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5月 7日 博士の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
イチゴの葉     先見・尊重と愛情・誘惑・甘い香り ○
バラ        愛・嫉妬・あなたを尊敬します・愛情
          美・温かい心・照り映える容色
          私はあなたにふさわしい
          内気な恥ずかしさ・恋       ○
ボタン       壮麗・恥じらい・高貴・富貴    ○
リンゴノ花     選択・評判            ×

∞…∞ 5月 7日・今日という日 ∞…∞

れな   (1996)  タレント、ちゃい夢
森本貴幸   (1988)  サッカー
紺野あさ美   (1987)  モーニング娘。
神戸みゆき   (1984)  タレント
松尾光次   (1984)  俳優、DOGGY BAG
窪塚洋介   (1979)  俳優
LITTLE   (1976)  KICK THE CAN CREW
まちゃまちゃ   (1976)  タレント
水谷ケイ   (1974)  タレント
ローレンス・ジョンソン   (1974)  棒高跳び
関ひろみ   (1973)  タレント、元 東京パフォーマンスドール
佐藤恵子   (1971)  タレント、T-BACKS
上田晋也   (1970)  タレント、くりぃむしちゅー(海砂利水魚)
小桧山雅仁   (1969)  野球
小林こずえ   (1968)  女優
大翔鳳昌巳   (1967)  相撲
中島唱子   (1966)  女優
鉄炮塚葉子   (?)  声優
上川隆也   (1965)  俳優
寺谷一紀   (1964)  アナウンサー
若林健次   (1961)  漫画家
野沢 尚   (1960)  脚本家
タラマ・ジャーニガン   (1959)  宇宙飛行士
佐田玲子   (1957)  歌手
たちいりハルコ   (1949)  漫画家
安田隆夫   (1949)  ドン・キホーテ社長
西岡恭蔵   (1948)  歌手
佐々木剛   (1947)  声優
新井 満   (1946)  シンガーソングライター、作家
萩本欽一   (1941)  タレント
児玉隆也   (1937)  ジャーナリスト
松崎 真   (1932)  タレント
アン・バクスター   (1923)  女優
エヴァ・ペロン (エビータ)   (1919)  元アルゼンチン大統領夫人
宮崎康平   (1917)  詩人、作家
ティープ釜范   (1911)  ジャズ歌手
本多猪四郎   (1911)  映画監督
ゲーリー・クーパー   (1901)  俳優
美濃部達吉   (1873)  憲法学者
ビョートル・チャイコフスキー   (1840)  音楽家
ヨハネス・ブラームス   (1833)  音楽家
ロバート・ブラウニング   (1812)  詩人
本居宣長   (1730)  作家、国学者

 ○ 足利尊氏、京都を攻撃。六波羅探題を滅ぼす(1333)
 ○ 大阪で「曾根崎心中」初上演(1703)
 ○ ベートーベンの第九交響曲がウィーンで初演(1824)
 ○ ギリシャ、独立王国に(1832)
 ○ 日本最初の鉄道、品川〜横浜間で開通(1872)
 ○ ロシアとの樺太・千島交換条約に調印(1875)
 ○ 日本で第一号の理学博士誕生(1888)
 ○ 世界初、空母同士による決戦(1942)
 ○ ドイツが連合国に無条件降伏(1945)
 ○ ベトナム独立軍がディエンビエンフーを陥落(1954)
 ○ パリ「五月革命」広がる。学生デモが凱旋門を占拠(1968)
 ○ エリザベス女王夫妻、来日(1975)

博士の日
1888(明治21)年、植物学者の伊藤圭介・数学者の菊池大麓・物理学者の山川健次郎らに25人に日本初の博士号が授与された。
ただし、論文の提出による博士号ではなく教育への貢献を評価されたもので、名誉博士的なものだった。
論文による本格的な博士が生まれたのは、それから3年後。
また、当時は博士の上に大博士の学位がありましたが、該当者がなく1898(明治31)年に廃止された。

コナモンの日
日本コナモン協会が2003(平成15)年に制定。
「こ(5)な(7)」の語呂合せ。
たこ焼き・お好み焼き・うどん等、粉を使った食品「コナモン」の魅力をPRする日。

粉の日
「こ(5)な(7)」の語呂合せ。
小麦粉等、食料としての粉の有用な利用方法等をアピールする日。

VEデー(Victory in Europe Day)
1945年(昭和20年)、ドイツが連合国に対して無条件降伏した日。

健吉忌
評論家・山本健吉の1988(昭和63)年の忌日。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


コナモンの日(5.7)
5月7日は語呂合わせで「コナモン」の日です。
「コナモン」というのは小麦粉・そば粉・米粉などの食用粉を使用した食品の総称で、日本コナモン協会( http://konamon.com/ )というのも出来ています。
この協会の会長はたこ焼きの歴史を精力的に研究した名著「たこやき」の著者・熊谷真菜さんです。

