戻る ▲トップページ

5月 5日 こどもの日、端午の節句、世界子供の日、子供に本を贈る日
     クスリの日(全国医薬品小売商業組合連合会1987)
     ワカメの日(日本わかめ協会1982)
     おもちゃの日(東京玩具人形問屋協同組合1949)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オジギソウ     敏感・繊細な感じ・感じやすい心
(ミモザ,ネムリグサ)                ○
カラー(黄)    壮大な美             ○
スズラン      幸せの再来・幸福・純潔・純愛
          清らかな愛・繊細         ○

∞…∞ 5月 5日・今日という日 ∞…∞

庄司有希   (1983)  タレント
岡元夕紀子   (1979)  女優
幕田賢治   (1978)  野球
菊地秀規   (1976)  タレント、いつもここから
向島 満   (1976)  サッカー
井上麻美   (1975)  タレント
バラ・サンタラム   (1973)  振付師
K.春香   (?)  漫画家
飯野賢治   (1970)  ゲーム会社社長
YOGGY   (1970)  EAST END
伊良部秀輝   (1969)  野球
渡部篤郎   (1968)  俳優
森川美穂   (1968)  歌手
子安武人   (1967)  声優
葛西 稔   (1967)  野球
ひろえ純   (1967)  歌手
金 鉉錫 (キム・ヒョンソク)   (1967)  サッカー
ジョン健ヌッツォ   (1966)  オペラ歌手
テリー山本   (1966)  漫画家
近藤雄介   (1965)  アナウンサー
高山みなみ   (1964)  声優、TWO-MIX、Vo.
工藤公康   (1963)  野球
佐藤竹善   (1963)  SING LIKE TALKING
長坂泰彦   (1963)  元リフラフ
杉本篤彦   (1963)  ジャズギタリスト
渋谷哲平   (1961)  俳優
コニー   (1961)  元 ザ・ヴィーナス、Vo.
馳 浩   (1961)  プロレス、政治家
正木 明   (1961)  気象予報士
そうる透   (1958)  ミュージシャン
泉川ピート   (1956)  ゴルフ
デーブ・スペクター   (1954)  番組プロデューサー
天野 滋   (1953)  N.S.P
モト冬樹   (1951)  タレント
ゾルゲ市蔵   (1950)  ライター、漫画家
ボブ佐久間   (1949)  作曲家
大村憲司   (1949)  ミュージシャン
伴 大介 (伴 直弥)   (1949)  俳優
桑原 隆   (1948)  サッカー
野口善男   (1948)  野球
小林祥晃 (Dr.コパ)   (1947)  建築家
坂口 尚   (1946)  漫画家
林 文子   (1946)  ダイエー会長
高橋善正   (1944)  野球
地井武男   (1942)  俳優
嶌 信彦   (1942)  ジャーナリスト
海老沢勝二   (1934)  NHK会長
高橋新太郎   (1932)  大学教授
タイロン・パワー   (1914)  俳優
近藤芳美   (1913)   歌人
清水金一   (1912)  俳優、タレント
レオ・レオニ   (1910)  絵本作家
中島 敦   (1909)  作家
丸岡秀子   (1903)  評論家
林家彦六   (1895)  落語家
金田一京助   (1882)  国語学者
土方歳三   (1835)  新撰組
カール・マルクス   (1816)  共産主義者
セーレン・キルケゴール   (1813)  哲学者
高野長英   (1804)  蘭学者、蘭医
小林一茶   (1763)  俳人
知念積高   (1761)  三味線奏者
塙保己一   (1746)  国学者
天桂伝尊   (1648)  僧侶
筒井定次   (1562)  戦国武将
島 左近   (1540)  戦国武将
筒井順盛   (1457)  戦国武将
宇多天皇   (867)  天皇

 ○ 最上徳内、エトロフ島探検(1786)
 ○ フランス・ベルサイユ宮殿で王族、貴族、平民からなる三部会、復活(1789)
 ○ 普通選挙法公布。選挙権25歳以上、被選挙権30歳以上の男子(1925)
 ○ 人見絹枝400m走で世界新(1928)
 ○ 3輪自動車の本格的生産開始(1931)
 ○ 中央線と京浜線に婦人・子供専用車を連結(1947)
 ○ 「児童憲章」の宣言(1951)
 ○ 東京で第一回国際見本市開催(1955)
 ○ アメリカ初の宇宙飛行士誕生(1961)

