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3月26日 ふろの日(毎月)
     独立記念日(バングラディシュ)・カチューシャの歌の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
キンセンカ(橙)  静かな思い            ○
サクラ草(白)    初恋               ○
シナサクラ草    永遠の愛             ×
シュンラン     気品・清純            ○
ハナカイドウ    友情               ×

∞…∞ 3月26日・今日という日 ∞…∞

柳楽優弥   (1990)  俳優
清水 愛   (1981)  声優
石塚義之   (1975)  タレント、アリtoキリギリス
後藤久美子   (1974)  女優
すわひでお   (1974)  ミュージシャン、school
用稲千春   (1974)  キャスター
吉田 眞   (1973)  タレント、パックンマックン
いとうみきお   (1973)  漫画家
雉子牟田直子   (1972)  テニス
安野モヨコ   (1971)  漫画家 「ハッピーマニア」
岩田やすてる (岩田康照)   (1971)  漫画家
崔 鎮 (チェ・ジンチョル)   (1971)  サッカー
梁 慶一 (ヤン・ギョンイル)   (1970)  漫画家 「新暗行御史」
藤ジニー   (1966)  銀山温泉藤屋女将
京極夏彦   (1963)  作家
清水玲子   (?)  漫画家 「月の子」
井上和彦   (1954)   声優
ピーター・フランクル   (1953)  数学者、大道芸人
天野喜孝   (1952)  イラストレーター
岩松 了   (1952)  演出家
いしだあゆみ   (1948)  歌手、女優
櫻木健一   (1948)  俳優
中本マリ   (1947)  ジャズシンガー
緑 魔子   (1944)  女優
ダイアナ・ロス   (1944)  歌手
岸千恵子   (1942)  歌手
海老原博幸   (1940)  ボクシング
小川光明   (1940)  アナウンサー
田中晋二   (1940)  俳優
団 令子   (1935)  女優
根岸明美   (1934)  女優
野村沙知代   (1932)  タレント、野村克也夫人
早乙女勝元   (1932)  作家
柴田錬三郎   (1917)  作家
浜口隆一   (1916)  建築評論家
テネシー・ウィリアムズ   (1911)  女優
今 東光   (1898)  作家
ルドルフ・ダスラー   (1898)  プーマ創業者
西村真琴   (1883)  生物学者、「学天則」制作
李 承晩 (イ・スンマン)   (1875)  韓国大統領

 ○ 「新古今和歌集」完成(1205)
 ○ ベートーベン、ウィーンで没。56歳(1827)
 ○ 幕臣・榎本武揚らを乗せた最新鋭の蒸気軍艦が横浜に到着(1869)
 ○ 三重苦のヘレン・ケラー、発音訓練を始める(1890)
 ○ 与謝野鉄幹、没。62歳(1935)
 ○ フランス軍、南ベトナム撤退(1956)
 ○ 室生犀星、没。73歳(1962)
 ○ 巨大実験都市・多摩ニュータウン入居開始(1971)
 ○ バングラデシュ(東パキスタン)がパキスタンから独立(1971)
 ○ 成田空港管理棟に過激派乱入(1978)
 ○ ロンドンの病院で体外受精による初の五つ子(全て男児)誕生(1986)

カチューシャの歌の日
1914(大正3)年、島村抱月と松井須磨子が興した芸術座が、トルストイの『復活』の初演を行いました。
この中で歌われた「カチューシャの歌」が大流行した。

クヒオ・デー(Kuhio Day)(アメリカ合衆国ハワイ州)

独立記念日
(バングラデシュ) 1977(昭和52)年、東パキスタンがバングラデシュとして独立した。
1947(昭和22)年8月14日に、(旧)インドがヒンズー教徒のインド、仏教徒のセイロン(現在のスリランカ)、イスラム教徒の(旧)パキスタンの3つに分かれたが、パキスタンは国土がインドによって東西に分断された飛び地となっていた。

犀星忌
小説家・詩人の室生犀星の1962(昭和37)年の忌日。
『愛の詩集』『幼年時代』『あにいもうと』『杏つ子』等の作品を残しました。

鐵幹忌
歌人・詩人で與謝野晶子の夫の與謝野鐵幹の1935(昭和10)年の忌日。

楽聖忌
1827年、ドイツの作曲家ベートーベンがウィーンの自宅で亡くなった。多くの交響曲を作曲し、「楽聖」と呼ばれました。
3日前、甥のカールを唯一の相続人にするように遺言書を補足し、「諸君、拍手したまえ。
喜劇は終わったのだ」という有名な言葉をつぶやいたとされる。
29日の葬儀には2万人の市民が参列し、宮廷歌手が棺をかついでフンメルら弟子たちがそれに続いた。
しかし、数々の作品を献呈され交際のあった貴族たちはだれも出席しなかった


ビデオ公開実験(1959)
1959年3月26日 芝電気(現・日立電子)がビデオテープレコーダの公開実験に成功する。

この時期芝電気が開発したVTRは斜め走査方式(Helical Scan)を採用していました。
それ以前のビデオでは画像データをテープの幅方向(走行の直角方向)にまっすぐ記録していたのですが、Helical Scanでは、斜めに記録します。

そしてヘッドを固定式ではなく円筒形の回転式にして、テープの走行する方向と同じ方向に回転させ、読みとるのです。

これによってテープの記録密度を上げるとともに、より正確なトラッキングをすることができます。
現在の家庭用ビデオもこの方式を継承していますし、ほかDATなどがこの方式を使っています。
また近年医療用のCTスキャンで、同様のヘリカルスキャン、つまり螺旋状に体内を走査する方式の機械が登場しています。

