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5月 8日 世界赤十字デー(国際赤十字連盟1948)、松の日、米の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
スイレン      純潔・清浄・甘美・清純な心・信仰 ○
スイレン(黄)   優しさ・甘美           ×
ハス(黄)     純粋・優しさ           ×
ハナショウブ    伝言・優しい心・あなたを信じます ○
フジ        歓迎・恋に酔う・佳客       ○

∞…∞ 5月 8日・今日という日 ∞…∞

NAOTO   (1983)  ORANGE RANGE
美勇士   (1981)  歌手
田島寧子   (1981)  水泳
山田誠吾   (1981)  俳優
橋口耕太   (1980)  チン☆パラ
吉本 亮   (1980)  野球
星野貴紀   (1980)  声優
一条 俊   (1979)  俳優
たかはし智秋   (1977)  声優
幸村 誠   (1976)  漫画家 「プラネテス」
張替智広   (1976)  キンモクセイ、Dr.
山崎 潤   (1975)  俳優
エンリケ・イグレシアス   (1975)  歌手
宇野 薫   (1975)  格闘家
黒瀬 純   (1975)  タレント、パンクブーブー
三浦綺音   (1974)  タレント、女優
小坂俊史   (1974)  漫画家
荒川 弘   (1973)  漫画家 「鋼の錬金術師」
ジャイアント落合   (1973)  格闘家
中田有紀   (1973)  キャスター
杉元一生   (1972)  元 WANDS、G.
ダレン・ヘイズ   (1972)  サヴェージ・ガーデン
野々村芳和   (1972)  サッカー
Call (神波憲人)   (1971)  Will Call、元 野猿、衣装
林家きく姫   (1970)  落語家
ルイス・エンリケ   (1970)  サッカー
曙 太郎   (1969)  相撲
赤坂 晃   (1968)  俳優、元 光GENJI
黒崎久志 (黒崎比差支)   (1968)  サッカー
カジヒデキ   (1967)  シンガーソングライター
谷川史子   (1967)  漫画家
さくらももこ   (1965)  漫画家 「ちびまる子ちゃん」
腹筋善之介   (1965)  俳優、惑星ピスタチオ主宰
メリッサ・ギルバート   (1964)  女優
沢入重雄   (1963)  サッカー
池田貴族   (1963)  シンガーソングライター
新田純一   (1963)  俳優
オレステス・デストラーデ   (1962)  野球
寺杣昌紀 (てらそま昌紀)   (1962)  俳優
田上 明   (1961)  プロレス
フランコ・バレージ   (1960)  サッカー
天童荒太   (1960)  作家
榊原郁恵   (1959)  タレント
中原めいこ   (1959)  歌手
かたせ梨乃   (1957)  女優
望月卓也   (1956)  野球
吉川美代子   (1954)  アナウンサー
大村雅朗   (1951)  作曲家
長谷川稀世   (1946)  女優
安部憲幸   (1945)  アナウンサー
赤木圭一郎   (1939)  俳優
小池一夫   (1936)  漫画原作者
大西信行   (1929)  脚本家
宗田 理   (1928)  作家
澁澤龍彦   (1928)  作家
市川百々之介   (1906)  俳優
ロベルト・ロッセリーニ   (1906)  映画監督
ターキー・ステアーンズ   (1901)  野球
ハリー・S・トルーマン   (1884)  アメリカ大統領
ジャン・アンリー・デュナン   (1828)  赤十字創始者
高山彦九郎   (1747)  思想家
エドワード・ギボン   (1737)  歴史家

 ○ ジャンヌ・ダルク、オルレアンを解放(1429)
 ○ 大坂城、落城。大坂夏の陣が終結(1615)
 ○ イギリスで初の国際ヨットレース(1849)
 ○ コカ・コーラ誕生。薬屋のベンバートンがカフェイン、コーラの木の抽出液と多数のオイルを使って発案。販売権を獲得したキャンドラーが、1890年にコカコーラ・カンパニーとして登録(1886)
 ○ 台湾島民を日本国籍に編入する(1902)
 ○ 米軍基地拡張に反対する砂川闘争始まる(1955)
 ○ 富山県イタイイタイ病が公害病に認定(1968)
 ○ 育児休業法成立(1991)

