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4月28日 サンフランシスコ講和記念日、象の日、にわとりの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
サクラソウ     勝者の寛容・少年時代の希望
          神秘な心・青春の歓びと悲しみ   ×
サクラ草(赤)    顧みられない美          ○
バイモ       威厳・人を喜ばせる        ○
ヒメハギ      隠者・隠者・信じる恋       ○
ムスカリ      寛大な愛・失望・明るい未来    ○

∞…∞ 4月28日・今日という日 ∞…∞

川崎樹音   (1995)  タレント
豊永利行   (1984)  俳優、声優
ジェシカ・アルバ   (1981)  女優
金子梅華   (1980)  タレント
中島大吾   (1980)  チン☆パラ
小林亮寛   (1979)  野球
楠本ひろみ   (?)  脚本家
大塚 明   (1975)  野球
桜木さゆみ   (1975)  漫画家
笠原紳司   (1974)  俳優
ペネロペ・クルス   (1974)  女優
ラファエル・オレラーノ   (1973)  野球
今藤幸治   (1972)  サッカー
松下里美   (1972)  タレント
ANCHANG   (1970)  SEX MACHINEGUNS、Vo.
生稲晃子   (1968)  タレント
中井邦彦   (1968)  漫画家 「楽ガキFighter」
安生洋二   (1967)  プロレス
宮地雅子   (1966)  女優
竹本孝之   (1965)  タレント、俳優
麻生詩織   (1964)  歌手
河野博文   (1962)  野球
辻元清美   (1960)  政治家
マーク・ライアル   (1960)  野球
玄侑宗久   (1956)  作家、僧侶
原ゆたか   (1953)  絵本作家
ドン貫太郎   (1953)  俳優
村生ミオ   (1952)  漫画家 「胸騒ぎの放課後」
河村要助   (1944)  イラストレーター
グレート小鹿   (1942)  プロレス
サダム・フセイン   (1937)  イラク大統領
中 利夫   (1936)  野球
林キセ子   (1926)  モデル、タレント
千秋 実   (1917)  俳優
オスカー・シンドラー   (1908)  実業家
佐伯祐三   (1898)  画家
東郷青児   (1897)  画家
大賀一郎   (1883)  植物学者
島津斉彬   (1809)  薩摩藩主
山田検校   (1757)  筝曲家
ジェームス・モンロー   (1758)  アメリカ大統領

 ○ 日蓮、立宗宣言(1253)
 ○ 蓮如、山科本願寺建立(1497)
 ○ 清の商人が現在のベトナムから象をつれてきて、披露(1729)
 ○ 日本銀行開業(1883)
 ○ ブラジルへの第一回移民83人が神戸港を出発(1908)
 ○ 第一回文化勲章の授与式(1937)
 ○ ムッソリーニが銃殺刑に処せられる。61歳(1945)
 ○ アメリカの習慣をまねてサマータイム導入。実施は5月2日から。しかし1952年には廃止(1948)
 ○ サンフランシスコ平和条約により日本が独立権回復(1952)
 ○ 初の男性向け週刊誌「平凡パンチ」が創刊される(1964)
 ○ 返還を求めて、沖縄デー。国電、新幹線もストップ(1969)
 ○ 任天堂が電子ゲーム機ゲーム&ウォッチを発売する(2年間で900万個を売る)(1980)

サンフランシスコ平和条約発効記念日
1951年(昭和26年)の9月8日に、サンフランシスコで連合軍と日本との間に「対日平和条約」が調印され、翌年の4月28日にその効力が発生、日本の主権が回復された記念すべき日。

身体障害者福祉法施行記念日
わが国で初めて全国民を対象とした、リハビリテーション視点での法律として身体障害者福祉法(昭和24年法律第283号)が誕生したことを記念して。

シニアの日
「シ(4)ニ(2)ヤ(8)」の語呂合せ。

缶ジュース発売記念日
1954年(昭和29年)のこの日、明治製菓が日本で初めての缶ジュース「明治オレンジジュース」を発売したことを記念して制定。

象の日
1729(享保14)年、交趾国(現在のベトナム)からの献上品として清の商人により初めて日本に渡来した象が、中御門天皇の御前で披露されました。
その後江戸に運ばれ、5月27日に将軍徳川吉宗の御覧に供されました。

インテリアの日(毎月第4土曜日)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


鶏の日(毎月28日)
毎月28日は鶏毎月28日は「にわとりの日」です。
これは「28」を「にわ」と読んだものです。
1978年に日本養鶏協会が定めました。

鶏はキジ科の鳥で、中国原産ですが、四系統あった野鶏の内、赤色野鶏が現代の鶏の祖先といわれています。
家禽として改良が重ねられ、種として確立したのは4000年ほど前とも言われます。
その後世界に広がり、日本にも縄文時代頃に渡来していたようです。

ただ日本では聖武天皇以来、公的には菜食主義であったため、鶏はあくまで大半が愛玩用・目覚まし時計代わりに飼われていました。
「にわとり」という日本語も「庭で飼っている鳥」という意味でしょう。