祝日・休日
こどもの日・こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日で、こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日とも規定されている。

端午の節供(菖蒲の節供)
この日は邪気を払う為、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽や柏餅を食べる。
「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、「午」は「五」に通じることから元々「端午」は月の始めの五の日を意味した。
その中でも月と日の数字が重なる5月5日特にめでたい日として「端午の節供」と呼ぶようになった。
日本では、男性は戸外に出払い女性だけが家の中に閉じ蘢って田植えの前に身を清める神聖な儀式の日だった。
しかし「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝う節供となった。
因みに「節句」ではなく、「節供」と書くのが本来である。

児童憲章制定記念日
1951年(昭和26年)のこの日、子供の権利宣言である児童憲章が制定された。
5月6日〜11日までは全国児童福祉週間。

こどもに本を贈る日
書籍取次の東販が制定。
全国の書店でキャンペーンが行われる。

自転車の日
1998年(平成10年)に自転車月間推進協議会が制定。
5月1日〜31日までの1ヶ月を自転車月間として、さまざまなイベントが行われる。
期間中の祝日を自転車の日に当てたもの。

おもちゃの日
こどもの日で端午の節句であるこの日、おもちゃ、人形のPRを行なおうと東京玩具人形問屋協同組合が制定。

わかめの日
日本わかめ協会が1983(昭和58)年に制定。
「こどもの日」に因み、子供の成長発育に欠かせないミネラル、カルシウム等を含んだわかめをたくさん食べてもらおうと設けられた。
また、この時期は新わかめの収穫時期でもある。

薬の日
全国医薬品小売商業組合連合会が1987(昭和62)年に制定。
611(推古天皇19)年、推古天皇が大和の兎田野で薬草を採取する薬狩りを催し、これから毎年この日を「薬日」と定めたという故事に因みます。

ボーイズデー
1946(昭和21)年〜1948(昭和23)年。
この日が男の子の節句であることから。
1949(昭和24)年からは「こどもの日」に引き継がれました。

手話記念日
後藤田三朗(写真家。
岡山聾学校卒業生)さんの提唱で、日本デフ協会(デフユニオン?)が制定。
手話が左右の五本指を使うことから。(制定年等不明)
たまごの日
毎月5日。日本養鶏協会、日本卵業協会など関係団体が制定。

子供の日(Children's Day)(韓国)

対仏戦勝記念日(メキシコ)

ナチス犠牲者の日(オーストリア)
1997(平成9)年11月に上下両院で制定が可決され、翌1998(平成10)年から実施された。
国家の記念日としてナチス・ドイツの犠牲者をいたむ日を制定したのは初めて。
1945(昭和20)年、ドイツの敗戦により、オーストリアにあったナチス最大の強制収容所「マウトハイゼン収容所」が解放された。
オーストリアでは1938(昭和13)年のドイツ併合時から1945年の戦争終結までに、国内のユダヤ人やジプシー・反ナチス抵抗運動家・同性愛者等少なくとも65万人以上が殺された。
フィッシャー国民議会(下院)議長は、「ヒトラーのナチスがオーストリアに来た時多くの人は歓迎した。
強制収容所のような犯罪を2度と繰り返してはならない。暴力と民族差別に対する記念日として、この日を将来に残そう」と制定を訴えた。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


土方歳三(1835-1869)
新撰組の副長として知られる土方歳三(ひじかた・としぞう)は天保6年(1835)5月5日、武蔵国石田村(現・日野市)に生まれました。
父は豪農でしたが歳三が生まれる前に死去、6歳の時に母も亡くなって、兄に養育されました。
11歳の時に江戸に丁稚奉公に出ますが長続きしませんでした。

小石川の剣術道場「試衛館」で天然理心流三代目・近藤周助邦武の門に入り、ここで周助の養子で四代目の近藤勇と親しくなりました。

文久3年(1863)2月に清川八郎が江戸で「京都防衛のため」壬生浪士隊を募集すると近藤と共にこれに参加。
しかし清川は一行を京都まで連れて行くと、浪士隊の目的は尊皇攘夷であると言い出したため、空中分解。
清川は江戸に戻り、のち暗殺されます。