世界赤十字デー
赤十字の創始者、スイスのアンリ・デュナンの誕生日に由来する。
1828年の5月8日に生まれたデュナンは、1859年6月、北イタリアのソルフェリーノでの戦いで数万もの兵士が死傷するのを見て、敵味方の区別なく苦しむ兵士を助ける中立・博愛の団体の創立を提唱。
1864年にジュネーブ条約が結ばれて国際赤十字が誕生、日本も1886年(明治19年)に加盟した。

松の日
日本の松を守る会が1989(平成元)年に制定。
同会は日本の代表的な樹木の松をいつまでも大切に保護して行くことを目的として設立され、1981(昭和56)年のこの日に初めて全国大会を開催した。

童画の日
長野県岡谷市が制定。
1925(大正14)年、東京銀座・資生堂ギャラリーで「武井武雄童画展覧会」が開催された。

ゴーヤーの日
JA沖縄経済連と沖縄県が1997(平成9)年に制定。
「ゴー(5)ヤー(8)」の語呂合せと、5月からゴーヤー(苦瓜)の出荷が増えることから。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


鼠小僧次郎吉(1797-1832)
盗んだ金を貧乏人たちにバラまいて「義賊」と呼ばれたといわれる大泥棒・鼠小僧次郎吉は天保3年(1832)5月8日に捕縛されました。(5日説あり)

次郎吉は寛政9年(1797)の生まれといわれます。
歌舞伎の中村座の木戸番の長男で建具職人をしていましたが、バクチで身を持ち崩し借金に追われて、無宿人となり、1823年頃から武家屋敷に泥棒に入るようになりました。

武家屋敷を狙うのは別にお金のありそうな所を狙おうという意味ではありません。
武家屋敷は被害にあっても届け出ればむしろ「盗賊などにやられるとは不届き至極」とおとがめを受ける可能性がありますので、まず届けることはありません。
彼は身のこなしが軽く、ひとけのない所をうまく狙って盗んだので人を傷つけることなく、しかも処分に困るような物品には手を付けず現金だけを狙いました。

1825年には一度捕まって入墨の上追放の刑を受けています。
十両盗めば首が飛ぶ時代にこの刑はやはり被害届が出ていなかった故でしょう。
しかし彼はこれで泥棒から足を洗いませんでした。
更に盗みを続け、とうとう1832年のこの日、松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだ所を捕まりました。

今度は二度目ですので刑も厳しく、同年8月19日市中引廻しの上鈴ヶ森刑場で打首獄門になりました。

彼のお墓が回向院にあります。
伊勢屋四郎兵衛という商人が施主となって、建ててあげたものだそうですが、その墓石は「盗人の墓を削り取ったものを持っていればギャンブルに強くなる」という俗説のため大量に削り取られています。

なお彼の実際の行いについては後世の創作による部分が膨らみすぎてよく分かりません。
本当に盗んだ金をばらまいていたかについても疑う人が多いようです。


長篠の戦い(1575)
天正3年(1575)5月8日、武田と織田・徳川連合の最終決戦となる長篠の戦いの火蓋が切って落とされました。

戦国末期。そろそろ誰かが天下を統一してこの戦乱の世を終わらせるべきだという空気が強くなっていました。
その時点でその最有力候補は名門中の名門・上杉家の一族で越後にある上杉謙信と甲斐にあって強力な軍事力を持つ武田信玄、そして東海の雄・今川義元などでした。

上杉と武田は何度か川中島で対決しますが決着はつかず、やがて互いに相手を牽制しつつも、上杉は北側ルートで、武田は南側ルートで各自上洛を目指すことになります。

先に動いたのは上杉でした。
謙信は1559年に上洛に成功。
本来の勢力地であった関東の管領の任を天皇から認められ、それを背景に関東方面を実質的支配下におき、いわば南北両側から武田をおびやかす形を取ります。

