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4月29日 みどりの日(国民の祝日)、社会教育週間(4/29〜5/5)、
     おもちゃ週間(4/29〜5/5)、肉の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
カンガルーポー   不思議・驚き           ○
スターチス(黄)  愛の喜び・誠実          ○
ツバキ     完璧な魅力・誇り・控えめな美点・美徳 ○
ツバキ(白) 申し分のない愛らしさ・理想の愛・至上の美
       理想的な愛情・冷やかな美しさ      ×

∞…∞ 4月29日・今日という日 ∞…∞

笠原秀幸   (1983)  俳優
キーアン・イーガン   (1980)  ウェストライフ
李 東国 (イ・ドング)   (1979)  サッカー
一色紗英   (1977)  女優
二岡智宏   (1976)  野球
千代大海龍二   (1976)  相撲
北村有起哉   (1974)  俳優
山田隆裕   (1972)  サッカー
相川恵里   (1972)  タレント
アンドレ・アガシ   (1970)  テニス
戸山田雅司   (1962)  脚本家
立木文彦   (1961)  声優
和由布子   (1960)  女優
coba (小林靖宏)   (1959)  アコーディオン奏者
ミシェル・ファイファー   (1958)  女優
田中裕子   (1955)  女優
小西克哉   (1954)  キャスター
後藤悦治郎   (1946)  紙ふうせん、元 赤い鳥
後藤加代 (星まり子)   (1946)  女優
コロムビア・ローズ (二代目)   (1944)  歌手
衛藤征士郎   (1941)  政治家
原田泰治   (1940)  画家
明武谷力伸   (1937)  相撲
宮 五郎   (1936)  ぴんから兄弟
仰木 彬   (1935)  野球
宝田 明   (1934)  俳優
本多勝一   (1932)  評論家
海野かつを   (1932)  タレント、俳優
岸田今日子   (1930)  女優
横山まさみち   (1930)  漫画家
田中小実昌   (1925)  作家
カール・ゴッチ   (1924)  プロレス
牧 羊子   (1923)  詩人
天狗太郎 (山本亨介)   (1923)  将棋史研究家
千石規子   (1922)  女優
中原中也   (1907)  詩人
三津田健   (1902)  俳優
昭和天皇   (1901)  天皇
尾崎秀実   (1901)  評論家
山内多門   (1898)  画家
アンリ・ポアンカレー   (1854)  数学者

 ○ ジャンヌ・ダルクがオルレアンの城に入城する(1429)
 ○ 世界最初の電車がアメリカで開通。首府ワシントンとメリーランド州ボルチモア間。蓄電池で発電(1851)
 ○ 二宮忠八がプロペラ式模型飛行機の飛行を成功させる(1891)
 ○ 北海道夕張炭坑爆発、死者276人(1912)
 ○ 日本交響楽団が創立(1942)
 ○ 嵐寛寿郎の鞍馬天狗第一作封切り(1942)
 ○ IOC総会で日独のオリンピック復帰が承認(1949)
 ○ 「明治天皇と日露戦争」封切り。主演で明治天皇役は嵐寛寿郎(1957)
 ○ 山下泰裕、史上最年少(19歳)で全日本柔道選手権初優勝(1977)
 ○ ヒッチコック没。80歳(1980)
 ○ 天皇誕生日「みどりの日」になる(1989)

祝日・休日 昭和の日
激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいだす日。
昭和天皇の誕生日。
1989(昭和64年)の昭和天皇崩御後は、「みどりの日」とされたが、2005年の祝日法改正により、2007年からは「昭和の日」となる。
これに伴い、みどりの日は 5/4に変更された。
参考:天長節(1927〜1948)、天皇誕生日(1949〜1988)、みどりの日(1989〜2006)、昭和の日(2007〜)

天長節
1927(昭和2)年から1948(昭和23)年までは「天長節」という祝日で、四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の一つとされていました。
天長節は775(宝亀6)年、光仁天皇によって始められ、一時中断していましたが、1868(明治元)年に復活しました。
明治天皇の誕生日は旧暦では9月22日で、太新暦を採用した1873(明治6)年以降は11月3日に変更されました。
大正天皇の誕生日は8月31日でした。

社会教育週間
公民館、図書館、博物館などの施設を利用して、学校教育以外の教育活動を強調するために、設けられた。

大祈祷日(デンマーク)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


昭和天皇(1901-1989)
治34年(1901年)4月29日午後10時10分、東京青山御所で時の皇太子嘉仁親王と節子妃殿下の間に長男の皇子が誕生しました。
迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)親王と名付けられた皇子は激動の時代を生き抜くことになります。

