戻る ▲トップページ

4月21日 民放の日、放送広告の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クロタネソウ    とまどい・困惑・当惑・夢を抱く  ○
スイートピー ほのかの喜び・思い出・繊細・優美・門出
    デリケートな喜び・思い出・別離・優しい思い出 ○
ヤナギ わが胸の悲しみ・愛の悲しみ・自由・従順・素直 ○

∞…∞ 4月21日・今日という日 ∞…∞

安藤 奏   (1988)  タレント
HALCA   (1988)  HALCALI
安田美沙子   (1982)  タレント
下野 紘   (1980)  声優
星野 桂   (1980)  漫画家
鹿島公行   (1979)  ジャパハリネット、Bass
西本はるか   (1978)  タレント、元パイレーツ
ジェイミー・サレー   (1977)  フィギュアスケート
チロ (鈴木智彦)   (1977)  タレント、ビックスモールン
一宮里絵   (1976)  タレント
平井正史   (1975)  野球
コヤマシュウ   (1975)  Scoobie Do、Vo.
森 雅樹   (1974)  EGO-WRAPPIN’、G.
Shun   (1974)  FANATIC◇CRISIS、G.
クリフ・ブランボー   (1974)  野球
横手久美子   (1973)  声優
上野良治   (1973)  サッカー
小西克幸   (1973)  声優
グェンダル・ペーゼラ   (1972)  フィギュアスケート
中村かなこ   (1971)  漫画家
久宝留理子   (1969)  シンガーソングライター
吾妻 謙   (1969)  アナウンサー
村山喜彦   (1964)  アナウンサー
榎田健一郎   (1964)  野球
辻沢杏子   (1962)  女優
今井雅之   (1961)  俳優
千葉裕子   (1961)  歌手、裕子と弥生
千葉弥生   (1961)  歌手、裕子と弥生
畑中葉子   (1959)  歌手、タレント
竹原ひろみ   (1958)  タレント
臼井儀人   (1958)  漫画家 「クレヨンしんちゃん」
保積ペペ   (1958)  俳優
君塚良一   (1958)  脚本家
トニーニョ・セレーゾ   (1955)  サッカー
芳野藤丸   (1951)  SHOGUN、Vo. G.
矢野立美   (1949)  作曲家
芦田豊雄   (1944)  アニメーション監督
輪島功一   (1943)  ボクシング
須藤 豊   (1937)  野球
鳳八千代   (1933)  女優
エリザベス2世   (1926)  イギリス女王
ボス宮崎   (1922)  ミュージシャン
岡田嘉子   (1902)  女優
三船久蔵   (1883)  柔道
マックス・ウェーバー   (1864)  社会学者
シャーロット・ブロンテ   (1816)  作家
フリードリヒ・フレーベル   (1782)  教育者

 ○ 柴田勝家と豊臣秀吉が賤ケ岳で戦う(1583)
 ○ 富くじ、幕府公認に(1730)
 ○ 江川太郎左衛門が伊豆韮山に大砲鋳造のための反射炉が完成(1854)
 ○ 渋谷駅前、忠犬ハチ公像建立。ハチ公本人(本犬)も除幕式に列席(1934)
 ○ ラジオ16社に初の予備免許が与えられる(1951)
 ○ アメリカ、ハワイ州が合衆国に加盟(50番目)(1959)
 ○ 日ソ漁業協力協定調印(1978)

民放の日
日本民間放送連盟(民放連)が1968(昭和43)年に「放送広告の日」として制定。
1993(平成5)年に「民放の日」に改称しました。
1951(昭和26)年のこの日、日本で初めて民放16社に放送の予備免許が与えられ、翌1952(昭和27)年のこの日に民放連が発足しました。

同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。

チラデンテス記念日(ブラジル)


賤ヶ岳の合戦(1583)
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。
織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけました。

天正11年(1583)4月21日、羽柴秀吉は賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を倒し、信長後継の最大のライバルを葬って天下人への道を1歩進めた。

歴史人物系図からまず掲示します。

   織田信秀
    |
   +−−−−−−−+
   |       |
  信長 浅井長政=お市=柴田勝家
         |
     +−+−−−−−−−+
 豊臣  | |       |
 秀吉=茶々 お初 佐治一成=お
     |         江===徳川秀忠
     |    木下秀勝=与 |
     |          +−−−−+−−+−−+
     秀          |    |  |  |
     頼=========千姫=本多 家光 忠長 和子=後水尾
                  忠刻    |      天皇
                       松平長七郎

この系図の下の方は、おまけです。(^_^;

お市の方は最初浅井長政と結婚して二人の息子と三人の娘を設けますが、やがて浅井長政が織田信長に滅ぼされたため、娘たちを連れて織田家に戻ります。(息子二人は長政と運命を共にする)

天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が本能寺の変で重臣の明智光秀によって殺害されると、その後間もない山崎の戦いで光秀を倒した羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに様になりました。

6月27日(7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)で、信長の三男・織田信孝(神戸家に養子に行っていた)を推す柴田勝家と、信長の長男の子秀信(当時3歳・三法師)三男を推す秀吉系との間で激しく対立しました。

結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定しました。

さらに秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門筋である浅野長政・杉原家次をすえました。
勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いていた。

信長の後継をめぐって家臣団が信長の長男の子秀信(当時3歳)を推す秀吉系と三男で神戸家に養子に行ってい
た信孝を推す勝家系に分かれた時、お市の方は草履取り上がりの秀吉より昔からの織田家の家臣である勝家を支持し、彼の元に嫁いで行きます。

勝家はいったん越前の居城に戻り様子をうかがいました。

しかしそういう勝家を秀吉が放置する筈がありません。
冬になって勝家の城が雪に閉ざされたころから活動開始、勝家系の周辺の城を次々と攻略し、そ
れに対して勝家も雪の中兵を進めて琵琶湖付近で相対しました。

この時大垣の神戸信孝が動きます。
秀吉はやむなく一部の兵を残したまま大垣へ向かいますが、勝家側はこの機会に賤ヶ岳の秀吉側の陣を奪取しようとします。
この攻撃はいったんは成功するのですが、昔から行軍速度を誇る秀吉軍はすぐに引き返してきて、この地で激しい戦闘が開始されました。

この時、突然一応勝家側についていたはずの信長の重臣の一人前田利家は戦闘を放棄して加賀へ帰ってしまいます。
これはこの時点では秀吉に味方すれ
ば義理を欠き、勝家に味方すれば自分の家臣たちを路頭に迷わせることになると悩みに悩んだ末の利家のギリギリの行動であったと言われています。

しかし結果的には利家軍離脱のあと勝家軍は「賤ヶ岳七本槍」(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則)らの活躍で次々に打ち破られ、勝敗は決します。
そして本来ならば逃げてよかったお市の方は憎き秀吉のもとへ行くことを嫌い、娘たち三人だけを脱出させてここで勝家とともに死んでいきます。

このあとのこの三姉妹の行動、特にお茶々(淀君)の行動は実は母お市の方の無念を晴らすため豊臣をつぶそうとする行動だったのではないか、という説もあるくらいなのです。……


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