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5月11日 鵜飼い開き 〔岐阜・長良川〕

花ノ名前      花ことば            誕生花として
イチゴ       先見・尊重と愛情・誘惑・甘い香り ○
ヤグルマギク(ヤグルマソウ)優雅・繊細な心・独身生活
              デリカシー・幸福感    ○
ライラック     愛の芽生え・愛の最初の感情
          青春の喜び・若き日の思い出
          初恋の感動・無邪気・若さ・友情  ○
リンゴ       選ばれた恋・選択・名声
          誘惑・最もやさしき女性に     ○
リンゴ(花)    選択・評判            ×

∞…∞ 5月11日・今日という日 ∞…∞

ホリー・レイチェル・ヴァランス   (1983)  歌手
内藤陽子   (1981)  タレント
松井大輔   (1981)  サッカー
潮丸元泰   (1978)  相撲
坂本浩之   (1978)  俳優
佐藤由紀彦   (1976)  サッカー
なかのよいこ   (1975)  タレント
思い当たる   (?)  イラストレーター
大槻真希   (1973)  歌手
岩本ツトム   (1971)  野球
田辺徳雄   (1966)  野球
山川浩正   (1965)  THE BOOM、Bass
ひかる一平   (1964)  俳優、タレント
浜田雅功   (1963)  タレント、ダウンタウン
バカボン鬼塚   (1963)  ラジオパーソナリティー
松尾貴史   (1960)  タレント
冬木弘道   (1960)  プロレス
久保田早紀 (久米小百合)   (1958)  シンガーソングライター
大河内浩   (1956)  俳優
マリ・クリスティーヌ   (1954)  異文化コミュニケ-ター、国連ハビタット親善大使
高橋洋子   (1953)  女優
新浦寿夫   (1951)  野球
泉谷しげる   (1948)  シンガーソングライター
山東昭子   (1942)  女優、政治家
保岡興冶   (1939)  政治家
森田拳次   (1936)   漫画家 「丸出だめ夫」
山根成之   (1936)  映画監督
豊田行二   (1936)  作家
岡部 正   (1923)  俳優
松本 亨   (1920)  経済評論家
林伊佐緒   (1912)  歌手
サルバトーレ・ダリ   (1904)  画家
川路利良   (1834)  警察官、東京警察庁大警視

 ○ コンスタンチノープル、ローマ帝国の首都に(330)
 ○ 日本最古のお金「和同開珎」発行(708)
 ○ 遷都を繰り返して周囲を混乱させていた聖武天皇、平城に都を戻す(745)
 ○ 蝦夷奉行を箱館奉行と改称する(1802)
 ○ 土方歳三が函館異国橋付近で腹部貫通銃創を受けて戦死する。35歳(1869)
 ○ 大阪〜神戸間鉄道開通(1874)
 ○ 来日中のロシア皇太子を巡査が切りつけた大津事件(1891)
 ○ 御堂筋、完成(1937)
 ○ シャムが国名をタイと改める(1949)
 ○ 宇高連絡船紫雲丸が沈没。死者168人(1955)
 ○ 植村直己ら日本山岳会、エベレスト登頂に成功(1970)

大津事件記念日
1891年(明治24年)に滋賀県大津市で来日中のロシアのニコライ皇太子が、沿道警備中の巡査津田三蔵に切りつけられる「大津事件」が発生した。
政府は、日露関係の悪化を恐れ「大逆罪」を適用し死刑にしようとしたが、大審院の児島惟謙院長は「刑法に外国皇族に関する規定はない」とし、普通人に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決を下した。
これにより司法の独立が守られた。

長良川の鵜飼い開きの日
岐阜県の長良川で鵜飼いが行われる初日。

朔太郎忌
大正・昭和期の詩人、萩原朔太郎の1942(昭和17)年の忌日。

梶葉忌
小説家・梶山季之の1975(昭和50)の忌日。

たかし忌,牡丹忌
俳人・松本たかしの1956(昭和31)年の忌日。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


ミュンヒハウゼン(1720-1797)
1720年5月11日、ドイツのハーメルン近くのボーデンヴェルダー(Bodenwerder)という町で、後に「ほら吹き男爵」のモデルとなる、カール・ミュンヒハウゼン(Freiherr von Karl Friedrich Hieronymus Munchhausen)が生まれました。

8人兄弟の5番目ということで跡継ぎになる可能性もなく、15歳の時にブラウンシュバイク公爵という人の所に侍従として奉公に出されます。
1737年に公爵の兄でロシアに住むアントン・ユルリッヒ公から、侍従を少し回して欲しいという依頼があり、ミュンヒハウゼンが指名されてロシアに赴きました。
当時ロシアはトルコと戦争中で、ミュンヒハウゼンもこの戦役にユルリッヒ公と一緒に参加することになりました。
このトルコ戦役での体験が後の彼の冒険談の序章となります。

1739年公と共にロシアに戻っていたミュンヒハウゼンは高貴な女性と道ならぬ恋をして相手の女性は彼の子供を産んでしまいます。
その子供はすぐに里子に出されますが、その家系はロシアで現代まで存続しているそうです。(ドイツ側の家系は途絶えているらしい)

1740年ユルリッヒ公の妻のアントン・レオポルドヴナがロシア皇帝イヴァン6世の摂政に就任します。
するとミュンヒハウゼンは中尉に任命され、第一連隊を任せられました。
しかし翌年今度はエリザベータ・ペトロヴナが政変を起こしてユルリッヒ公とその一族が根こそぎ逮捕されます。
しかしミュンヒハウゼンはうまく逃げ出して身を隠していました。