習慣によって生後3ヶ月で母から離され川村純義伯爵家で育てられ明治41年に学習院初等科入学。
この時の院長は後で明治天皇に殉死することになる乃木希典です。

明治45年7月30日、明治天皇の崩御・大正天皇践祚に伴い11歳で皇太子になりますが大正天皇は病弱で公務にしばしば支障をきたしていました。
そこで自然と天皇の名代として活動することになり、大正10年11月25日、正式に摂政の地位に就くことになります。
20歳の時でした。これに先だって半年間にわたってヨーロッパ各地を外遊しています。

大正11年9月28日には島津忠義公爵の孫娘久邇宮良子(ながこ)女王と結婚。
この時、山県有朋が婚約破棄を迫り怪文書が乱れ飛ぶ「宮中某重大事件」が起こりますが、親王は「良子でなければ駄目だ」と明言、宮内庁も東宮妃は変更しないという声明を発表してケリが付くという一幕もありました。
なお当の山県はこの結婚式を見る前、同年2月に死去しています。

翌大正12年は大変な年でした。
9月1日に関東大震災が起き、ちょうど内閣が交替して新総理になったばかりの山本権兵衛が赤坂離宮の芝生の上で組閣作業を行いました。
12月27日にはアナーキストの難波大介が裕仁親王を狙撃(虎ノ門事件)。
幸い弾はそれました。東宮の運の強さを示しています。

この大正12年、東宮は女官制度を大改革しました。明治天皇には何人かの側室がおり、大正天皇も一条美子皇后ではなく柳原愛子権典侍の腹でした。
大正天皇は九条節子皇后以外に妃を取りませんでしたが、依然として宮中には大量の妃予備軍の独身女性で構成される奥が存在していました。
東宮はこれを全て廃止して女官の資格も未亡人や既婚女性も可とし、しかも住み込みが原則であったのを通勤も可としました。
そのため東宮の宮の女官は半数ほどが中年の既婚女性や未亡人で構成されました。
さらに御所言葉も廃止して宮中で普通の言葉が使用されるようになりました。
この制度は大正天皇の宮の方では旧制度が維持されておりましたので異動になった女官が戸惑うケースもあったそうです。

やがて大正15年(1926年)12月25日大正天皇崩御。
親王は践祚して第124代の天皇になりました。
もう年末でしたので巷には「大正16年」のカレンダーが配られ済みの時でした。
昭和3年11月10日に即位の大礼、14日に大嘗祭が行われています。

天皇は就任早々軍部の独走に悩まされます。
昭和3年6月4日張作霖爆殺(満州某重大事件)。
昭和6年3月20日陸軍クーデター計画(3月事件)に続き9月18日満州事変。
昭和7年515事件、昭和11年226事件。昭和12年7月7日芦溝橋事件。
昭和14年5月11日ノモンハン事件。
そして昭和16年12月8日真珠湾奇襲攻撃により時局は太平洋戦争に突入してしまいます。

天皇は法制上直接政治的な発言はできない立場ながら何とかしたいとはし、張作霖事件では田中首相を叱咤して辞任に追い込み、226事件でも当局の対応を批判して事件を起こした部隊を反乱軍といち早く認定したりしています。
が、しばしば、軍部に逆らうなら暗殺して戦争積極論者の秩父宮に代えるぞという脅迫的圧力も伝わってくる中抵抗できない場面も多く、なすになせないまま戦況はどんどん悪化。
各地の都市が空襲にやられ、2個の原爆まで落とされました。
その8月10日午前2時30分。ポツダム宣言を受け入れるかどうかで結論の出ない御前会議は天皇の判断を仰ぎます。もとより天皇の意志は明白でした。
昭和20年8月15日正午全国に玉音放送が流れ国民に敗戦が知らされました。

昭和20年8月30日14時05分厚木に降り立ったマッカーサー元帥は日本の非軍事化と民主化に着手します。
そのマッカーサーを天皇が9月27日に訪問。
天皇がマッカーサーを訪問したということが勝者と敗者を明確に物語っていました。
天皇はこの会見でこの戦争責任が自分にあることを表明しますがマッカーサーは逆に天皇を日本再建の軸にする構想を立てあえて戦争責任を問わないことにします。
これによって天皇は軍部が作った虚像からマッカーサーの虚像に乗り換えることを要求されますが、天皇はその手に踊らされることなく進んで国民の統合の象徴としての行動を取り始めました。