日本の家庭用ビデオはこの後、1960年代の半ばから各メーカーから本格的に販売が始まりますが初期の段階ではメーカー間の互換性が全くなかったため普及が遅れます。
1969年にやっと統一規格が出来ますが、まだ当時はオープンリール型。
カセット型のVHS・βが登場するのは1975〜1976年になります。

1960年代のビデオというのは機械自体もメディアもとにかく高価で、天下のNHKでも放送した番組の記録を完全に残すことができず、大人気番組であった「ひょっこりひょうたん島」なども、わずか数本しか保存されていなかったそうです。(次から次へと重ね撮りしていた)

高かったんですね〜。

成田空港占領事件(1978)
1978年3月26日、開港を4日後に控えていた成田空港の管制塔に過激派が乱入して占拠。
内部の機器を破壊して、空港の開港は2ヶ月遅れることとなりました。

『新東京国際空港』構想は東京国際空港(羽田空港)に手狭感が出始めた1950年代後半頃から出てきたもののようです。
当初候補地としては霞ヶ浦など数カ所がピックアップされ、1960年代前半には富里町でほぼ決まり、地元自治体との調整や用地買収などの交渉が開始されました。

ところが地元住民の抵抗が非常に強く、話し合いは難航しました。
1966年7月4日、政府は富里町への新空港建設を断念、突如として、今まで一度も候補地に上がっていなかった成田市三里塚の地を新空港建設地に決定したのです。

寝耳に水であった三里塚の住民はこの政府決定に猛反発。
激しい反対運動が勃発しました。
ここに反帝学評(革労協)・第四インター・中核などの新左翼の活動家が合流して、戦後最大級ともいうべき強い抵抗運動戦線が成立したのです。

地元住民としては今までずっと住んでいた土地を追われることと、騒音・環境破壊問題を重視したわけですが、新左翼の活動家にいわせると三里塚は次のような意味を持つとしました。

・政府は最終的には羽田を東京の中心空港にするつもりだ
・三里塚空港は羽田の工事をする際の一時的な代替場所にすぎない
・羽田の工事が完了してそちらに主機能が戻った後は、三里塚は百里基地に代わる、首都防衛のための自衛隊と米軍の基地にするつもりに違いない。

新左翼にとってはここに新しい軍事基地が出来ることは日本の軍備の増大を意味するとして、そこに強硬に反対した訳です。

この「三里塚闘争」は全国で多くの共感者を産み、一坪地主運動なども巻き起こりました。
つまり建設予定地の土地を1坪単位に分割して多くの人の所有物件にしてしまうことにより、政府が土地を買い上げるための交渉相手の数を膨大に増やし、万一強制執行により土地を取り上げられる場合も、その手続きの手間を増やそうというものです。

この運動は1966年から5年ほど続きましたが、1971年に国は強制執行を実施。
1973年には1本目の滑走路の建設にこぎつけました。
しかし反対派はまだ残っている土地に、航空機の進路を妨害するように岩山大鉄塔を建てて開港を妨害。
やむを得ず国は開港を延期して更に地主と話し合いを進める一方ひとつずつ強制執行も行なうという「アメとムチ」の戦略を実施。

1977年5月6日はその反対派のシンボルともなっていた岩山大鉄塔が引き倒され、1978年3月30日、12年の歳月を掛けてやっと新空港開港までこぎつけました。

反対派はここで開港前のトラブルを避けるため1万人もの警察官を動員して警戒に当たっていた中をかいくぐり、3月26日管理棟を占拠して、開港を遅らせることに成功したのです。

この快挙に全国の多くの市民運動家が拍手を贈りました。

しかし抵抗運動もここまでが限界でした。
1978年5月20日、成田空港が、滑走路がたった1本の片肺空港として不完全ながらも開港してしまうと、多くの住民が挫折感を味わい、反対運動から去って政府と妥協し、土地を手放しました。

そのため一部の強硬派の所有地を除くとこの後の折衝は順調に進みます。
新左翼の面々も同様の挫折感を抱いて、一部を除いてこの土地から去って行きました。

そのわずかに残った強硬反対派の力で、成田空港は2本目の滑走路を作ることがいつまでもできず、そのため増え続ける発着便をさばくため2〜3分に一本という超過密スケジュールで離着陸が行われており、一つ間違うと大惨事を招く危険な状態が続いていました。

そのため政府は反対派の地主の土地を避けて、逆側に少し延長した暫定滑走路の建設を決定。
これは今年2000年の5月に供用開始です。

その一方で、先日政府はとうとう、羽田空港の夜間国際化の方針を発表しました。
やはり新左翼が主張していた話は本当だったのかも知れません。
ただ激しい抵抗運動のため、その予定が30年以上遅れてしまったということなのでしょう。

成田空港は1966年の閣議決定の際、建築費は1350億円と見込まれていました。
しかし実際に今まで政府がこの空港のために使ったお金は10倍の1兆2千億円に及びます。

更に、この成田空港に関する闘争では6名の死者を出しています。

1971.9.16 東峰十字路で機動隊員3名死亡

1977.5.06 岩山大鉄塔撤去に関する衝突で、反対派の救護に当たっていたボランティア1名の頭に機動隊のガス弾が直撃して死亡。

1977.5.09 過激派が交番を襲撃して警官1名死亡。

1978.3.26 成田空港管制塔突入の際、活動家1名が火傷を負い2ヶ月後死亡。

関西空港は建設費が1兆5千億円掛かっていますが貨幣価値の上昇を考えると、この規模の海上空港を1960年代に建設していれば、恐らく4000億円程度でできたのではないでしょうか。

成田空港問題の最大の原因は、ひとえに住民のコンセンサスを取る前に計画を強行しようとした、政府の『ボタンの掛け違え』にあるといえます。
その代償は極めて大きなものだったでしょう


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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