同協会でも粉もののデータベースを制作中のようですが、まだ公開されていないようなので、とりあえず勝手に粉物をリストアップしてみましょう。
分類法はいろいろ異論があると思いますが

(1)小麦粉
 a.焼き物
  たこ焼き・お好み焼き・ピザ
 b.麺類
  ・うどん類  うどん・冷や麦・きしめん
  ・そうめん類 そうめん・ふしめん
  ・その他 ラーメン・焼きそば・長崎風焼きそば・長崎風皿うどん
 c.パスタ
  ・ロング  スパゲディ・リングイネ・ブカティーニ・フェットチーネ
  ・ショート マカロニ・ペンネ・コンキリエ・ファルファッレ・フジッリ
 c.パン類
  ・食パン
  ・フランスドイツ系のパン
  ・イタリア系のパン(フォカッチャ・パニーニなど)
  ・日本発?のパン(アンパン・カレーパン・メロンパンなど)
  ・インド系のパン(チャパティ・ナンなど)
  ・その他 ベーグル(ユダヤ)・ピタ(中東)・ピロシキ(ロシア)・ドーナツ
 d.ケーキ類
  ・スポンジケーキ系 (含カステラ)
  ・その他 ホットケーキ・パイ・クレープ
 e.その他
  餃子・団子汁

(2)米粉
 a.白玉粉
 b.もち粉
 c.だんご粉
 d.上新粉
 e.道明寺粉
 いづれも、団子などの和菓子に使用。ギュウヒは白玉粉。みたらし団子は上新粉。

(3)その他
 ・そば粉 そば
 ・とうもろこし粉  トルティーヤ(タコス等)
 ・豆粉  春雨

だとおもいます。

日本コナモン協会
http://konamonzaq.jp/

日本コナモン協会:会長プロフィール
http://konamon.com/info/profile.html


チャイコフスキー(1940-1983)
作曲家のチャイコフスキー(Петр Ильич Чайковский,ペーテル・イリイチ・チャイコフキー)は1840年5月7日、ウラル地方のボトキンスク(Воткинск)という町に生まれました。
お父さんは鉱山の技術者でした。

小さい頃から音楽の才能を示していましたが、はじめは親の希望もあって役人を志し法務省につとめていました。
しかし音楽への情熱は抑えきれず22歳になった1862年に役所を退職してペテルブルグの音楽院に入学。
ここを主席で卒業したあと1865年にはモスクワ音楽院に教師として移籍。
この年、最初の交響曲「交響曲第一番」を作曲しました。

その後、モスクワで「交響曲第二番」や「ロミオとジュリエット」、そして名曲のひとつである「ピアノ協奏曲第一番」などを作曲しています。

「ミドシラ・ミドシラ・ミドシラソラシシド」という、ピアニストが鍵盤に指を全力で叩き付けるかのような緊張感あふれる強烈なイントロの後、一転して「ソミレ・ドミーレファーミシド・ラレーミラ」といったロマンティックで明るいメロディーラインが続いていくこの曲は、多くのピアニストたちの名演で有名ですが、日本ではずっと以前に、中村紘子さんがカレーのCMで弾いていたのを記憶している人も多いでしょう。

チャイコフスキーは1877年にアントニーナという女性から熱烈な求愛を受けて結婚。
しかしこの結婚生活は両者の性格の違いから4年で終止符を打つことになります。
その後はあまり演奏旅行などで遠出することが少なくなり創作活動に専念するようになったといいます。

チャイコフスキーはまたバレエ用の音楽にも優秀な作品を残しています。
最初の作品は1875年の「白鳥の湖」ですが、この作品は公演が大失敗であったため、ショックを受けた彼はその後ずっとバレエ作品を書きませんでした。
しかしその「大失敗作」を蘇らせて現代につながる名作に変えてしまったのがバレエ史上に輝かしい名前を残す天才振付師マリウス・プティパでした。

プティパは「白鳥の湖」の初演時の失敗要因を全て改善し、十数年ぶりにこの作品を大ヒットさせることに成功しました。
そしてその勢いにのってチャイコフスキーに新作を書いてくれるよう熱烈に依頼、彼も心を動かされて「眠りの森の美女(1890)」「くるみわり人形(1892)」を書き、両者ともプティパの演出で大成功を収めました。

1893年にチャイコフスキーは「交響曲第六番(通称:悲愴)」を完成させますがその初演のわずか一週間後1983年11月6日、チャイコフスキーはコレラのため急死しました。
享年43歳。