(実はこのマッカーサー訪問の裏には後に首相になった吉田茂の働きがあります。吉田がいなければマッカーサーはわざわざ天皇に会おうとはせず、戦争の第一責任者として告発していたかも知れません。)


昭和21年1月人間宣言。
その年南朝の後継者と名乗る「熊沢天皇」が出現したりして皇室の権威がゆらぐ中(熊沢天皇を最初に報じたのは米軍機関紙だった)その2月から昭和26年にかけて戦争の傷跡の残る全国を行脚して国民を励ます旅を始めます(北海道のみ昭和29年。沖縄は結局行けなかった)。
天皇は予想に反して国民たちから熱い歓迎を受けましたし、国民たちも大いに力付けられました。
その間極東軍事裁判は進行し東条英機らのA級戦犯7名が巣鴨で処刑されます。
昭和26年マッカーサーは朝鮮戦争の進め方に関してトルーマン大統領と対立して解任。
GHQは天皇に羽田まで見送りに来て欲しいと要請しますが宮内庁は拒否。
国民の新たな形での支持を受けた天皇としての再出発が始まりつつありました。

天皇はこの巡幸以外にも昭和21年から国体(国民体育大会)をスタートさせてそれに出席。
23年からは正月の一般参賀開始、25年には全国植樹祭がスタート。
28年からは皇居での園遊会も再開させて「開かれた皇室」としての新しいイメージ作りに尽力します。
しかしそれは明治維新以来の政治家や軍人等に利用されるだけの天皇から、聖徳太子の時代以来の日本の精神の中心としての天皇という、天皇本来の姿に復帰させるものともいえます。

昭和27年に明仁親王の立太子礼。翌年にはその皇太子がエリザベス女王の戴冠式に出席のため渡英。
そして昭和34年4月10日の皇太子ご成婚、翌年2月23日の浩宮徳仁親王誕生と慶事が続く中、天皇は完全に日本の精神的中核としての地位を回復していました。

昭和40年代は三女和子の夫がバーのマダムとガス中毒死するというスキャンダル、孫娘東久邇文子の離婚、奥崎謙三のパチンコ玉狙撃事件(山崎天皇を撃て)、葉山ご用邸の放火焼失など暗い事件も相次ぎました。
また昭和46年にはヨーロッパ各国を訪問しますが各地で第二次世界大戦戦没者遺族などから冷たい視線を浴びせられました。

そんな中昭和46年には初の曾孫・東久邇征彦がロンドンで生まれ、昭和49年には金婚式の祝賀があり、昭和50年にはエリザベス女王夫妻の訪日があり、また警備上の問題で断念した天皇の名代で皇太子がやっと沖縄を訪問。
そしてその年の秋には天皇はアメリカを訪問し、この時は訪欧の時とは違って暖かく迎えれられました。
昭和59年には高円宮家の創設もありました。

天皇は大変長寿でありました。本来ならばこの辺りで退位したいところであったのでしょうが、皇室典範に退位に関する規定が抜けていました。
しかし皇室典範の改訂は天皇制自体に社会党などが反対している中では困難な状況下にありました。
そのため天皇は老年ではあっても死ぬまで天皇であり続けることが要求される過酷な状態に置かれました。

昭和61年4月には在位60周年記念式典が行われ、この年イギリスのチャールズ皇太子夫妻の訪問もありました。
昭和62年には長く望んでいた沖縄訪問の予定も組まれます。
が、直前の8月那須御用邸滞在中に腹部の張りを訴えて翌月手術。
皇太子に国事代行を委任し、念願の沖縄訪問はまた中止になってしまいました。
年末頃には一部の国事はできる所まで回復しますが翌年夏にまた発病。
秋大相撲観戦を取りやめた後9月24日重体に陥り、3ヶ月間の闘病を経て昭和64年(1989年)1月7日6時33分吹上御所にて十二指腸腺癌のため崩御。
87歳でした。

この天皇の誕生日4月29日は同年法5によって「みどりの日」として祝日のまま残ることになりました。
これは天皇が全国で植樹祭を行っていたことによります。


有田陶器市(29-5.5)
毎年4月29日から5月5日まで、佐賀県の有田では毎年恒例の陶器市が行われます。

有田焼というと東京あたりでは高級品として名が通っていますが、九州ではごく普通の日常品です。
陶器市では100円とか200円とかの茶碗・湯呑み・コーヒーカップなどが入手できます。
安い物は運搬費を掛けて東京に運んでも仕方ないので、東京へ運ばれるのは高級品のみになります。

