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3月22日 放送記念日(NHK1943)、世界水の日(国連)、夫婦の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
アザレア(赤)   節制・節度の愛          ○
ゼニアオイ     恩恵・母の愛・温和・温厚
          初恋・信念・説得         ○
チューリップ(紫) 永遠の愛情            ×
ムクゲ       デリケートな愛・デリケートな美・説法
          尊敬・信念・繊細美・尊敬・柔和  ○
レンギョウ     希望・希望の実現・豊かな希望   ○

∞…∞ 3月22日・今日という日 ∞…∞

桜木睦子   (1988)  タレント
柳明日香   (1980)  タレント
吉岡毅志   (1979)   俳優
馬場裕之   (1979)  タレント、ロバート
吉岡ヤスタカ   (1977)  タレント、サービスパンダ
野田晋ノ助   (1977)  タレント、セカンドステージ
リーズ・ウィザースプーン   (1976)  女優
中村 豪   (1975)  タレント、やるせなす
高原知秀   (1973)  俳優
エルビス・ストイコ   (1972)  フィギュアスケート
竹若拓磨   (1971)  声優
若桑一人   (?)  漫画原作者 「売ったれダイキチ!」
橋本実加子 (橋本美加子)   (1970)  女優、歌手
有働由美子   (1969)  アナウンサー
前川和也   (1968)  サッカー
石川小百合   (1965)  キャスター、タレント
若山かずさ   (1964)  歌手
フラッシュ金子   (1964)  元 米米CLUB、Sax.
中 友子   (1963)  声優
リッチ・モンテレオーネ   (1963)  野球
古手川伸子   (1962)  女優
飴屋法水   (1961)  演出家、動物商
矢野明仁   (1959)  タレント
春海四方   (1959)  元 一世風靡セピア
古賀潤一郎   (1958)  政治家
水樹和佳子 (水樹和佳)   (1957)  漫画家
真島茂樹   (1957)  振付師
田村 信   (1955)  漫画家 「できんボーイ」
松井道夫   (1953)  松井証券社長
堀内正美   (1950)  俳優
高坂真琴   (1950)  声優
ジョニー広瀬   (1948)  手品師
大塚博堂   (1944)  シンガーソングライター
原 一平   (1938)  タレント
村川 透   (1937)  映画監督
大橋巨泉   (1934)  タレント
マルセル・マルソー   (1923)  パントマイム
猿橋勝子   (1920)  地球化学研究家
中山晋平   (1887)  作曲家
小村雪岱   (1887)  画家
小磯國昭   (1880)  政治家
ウィルヘルム1世   (1800)  ドイツ帝国皇帝

 ○ 記録上初めての三つ子、誕生。出産した筑前国の舎人臣福長女に正税400束をプレゼント(827)
 ○ 西蝦夷地を松前藩から幕府直轄領とする(1807)
 ○ ゲーテ、没。83歳(1832)
 ○ 人力車営業開始(1870)
 ○ 「ザ・ジャパン・タイムズ」創刊(1897)
 ○ NHKが日本初のラジオ仮放送。ちなみに本放送は7月12日(1925)
 ○ 文部省国語審議会、国号の呼び方を「ニッポン」と称する案を政府に提出(1934)
 ○ ドイツで世界初のテレビ定期放送を開始(1935)
 ○ 第1回全日本女子プロボウリング選手権。優勝者は中山律子(1970)
 ○ 初のエイズ患者確認を厚生省発表(1985)

法隆寺会式(ほうりゅうじえしき)
聖徳太子の忌日。本来は2/22であったが明治44年以降は月遅れの3/22〜3/24に行われるようになった。この期間、法隆寺において法要が行われている。
10年に一度は大会式(2001,2011,...)が行われ、他の年は小会式が行われる。

世界水の日
国連が制定した国際デー。1992年(平成4年)に国連総会で決定し、翌1993年(平成5年)から実施した国際デー。
地球的な視点から水の大切さと貴重さを見つめ直そうというもの。

放送記念日
1925年(大正14年)の今日、東京・芝浦に設けられた東京放送局仮スタジオから日本初のラジオ仮放送が行なわれたことを記念して、NHKが1943年(昭和18年)に定めた日。

夫婦の日
毎月の22日。「22」を「フーフ」にかけた語呂合わせによる。夫婦対話で明るいマイホーム作りをと1987年に毎日新聞が提唱し、制定。


NHK放送記念日(3.22)
放送記念日というのは幾つかありまして、2月1日はテレビ放送記念日、6月1日は国際放送記念日、そして9月10日はカラーテレビ放送記念日となります。

また、3月22日のNHK放送記念日は、大正14年(1925)3月22日にNHK(当時東京放送局)がラジオの仮放送を始めたのを記念し昭和13年に制定されたものです。

東京放送局は電機メーカーや新聞社などが共同で設立した社団法人で、初代の総裁は東京市長や逓信大臣・満州鉄道総裁などとしても知られる後藤新平氏です。
当時、同様の動きが東京・大阪・名古屋で起こり、JOAK=東京放送局、JOBK=大阪放送局、JOCK=名古屋放送局、とコールサインは決められていました。

この時期に放送局が相次いで産声をあげたのは大正12年(1923)の関東大震災の反省があります。
この時、多くの根も葉もない噂(これは外国の攻撃らしいなどといったもの)が飛び交い、そのために朝鮮系の人たちが襲撃されて命を落としたりという事件が多数起きました。
そこで、どういう時にでも瞬時に国民に正しい情報を伝えるメディアが望まれたのでした。
関東大震災の復興に東京市長として尽力した後藤新平氏は、特にこの事業に乗り気であったでしょう。

