます。
江戸時代には将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授が禁じられていたようです。

時代劇でおなじみ柳生但馬守は石舟斎の五男ですが、彼は剣術よりも政治力により徳川幕府の中核に進出したもので、新陰流の完成者は但馬守の甥である四世・柳生兵庫助利厳であるとされます。

  柳生石舟斎宗厳―+―新次郎厳勝―――兵庫助利厳(尾張柳生)
          |
          +―但馬守宗矩―+―十兵衛三厳
                  |
                  +―飛騨守宗冬(江戸柳生)

ただし、兵庫助は結局尾張徳川家に仕えるようになり、以後兵庫助の系統は尾張柳生と呼ばれ、対して但馬守の系統は江戸柳生と呼ばれます。

柳生家は代々大和国柳生庄に居を構えていたのですが、石舟斎の代に織田信長から所領を没収されてしまいました。
しかし但馬守が徳川家康から1万2千石を与えられ大名となります。

但馬守はその所領を十兵衛に8千石、弟で家を継いだ飛騨守に4千石分け与えますが、十兵衛の死後はその所領は飛騨守の所領に合併されて、再び大名に復しました。

十兵衛が江戸を出て諸国を巡るようになったきっかけとしては家光との関係が言われています。
ある時、家光は辻斬りの味を覚えてしまいました。
夜な夜な密かに城を抜け出しては、闇に紛れて通行人を斬るということをしていました。

これは万が一にも表沙汰になる前に何とかせねばと考えた十兵衛は、通行人に身をやつして(女装説もあり)、家光が来るのを待っていました。
そして家光が、いい獲物が来たとばかり斬りかかると、家光の腕をつかんで、堀の中へ思いっきり放り込んでやったのです。

お陰で家光も反省して、こういうとんでもないことは止めるのですが、さすがに十兵衛と目を合わせるのが照れくさく感じるようになり、十兵衛もそれを察して、城を辞し、各地を廻って剣の腕を鍛えたといいます。

なお、十兵衛は片目が見えなかったのですが、これは小さい頃剣の練習をしていて、相手(父の宗矩という)の剣が誤って目に当たってしまい失明したものといわれます。

柳生十兵衛のお墓は東京練馬の広徳寺にあります。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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