それが安土桃山時代から江戸時代初期に掛けて、外国文化が入ってきたことから、卵を食べる習慣が芽生え、この時期に多数の外国種の鶏が入ってきているようです。
かくして落語の「長屋の花見」にも出てくるように卵焼きのような料理も生まれています(落語では実際には卵焼きに見立てた沢庵ですが)。
東海道中膝栗毛などにも卵料理は登場しています。

江戸時代までは鶏肉に関しては常食の習慣はなく、牛肉などと同様、滋養強壮薬(今風にいえば健康食品)的な扱いであったようですが、明治時代になると牛鍋の流行などと同時に鶏鍋も生まれ、博多で中国系の人達により鶏肉や鶏ガラでダシを取る水炊きが生まれるとそれが全国に普及して、各地の産物を入れた「鍋物」が発達することになります。

現在日本では、採卵用には白色レグホン、ロードアイランドレッド 、横斑プリマスロック、などが飼われており、そのほか卵をあまり産まないことから逆に希少価値で高値を呼んでいる烏骨鶏(ウコッケイ)も最近人気です。

食肉用にはいわゆるブロイラーといって40〜60日程度ゲージ飼いした鶏が多かったのですが、最近は「ブロイラーはまずい」という意識が消費者の間に広がったため、放し飼いにしたり、あるいは運動タイムを設けたりして、飼育期間も70日程度まで伸ばした鶏が増えてきました。

ブロイラーとしては、白色プリマスロック♀×白色コーニッシュ♂の掛け合せのものが多かったのですが、放し飼いなどを取り入れたものでは、いわゆる、地鶏の系統のものが多くなっています。
純血の地鶏は天然記念物になっているものが多いので、食肉用として並んでいるのはだいたい地鶏と通常の食肉種を掛け合わせたものが多いようです。(純血地鶏の血統を50%以上持っていれば「地鶏」として販売できる)

この手の「食用地鶏」として、比内地鶏・薩摩地鶏・名古屋コーチンは三大種とされますが、このうち比内地鶏と薩摩地鶏は比内鶏・薩摩鶏にロードアイランドレッドあるいはプリマスロックを掛け合わせて作られています。(ロードを使う例が多いようです)
名古屋コーチンの場合は明治の始めに名古屋地方の地鶏と中国原産のバフコーチン(九斤)を掛け合わせて作られました。

「かしわ」というのは元々この名古屋コーチンの羽の色が紅葉した柏の葉に似ているとして、名古屋コーチンの代名詞であったのが、一般の鶏の意味にまでひろがってしまったようです。

鶏の卵は国内自給率がほとんど100%に近い、数少ない食品のひとつです。
また「価格の優等生」と言われ、ここ30年程その価格がほとんど変化していません。
現在国内の卵生産量は年間約450億個。
平均すると国民1人あたり毎日1個卵を食べている計算になります。
むろん私たちは直接卵料理としてだけでなく、プリン、ケーキ、お菓子などの形でも食べている訳です。

だいたい通常の卵は1個20円くらいですが、バブル以来一部には「高級卵」を求める人たちもあり、中には1個500円もするものもあるそうです。
しかしそもそも普通の卵でも非常に高栄養の食品ですから、それに更に栄養を付けた卵の意義は気分の問題以上のものではないという意見もあるようです。

卵は親鶏が食べた栄養がそのまま出てくるものであり、鶏に色々な餌を与えると、たいていの栄養素を強化した卵が作れるのだそうです。
また卵黄が濃い黄色の卵を好む鳥もありますが、これも黄色い餌を鶏に与えれば、黄色の濃い卵ができるのだそうです。
見掛けにだまされないようにしましょう。

卵は冷蔵庫の中では必ず買ってきたパックのまま保存するようにしたいものです。
これには色々な理由があります。

・卵の表面には雑菌が多く付着しているので、パックから出すとそれが冷蔵庫内に拡散してしまう。
・冷蔵庫の棚は扉を開ける度に温度変化にさらされるので、卵がいたみやすい。
・卵は呼吸しているので、裸の状態では冷蔵庫内の野菜等が出したガスをたくさん吸い込んでしまい、味が落ちてしまう。

そして、これは皆さん御存知と思いますが、必ず尖った方を下にして保存しましょうね。


象の来日(1729)
享保14年(1729)4月28日、ベトナムからやってきた象が中御門天皇と霊元上皇の御前に出されました。

この象は徳川八代将軍吉宗が「象が見たい」と言って中国の商人に連れてくるよう命じて輸入されたものですが「中国には象がいませんでしたので暹羅(タイ)より連れて参りました」と言って持ち込んだものですが、実際にはどうも交趾(ベトナム)で調達されたもののようです。