一方京都に取り残された近藤や土方たちは京都守護職の会津藩主・松平容保に願い出て同年8月「新撰組」を結成。初代局長には芹沢鴨が就任しました。

しかし芹沢は傍若無人の振る舞いがあり、9月18日土方らにより粛正。
代わって近藤が2代目局長になりました。
この京都での近藤局長時代の新撰組が最も輝いており(と言っていいのか....)副長となった土方と共に、尊王攘夷派や倒幕派の武士たちを次々に殺害していきました。

 文久 3年 8月13日 大和屋焼き討ち
 元治元年 6月 5日 池田屋で長州藩士ら16名を殺害(池田屋騒動)
 慶応 2年 9月12日 三条大橋で土佐藩士を襲撃し2名を殺害
 慶応 3年12月 7日 天満屋で海援隊と乱闘

なお、坂本龍馬を殺害したのも以前は新撰組ではと疑われていましたが最近では見廻組という説が有力です。

新撰組は慶応4年1月12日軍艦冨士山丸に乗って江戸へ向かい、官軍に対抗しようとしますが、局長の近藤勇は捕らえられて江戸板橋で処刑され沖田総司も病死します。

そこで今度は土方が組の中心となって、会津にいったん集まった後、会津での戦いのため斎藤一らを置いて、残りは函館・五稜郭に移動。
結局ここで幕府軍の最後の抵抗に参加しました。

そして明治2年(1869)5月11日、松前表街道で軍を指揮中に腹部に官軍の銃弾を受け死去。
享年35歳。
組は相馬主計が引き継ぐことになります。


わかめの日(5.5)
5月5日は「こどもの日」にちなんで、こどもたちにわかめを食べてもらおうということで「わかめの日」です。
ちなみに11月15日は七五三にちなんで同様に「こんぶの日」になっています。

わかめは昆布目の海草の一種ですが、同じ昆布目でもこんぶと違い柔らかいのでそのまま食べることができ、日本や韓国では古来より貴重な栄養源として、親しまれてきました。
元々は伊豆地方の原産だそうですが、現在では(日本の場合)北海道南部から鹿児島県薩摩半島までの地域で多数養殖されています。

おみそ汁の具として一般的で、わかめの入ったみそ汁を食べないと1日が始まらない感覚の方などもおられると思いますが、ミネラル分が豊富な上に高血圧を防止する成分なども含まれているとされ栄養的に素晴らしいものです。
表面のぬるぬるした部分は食物繊維です。

わかめは1年草で、初夏頃にわかめの根本付近に形成される胞子草(めかぶ)から多数の胞子が泳ぎだし、岩に付着して発芽し配偶体となって、秋頃に受精して幼葉が生まれ、それが冬の間に成長して成葉となります。
ですからわかめの収穫の時期はだいたい春先ということになります。

わかめは中心の茎の部分(茎わかめ)から左右に多数の葉が出ている形で大きさはだいたい1〜2m程度に成育するものが多いようです。
ただそのサイズや形はその地域により結構なバリエーションがあります。
わかめは海の中では茶色ですが採取して湯通しすると、鮮やかな緑色に変化します。

スーパーなどで見るのはだいたい塩蔵わかめと、それを水洗いして乾燥させたカットわかめですが、産直などでは生わかめが入手できる場合もあるようですし、海産物屋さんなどでは普通に塩蔵を経ていない素干の乾燥わかめが入手可能です。

海草が好きな人に言わせればカットわかめは加工のされすぎで風味が損なわれているというのですが、逆に塩蔵わかめや素干わかめは磯の香りが強すぎて嫌だという人もいるようですので、結局はそのあたりは好みで使えば良いのでしょう。

また、塩蔵わかめを使っていた人も多いのですが、水洗いして切ってから使わないといけないのと日持ちしないことで、手軽なカットわかめが人気のようです。


端午の節句(5.5)
5月5日は端午の節句。
こどもの日です。
戦後、新しい時代には新しい祝日をということで国民アンケートが行われた時、3月3日上巳と5月5日端午という、女の子の節句、男の子の節句をいづれも祝日にという声があったのですが、結果的には両方あわせて5月5日に男女に関係なく「こどもの日」を祝日とすることになりました。