東京放送局は最初3月1日に放送を始める予定でした。
ところが購入するつもりであった、当時国内に1台しか存在しなかった放送用の送信機が大阪放送局に先に買い取られてしまいます。
そこで東京電気研究所の送信機を借りて急遽放送用に改造して使用することにしました。
しかし、逓信省の2月26日の調査で「放送設備が未完成であるから3月1日からの放送は許可できない」と言われてしまいます。
開始予定日はもう3日後でした。

既に3月1日から放送を開始するということで新聞などにも流しています。
そこで3月1日からの放送は「試験放送」ということにして、追って必要と言われた設備を整備しました。
改めて放送開始の許可を取って、3月22日「仮放送」にこぎつけました。(試験放送ならそれ以前にも色々なところがしているらしい)

この日朝9時30分、京田武男アナウンサーの「JOAK。こちらは東京放送であります。こんにちただいまより、放送を開始致します」という第一声に続き海軍軍楽隊の演奏がありました。
周波数は594KHz。
10時には放送開始式が行われ、後藤総裁はラジオ放送の意義として次の4点を挙げました。

 (1)文化の機会均等。放送は地域・年齢性別に関係なく聞くことができる。
 (2)ラジオを取り囲んでの家庭内での団欒。外に行かなくても家で寄席などが聞ける。
 (3)社会人でも放送を通して教育を受けることができる。
 (4)経済機能の敏活化に寄与する。

当時の東京放送局は芝浦の東京高等工芸学校内の図書室に設けられていましたが、5月には愛宕山の現在放送博物館になっている地に正式の放送局が建築され、7月12日に「本放送」が始まります。
この7月12日は現在「ラジオ本放送の日」になっています。
なお6月1日には大阪放送局も上本町のスタジオから仮放送を開始し、7月には名古屋放送局もスタートしました。

3月の放送開始時点のラジオの受信契約者は5455人で、ラジオの置かれた商店などの前には、毎日のように人が群がっていたそうですが、その年のうちに聴取者は東京で13万人、大阪で5万人、名古屋で1.5万人にまで増えています。

当時はラジオを買うのにもいちいち役所の許可が必要でしたが、放送に対する国民の期待度が推して計れます。
このブームに乗ったのが大阪のシャープで同社はこの年4月に鉱石ラジオを発売しました。
飛ぶように売れて、シャープペンシルで一時代を作った会社が新たなイメージを獲得しました。

なお、この年放送開始した3つの放送局は翌年8月20日、合併して日本放送協会となります。
その後の同協会のあゆみは以下の通りです。

1931.04.06 NHK第二放送開始

1950.06.01 社団法人から特殊法人に改組(放送の自由化に伴う)し、この時GHQの指導でアルファベット3文字の略称を決めるよういわれ NHK の名前が生まれる。

1953.02.01 テレビ放送(総合)開始

1959.01.10 教育テレビ開始

1960.09.10 カラー放送開始

1969.03.01 FM放送開始

1984.05.12 衛星放送試験放送開始

1985.11.29 文字放送開始

1989.06.01 衛星放送本放送開始

1994.11.25 ハイビジョン試験放送開始

2000.12.01 BSデジタル放送開始

(1997-03-21)(2001-04-03大幅加筆&訂正)



秋田新幹線開業(1997)
1997年の3月22日、秋田新幹線が開業しました。

秋田新幹線のルートの大半は田沢湖線で、ここは在来線の基盤に新幹線規格の「標準軌」(レール幅1.435m)を敷設し、従来の新幹線と同一規格の列車を通しています。
この方式は「ミニ新幹線」と呼ばれています。
これに対して、一部の整備新幹線で予定されている「スーパー特急」とは新幹線の基盤を作って、取り敢えず在来線型の特急を走らせるものです。

日本の鉄道は明治時代に当初インドの規格を導入したため、標準軌よりも狭い、「狭軌」(レール幅1.067m)でスタートしてしまいました。
技術指導したイギリスも自分の植民地で多くこの規格を使っていたため、それで十分と思っていたようです。
当時の政府の担当者も「日本は国土が狭いからレール幅も狭い方がいいでしょう」などという説明で納得してしまったといいます。

しかし、狭軌では、どうしてもそんなにスピードが出ないため標準軌に変えようという構想が早い時期からあり、特に鉄道技監の島安次郎や東京市長なども務めた後藤新平が積極的に推進したのですが、あと少しという所で政治的圧力により潰され、実現しませんでした。

挫折した島や後藤は満州にわたり、ここで夢を実現します。
満州鉄道も狭軌でスタートしたのですが、標準軌にすべきという彼らの意志が通り大量人員を動員して一晩の内に「せーの」で片方のレールを外側にずらし、標準軌の鉄道に生れ変りました。
満州鉄道ではこの標準軌のおかげで、国内の最速の特急が越せなかった時速100kmの壁を破る時速130kmの特急を走らせました。

標準軌化構想が国内でやっと動き出したのは戦後のことでした。
東京−大阪間を結ぶ「新幹線」構想で、高速を出すためには標準軌は絶対必要という主張が認められ、東海道新幹線が生まれました。
これを指揮したのは島の息子である島秀雄でした。
この時速250kmの鉄道構想は明治時代に既に論文になっていたものだったのです。

この時、彼は国鉄総裁の十河信二と共謀、日本の将来に新幹線は絶対必要との使命感から、政府に提出する予算見積もりを本来必要な額の半分の数字に誤魔化して認可を取りました。
むろん予算の倍かかってしまった為、二人は責任を取って辞任し、新幹線の開業を責任者として見届けることはできませんでした。
島秀雄はその後新幹線よりもっと速いロケットの開発に従事します。

現在、その東海道新幹線は山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と延長され、山形・秋田・長野・九州へと腕がのびており、日本の大動脈になっています。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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