一方の武田は美濃ルートでは斎藤、東海ルートでは今川といったところがふさがっているので、なかなか思うように動けません。
その内、今川が上洛の動きを見せますが、1560年、信じがたいことに尾張の小大名・織田信長に桶狭間で倒されるという番狂わせが生じます。
ここで突如として、織田と、今川が倒れたことによって浮上した三河の松平という新興勢力が注目を集めるようになりました。
この織田と松平は1562年軍事同盟を結び、無視できない勢力になります。(松平家康は1566年から源氏の末裔と称して徳川を名乗る)

1566年、織田の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣に一晩で城を築城。
織田はここを拠点に斎藤を攻め、翌年岐阜を手中に収めます。
そして1568年、織田信長は一連の戦勝を背景にしてもう見る影も無かった将軍家の生き残り・足利義昭を奉じて京に入り、これを15代将軍に就任させて諸大名に一歩先んじる地位を獲得しました。

こうなると武田も黙ってはいられなくなります。
度々徳川に干渉した末1571年本格的に上洛を目指して兵を進めますが、その途中、信玄は陣中で病死してしまいます。
軍はいったん甲斐に戻りました。
そして、4年後今度は信玄の子勝頼が兵力を率いて、再び東海ルートで京を目指しました。

ここで主戦場になったのが、2年前に徳川家康が武田から奪い取っていた長篠城の近辺です。
武田軍の本格的攻撃は4月下旬から始まり、5月8日に城自体に対する攻撃が始まりました。

武田の激しい攻撃に対して、長篠城を管理する奥平信昌は我慢に我慢を重ねて、持ちこたえます。
その中、奥平の家臣の鳥居強右衛門は密かに城の包囲網を抜け出し、家康・信長のところに援軍を乞いに行きます。
そして家康らからもうすぐそちらへ行けるという答えをもらうと喜んで城に戻ろうとするのですが、城に入る直前に武田の兵に捉えられてしまいました。

強右衛門は武田の陣中で磔にされますが、その時に大声で長篠城の味方に「もうすぐ援軍が到着するぞ!」と伝えました。
これで長篠城の兵は一気に士気が高まり、さらに一週間持ちこたえることになるのです。

その翌日、信長は野田に布陣。
呼応して武田は設楽原に陣取ります。
そして3日後、家康の家臣酒井忠次が鳶ヶ巣山の方に回って武田に背後を取られないように備えた上で、21日早朝、武田軍と信長・家康連合軍が設楽原で激突しました。

この戦いで、信長は日本の軍事史上に残る、画期的な戦法を採用しました。

当時、ヨーロッパ渡来の鉄砲が各地の大名に非常に注目されていましたが、当時の鉄砲は当然単発。(リボルバーの発明は19世紀です)一度撃ってしまうと、次に発射できるまで非常に時間がかかるため、その間に剣で斬りつけ
られるとどうにもならないという問題がありました。

しかし信長は3000人の鉄砲隊を3組に分け、一組目が発射したら次の組の者が前に出てまた発射。
そのあと今度は3組目が出てまた発射。
ということを繰り返し、発射した組の者はすぐに後ろに下がってすぐ鉄砲を掃除し、また火薬を詰めて次の発射の準備をする、という方式を採用しました。
これだと次から次へと弾が発射されるため、鉄砲が発射された後を狙って斬りつけるというやり方が効きません。

かくして、超強力を誇った武田の精鋭騎馬隊も、近代兵器の前になすすべもなく壊滅。
武田勝頼は敗走。
これで事実上軍事王国武田も滅びました。(最終的な滅亡は1582年天目山の合戦)

こうして、織田・徳川連合軍は強力なライバル武田を退けて、天下への道をまた一歩大きく踏み出したのです。





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