長崎に上陸して江戸へ行く途中、京都を通りますので、折角の珍客、陛下にも見て頂こうということで、この日の謁見となったのですが、天皇に謁見するのに無位ではいけないということで、急遽「従四位広南白象」(広南というのは「ホイアン」と思われる。ベトナム中部の都市。同名の都市が40kmほど離れて2つあるがどちらかは分からない。なお中国の雲南省にも広南(コアンナン)という都市があるが、恐らくそこではない。)という位が)贈られ謁見を可能にしました。
こういう事を考えるお公家さんもなかなか粋です。

京都で天皇・上皇に見て頂いた後は1ヶ月掛けて江戸に到着。
吉宗ははじめて見るその象の大きさにひじょうに驚いたとのことです。
そして飼育係を任命して、浜御殿で飼い、その後も時々見に行っては嬉しそうにしていたとの事です。
吉宗という将軍はしばしばこういう良い意味で子供っぽい所を持っていますね。


日蓮(1222-1282)
それは建長5年(1253)4月28日の朝でした。

比叡山で修行を積んだ32歳の僧・蓮長が清澄山旭ヶ森で日が昇るのを待っていました。
そして海の向こうにご来光が射して来た時、僧は大きな声で10回唱えました。

『南無妙法蓮華経』

と。

後に「日蓮」と名乗り歴史に大きく名前を残す大聖人(日蓮宗では日蓮が大聖人、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六老祖を聖人と呼ぶ。そのほかはみな上人で、普通のお寺の住職でも上人。浄土真宗では親鸞のみが聖人で、代々の本願寺の法主が上人。浄土宗では法然が上人で、聖人はいない。)の立教の瞬間でした。

蓮長はその日の正午、清澄寺の持仏堂の南面でごく少数の人を相手に説法を始めます。
仏の教えの真髄は法華経にある。
他の経は法華経を説くための方便に過ぎない。
法華経に絶対帰依して「南無妙法蓮華経」と誰もが題目を唱えることにより、この世界が常寂光土になるのだ。

それはこの世ならぬ西方浄土に救いを求める浄土教・個人単位に悟りを目指す禅宗に対して、現世をこそ救うべきである、という若き日蓮の激しい信念が燃え始めようとする瞬間でもありました。

日蓮は承久4年(1222)2月16日に安房の国に漁師の子として生まれ、幼名は善日麿といいました。
12歳の時この清澄山に登り、清澄寺御本尊の大虚空蔵菩薩に「日本一の知者となし給え」と願を掛け、その後17歳まで清澄山で修行、20歳の時に比叡山に移って更に修行を積みます。

その間彼を悩まし続けたのは、釈迦の教えは一つであるはずなのになぜ多数の宗派が存在するのかということと、仏法の栄える国は平和である筈なのになぜこのように国が乱れているのだろうかということでした。
そして15年間に及ぶ探求の末彼がたどりついた結論は、それは邪宗がはびこっている為であるというものだったのです。

日蓮は言います「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」そしてこのままでは益々国が乱れやがて外国に侵略されて国が滅びるから、一刻も早く国を挙げて法華経に帰依するようにという『立正安国論』を幕府に提出します。

しかし当然ながら彼の言動には他宗派が猛反発。
彼及び彼の信奉者たちは激しい攻撃を受け、多数の弟子が殺されたりしますが、彼らもまた寺院を焼き討ちしたりして応酬しています。
他宗派は幕府を動かし、文永8年日蓮は逮捕されて佐渡に流罪とされ、しかも密かに途中で処刑するように護送の武士に命令が下されました。

護送の一行が9月12日夜鎌倉の龍口の海岸を通りかかった時、武士が日蓮を馬から降ろしました。
一緒に護送されていた弟子が察して「こいつら、お師匠様を斬るつもりです!」といって日蓮をかばおうとしますが日蓮は制して「斬るなら斬りなさい」と言います。
その時。

海の向こうに突然大流星が出現しました。

まるで昼間になったかのようなもの凄い光。
護送の武士たちも日蓮の弟子たちも我を忘れてその光をただ見つめていました。
その中日蓮はその流星に向かって静かに合掌。
その場にいた人たちはそこにまさに仏を見ました。
そして光が消えた後、もう武士たちは日蓮を斬ることはできなくなっていました。
結局そのまま佐渡まで護送。
日蓮は難を逃れました。

3年後の文永11年(1274)3月、モンゴルの襲来する気配が迫って幕府は日蓮を赦免し、佐渡から呼び寄せて襲来の時期はいつと思うかと尋ねます。
日蓮は今年中には来るでしょうと答え、蒙古を調伏するには法華経以外ないと言いますが、幕府は採用しません。日蓮は静かに甲斐の身延山の草庵(現在の久遠寺)に引きこもりました。

日蓮の予言通り蒙古は10月に来襲、日本はかろうじて勝ったものの大きな傷跡を残しました。
日蓮はその後を法華経の今後の普及のための著作と伝道に捧げ、弘安5年(1282)10月13日、武蔵の国・池上で亡くなりました。
現在池上本門寺の建つ場所です。




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