しかし、そもそもは上巳も端午も男女関係ない厄祓いとこどもの成長を願う節句でしたので、これはある意味で妥当なことだと思います。
上巳が女の子の節句、端午が男の子の節句とみなされるようになったのは江戸時代頃からのようです。

それどころか、昔は5月1〜5日に「女児節」といって、女の子を着飾らせて榴花を簪にさしてお祝いごとをした風習もありました。

「端午」とは本来は五月の午の日のことです。
五月が十二支でいうと午の月なので、5月の午の日には午が重なって端午というわけですが、後世には「午」ではなく「五」が重なる、いわば端五の日の5月5日を端午の節句として祝うようになりました。

上巳が女の子の節句と考えられるようになったのは、雛遊びと結びついて人形は女の子の遊び道具と考えられたことから、また端午が男の子の節句と考えられるようになったのは、菖蒲の季節なので菖蒲が勝負と語呂合わせされて男の子が将来立派な武士になるようにとされたからです。

武家政治が終わって145年、軍国主義が去ってから67年、端午の節句にも新たな意義を見出してよいのではないでしょうか。


■こどもの日(5.5)
こどもの日(こどものひ)は、日本における国民の祝日の一つ。日付は5月5日である。

祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨である。
1948年に制定。
ゴールデンウイークを構成する日の一つである。

民間行事の端午の節句を国民の祝日にしたものですが、GHQが戦後すぐに行ったアンケート調査で、新しい国民の祝日として、3月3日の上巳の節句と共に祝日にと要望があったものですが、GHQは子供の成長を祝う祝日が2つもあるのは、と言って「まとめて男女区別せずに成長を祝う日を」などと訳の分からないことを言って両者統合し「こどもの日」としてしまいました。

しかし民衆はそう簡単に、おかみの押しつけを受け入れませんので、戦後67年たっても「こどもの日」は基本的に男の子の節句と考えられており、女の子の節句の3月3日も国民の祝日にして欲しいという要望は多いです。

大正時代には「児童愛護デー」として活動を行っていた団体が存在し、国会にこどもの日を祝日とする請願が寄せられた際にも5月5日を希望するものが多かったためである。
かつては、5月5日が祝祭日で3月3日(上巳の節句、雛祭り)が祝祭日でないことについて、男女差別とする見方があった。

端午とは元々五月が午月なので、午月午日を言ったものです。
ところが「午」が「ご」と読むもので「ごがつごにち」と言っている内にいつの間にか「5月5日」で祝うようになってしまったと言われています。

この日が男の子の節句として定着してきたのは江戸時代頃からですが、実は平安時代頃は「女児節」と呼ばれ、女の子の節句だったような歴史もあり、本当は5月5日はGHQが勝手に考えたように男女双方の成長を祝う日にしても、そんなに悪くないという事情もあります。


■菖蒲と端午の節句
端午の節句と菖蒲の結びつきは古代中国までさかのぼります。

端午というのは本来、午の月の午の日。
新暦で言うと6月頃で菖蒲の季節なので、これを初期の段階では神様に捧げていたようです。
これが後には魔除けとして枕の下に敷いたりする風習ができます。

日本にも平安時代ころまでには輸入され、菖蒲にまつわることをいろいろしていたようです。
当時、菖蒲を使った「根合わせ」といった遊びも行われていました。
これは花合せ・貝合せなどと同様のお遊びです。(貝合せは後世にはカルタのような遊びになりましたが、初期の頃は堤中納言物語に出てくる通りの遊びでした)

江戸時代になると、菖蒲が尚武・勝負に通じることから男の子のお祝いとされるようになったようですが、同様のお祝いである3月の上巳の節句(ひな祭り)が、女の子のお祝いと考えられる傾向が出てきたので、こちらは男の子用になり、その結果菖蒲−尚武の関連から、また菖蒲が重視されたとも考えられます。

菖蒲湯に関しては、冬至のゆず湯に対応するものとの見解もあります。
つまり本来は端午とは無関係の風習だった可能性もあります。

日本では中国の暦が輸入される前は、冬至と夏至から1年が始まる今の半分の長さの年が使用されていたらしいというのは民俗関係の研究者の間で、比較的広まっている説のひとつで、概して半年ずらしたところに似た行事があります。
夏至は昔の暦では五月に来ますので、本来は菖蒲湯は夏至に入っていたのかも知れません。






▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