有田・三河内・波佐見・伊万里といったこの付近一体を最近佐賀県は「セラミックロード」と呼んで観光開発に力を入れています。

この付近の陶磁器の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の際に、日本軍が朝鮮の陶工を多数日本に連れ帰った所から始まります。その中で、1616年に、李参平が有田の泉山で白磁鉱を発見。
これを材料にして磁器を焼いたのが有田焼の始まりとされます。

その後1640年頃に酒井田柿右衛門が色絵の磁器の制作に成功。鍋島藩の保護政策によって有田焼は大きく成長していくことになります。
その技法は完全に秘伝とされ、わずかに瀬戸に流出したほかは、域外不出が守られました。
また伊万里港がこの陶磁器の積出港とされ、海外には「imari」の名前が知れ渡って、ヨーロッパの王侯貴族の部屋を、美しい古伊万里の磁器が飾ることになります。

現在でも有田では職人芸的高級品を制作する三右衛門(柿右衛門・今右衛門・源右衛門)、量産高級品メーカーの深川製磁・香蘭社などを筆頭として、多くの窯・メーカーが陶磁器を生産しており、普段でもその窯や販売店などで入手できますが、陶器市の時は沿道は他の地区から来た生産者まで入って、たいへんな賑わいになります。掘り出し物もありますので、リュックを背負って出かけるのも楽しいものです。
期間中はJRの臨時列車も運行されます。


二宮忠八の飛行実験(1891)
彼はライト兄弟より先に飛行機を作ろうとした人です。
彼が模型飛行機を制作して初めて飛行実験に成功したのが1891年4月29日でした。

二宮忠八は慶応2年(1866年)6月9日、愛媛県の八幡浜で生まれました。
家は海産物問屋でしたが、早い時期に倒産。彼は様々な職業をしながら何人かの師に付いて学問を学びました。
やがて陸軍に入るのですが、ある日カラスが羽ばたかずに空を滑空している様を見ていた時に、ああいう形の「もの」を作れば、それは空を飛ぶのではないか、ということを思いつきます。

そこで様々な試行錯誤の結果、カラスの羽に相当する主翼を広げ、尾羽に相当する尾翼を持つ細い枠組みで作った胴体を持つ、飛行機の模型を作り上げます。
そして1891年4月29日、これを空に飛ばすことに成功したのです。

彼はこれに気をよくして今度はこれを人が乗れるサイズで作ろうとしますが、ある程度まで作った所で、やはり単独での制作は困難と判断するに至り、軍にその企画を持ち込みます。

しかし当時の軍の幹部は、人が空を飛ぶなどということは、常識に反することであったため「君が実際に空を飛んで見せたら予算を出しても良い」などと言って却下してしまいました。

こうしてこの企画は日の目を見ることなく、二宮はライト兄弟に先を越されてしまうのです。

彼はその後、軍を辞めてから大日本製薬で働きながら、なんとか飛行機制作の資金を貯めようとしますが、その資金をやっと貯めることができたところに、ライト兄弟が人を乗せた飛行実験に成功したニュースが飛び込んで来たのでした。
彼はショックを受けてもう飛行機制作の仕事をやめてしまいます。

その後飛行機の時代が到来すると彼の古い功績は発掘され、二宮は表彰されました。
しかしその飛行機の時代に多くの事故が起き、多数の人命が失われたことを悲しみ、京都に飛行神社を建立し、その神官となって死者の鎮魂にその後の人生を捧げました。

1936年4月8日没。享年70歳。

なお戦前に実用飛行機を最初に制作しはじめたのは、中島知久平(1884-1949)の中島飛行機です。
二宮の次の世代になります。
この中島のこの会社は戦後GHQにより解体されてしまいましたが、その技術者たちが、飛行機を作っちゃダメと
いうのなら自動車を作ろうといって作ったのが「スバル」でした。
そちらの流れは現在、富士重工業に引き継がれています


今日は、庚申 です。
柴又の帝釈天では、庚申の日に縁日を開催するので、行ってきました。

庚申信仰と干支
http://park12.wakwak.com/~tks/koushintoeto.htm

次の庚申は、6/28木・8/27月・10/26金・12/25火です。





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