真田幸村(1567-1615)
慶長20年(1615)5月7日、大阪夏の陣の最終決戦が行われ、徳川方を散々苦しめた真田幸村(正しくは信繁。幸村というのは信繁をモデルにした講談での呼び名です。しかし分かりやすくするため以下仮に幸村と呼びます。)も松平忠直の鉄砲頭・西尾久作により首を取られました。

大阪夏の陣の主人公たる真田幸村を取り上す。

まず、真田家について少し注目してみたいと思います。
真田家は元々信濃の出身で、真田幸村の祖父の真田幸隆の代に頭角を表してきました。
はじめ海野平を拠点とする海野氏に仕えていましたが武田信玄の父の信虎が1541年海野氏を破ると、はじめ海野棟綱と共に逃れていましたが1545年信虎を追放して甲斐国主となった武田信玄の力量を見込んで、これに従いました。

しかしその信玄が上洛途中で死に、子の勝頼の代になると長篠の戦いで織田徳川の連合軍に敗れ、真田家当主の真田信綱も戦死してしまいました。
真田家は弟の真田昌幸が継ぎ、織田に仕えます。(正確には織田の家臣滝川一益に従った)

ところが織田信長は本能寺に倒れますと、真田昌幸ははじめ徳川家康に従いましたが、後に長男の信幸を徳川方に残し、自分と次男の幸村は豊臣秀吉に付き従いました。
これは次の天下が豊臣になるか徳川になるか分からないので、子供を双方に付かせれば、どちらかは生き残るであろうという、まさに小大名ならではの厳しい選択でした。

そして兄弟は関ヶ原・大阪冬の陣・夏の陣、と敵味方に分かれて戦い、結果幸村は戦死してしまいますが、信幸は昌幸の意図通り生き残り、沼田の地で明治の廃藩置県まで大名として家が存続しました。

戦国時代、天下を統一しようというほどまでの力量のない小さな大名はこうして、強そうな所、強そうな所に付き従って、生き延びていったのです。

真田幸村の生涯
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic31.html


曾根崎心中初演(1703)
元禄16年(1703)5月7日、大坂の竹本座で人形浄瑠璃「曽根崎心中」が初演され、大ヒット作となりました。
これは同年4月に曾根崎の天神の森で心中した、北の新地の天満屋の遊女お初と醤油商平野屋の手代徳兵衛との悲恋を扱った物語で実にホットな話題でした。

この二人が心中したことで「お初天神」の通称ができてしまった曾根崎の天神様は本来は「露天神」といい、菅原道真公がこの地で

  露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思ひ出づれば

とよんだことから命名されたものです。

人形浄瑠璃は16世紀に三河地方の琵琶法師たちが作り上げた物語形式の歌に人形劇が結びついて江戸時代初期に成立したもので、この曾根崎心中を上演した竹本座の竹本義太夫とそのライバルであった豊竹座の豊竹若太夫によ
りその形式が完成しました。

「浄瑠璃」というのはまだ人形劇と結びつく以前の時代に、源義経とその妻・浄瑠璃姫の物語をうたったものが大ヒットして、それがこのジャンルの代名詞になってしまったものです。
また竹本義太夫によって完成されたことからその歌は「義太夫節」とも呼ばれます。
江戸時代たいへんな人気でしたが明治以降は衰えてしまい、一番最後(1909年)まで残ったのが文楽(ぶんらく)座であったために「文楽」とも称されます。

人形浄瑠璃を完成させた二人ですが、竹本義太夫は心理描写重視、豊竹若太夫は華麗な技巧で魅せるタイプで対照的な芸風であったと伝えられます。
竹本座は天和4年(1684)2月1日,豊竹座は元禄16年(1703)6月にオープンしています。
二人が競い合っていたこの浄瑠璃黄金時代は「竹豊時代」とも呼ばれます。

なお、文楽座なき後は松竹がその名前だけ引き継いで公演を続行してきましたが近年は後継者難と観客減少で非常に苦しんでおり、1963年以降は松竹に代って財団法人文楽協会が管理しています。
最近はロック浄瑠璃などといった珍奇な試みをしてみたりなど何とか観客を呼び戻そうと努力はしているようですが先行きは明るくないようです。

近松門左衛門は承応2年(1653)に福井藩士の次男に生まれた後、父が浪人したことに伴い京都に出てきて、公家に仕え、後大坂に移って浄瑠璃作者になります。
最初の作品は寛文13年(1673)正月のものです。
彼の作品は浄瑠璃と歌舞伎とに分かれていますが、特に浄瑠璃では「曾根崎心中」「冥土の飛脚」「国姓爺合戦」「女殺油地獄」など数々の名作を生みだしました。

(近松の出生地については福井説の他に萩説もあります。又そのほか10通りくらいの諸説があります)






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