1744年彼はアンハルト・ゼルブスカヤ王女(後のロシア皇帝エカチェリーナ2世)の儀仗兵に採用されます。
この年、判事の娘のヤコビン・フォン・デュンテンと結婚。
のち彼は騎兵隊の責任者にまで出世します。

1750年、彼は休暇を取り妻子を伴ってドイツの実家に戻りますが、母が亡くなり、兄が二人亡くなっていたりなどでドタバタして、なかなかロシアに帰国できません。
そのうちロシア軍の方は強制除隊になってしまいます。
結果的にはこのあとずっと彼はボーデンヴェルダーの町で暮らすことになってしまいました。

1760年頃から彼は居城で酒を飲みながら友人達にロシアに居た頃の冒険談を色々語るようになっていました。
彼の話は若干(?)の脚色や誇張なども入っていて面白かったため、やがて彼の話をまとめた本が出版されたりもしました。
しかしこの冒険談が有名になるのは、Rudolf Erich Raspe(1737-1794)が1783年に「M-h-sの話」という本をドイツ国内で出版してからです。
彼はハノーバー出身なので、ボーデンヴェルダーの近所でもありますし、ミュンヒハウゼン男爵の話を直接聞いた1人ではないかとも言われています。

ラスプは1785年には亡命先のイギリスで一部記述方法などを改訂して「ミュンヒハウゼン男爵、ロシアでの素晴らしき旅と軍役を語る」という本を出版します。
そして、この後、色々な人がこの本を元に、更に話を大げさにしたり、あるいは新しい話を加えたりして「ほら吹き男爵の話」は広がっていきました。
ラスプのすぐ後に出たドイツのGottfried Burger(1747-1794)の本も有名です。
ビュルガーも男爵を直接知っていたとのことで、ラスプと同様に自分が男爵から聞いていた話をまとめているそうです。
その後の「ほら吹き男爵」本はラスプ本とビュルガー本の双方から話を取ったり、更にオリジナルを加えたりしています。

ミュンヒハウゼン男爵は1797年2月22日に亡くなりました。
1790年奥さんに先立たれてしまった後は寂しい生活であったようです。


ブートストラップ
コンピュータを起動する時に使用する小さなプログラムをブートストラップ(略してブート)といいます。
このプログラムは最初の何個かの命令を実行するとその命令がそれに続く命令を読み込むようになっており、その命令により更にその先の命令が読み込まれる、という仕組みでプログラム全体がメモリーに読み込まれる仕組みになっています。
1970年代前半頃まではこの最初の数個の命令は毎朝コンピュータを起動する時に人間が手作業でCPUに直接二進数で入力していました。

この「ブートストラップ(直訳すると靴ひも)」の語源はラスプ本の「ほら吹き男爵の冒険」の中に出てくる話が元になっています。
ある時男爵が沼を飛び越えようとしたが沼が大きすぎて途中で落ちてしまった。
どんどん沈んでいくので、これはいかんと、男爵は自分の靴ひもに手を掛けて引っ張り上げて、結果的に沼から脱出することに成功した・・・・という話です。
水中で自分で自分を引っ張り上げたという話が、自分で自分を読み込むプログラム「ブートストラップ」につながっています。(ビュルガー本では靴ひもではなく自分の髪をつかんで引き上げたことになっています)


ミュンヒハウゼン症候群
簡単に言えば「仮病」なのだが、その手法がしばしばマニアックで巧みであり医者もコロリと騙されてしまうとして精神医学方面で最近問題にされてきているもの。
身体の異常が現実には存在しないのに症状を訴えるという点では、心身症などとも似ているのだが、ミュンヒハウゼン症候群の場合は本人が実は病気でないことをきちんと意識している点が違う。
強いて言えば病気を装わなくてはならないほど本人が精神的に追いつめられている状態が問題である。
 
このバリエーションで代理ミュンヒハウゼン症候群というのもある。
これは「世話する者」が「世話される者」を病人に仕立てて病院に駆け込むケースである。
多くは母親が子供を病人にしたてる場合で、検尿のコップの中に細菌を混入させたりするので、よほどこのケースを疑っていない限り医者も完璧に騙されてしまうのである。


大津事件(1891)
明治24年(1891年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で警備の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられました。

幸いなことに津田巡査はすぐに取り押さえられ、皇太子も額に2ヶ所傷を負っただけで命に別状はありませんでしたが、一応大事をとり、そのあとの日程をキャンセルして数日後帰国の途に付きます。

当時日本はまだ国際舞台に登場してから30年の弱小国、相手は大ロシア帝国ということで政府は震え上がり、明治天皇が事件の2日後には京都に駆けつけて皇太子の宿舎を訪問しお見舞いをするとともに、全国に鳴り物自粛の通達が出るなど、日本中が大騒ぎになります。
全国からのニコライ皇太子へのお見舞いの手紙も1万通に及びました。

政府は更にロシアに対して謝罪の意を明らかにするため、津田巡査を死刑にすべく裁判所に圧力を掛けます。

しかし、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能でしたが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになります。
従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理がありました。
このため裁判を担当した大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治主義遵守の立場から政府の圧力をはねつけ、法定刑内で「無期懲役」の判決を下します。
この事件はこのことにより、児島が司法の独立を守った事件として語り継がれることになりました。

なお、このニコライ皇太子はこのあと悲惨な運命を背負っていました。

この事件の3年後即位してニコライ2世となりますが、その10年後1904年にはこの日本と日露戦争を戦い、この戦争で、この地の果ての小さな島国に負けてしまいます。
その戦争のさなか革命(ロシア第一革命)が起き、国内の舵取りに苦心することになり、宮廷内は怪僧ラスプーチンに荒され、最後1917年にロシア2月革命が起きると退位させられ、翌年家族ともどもレーニンらの革命政府に処刑されてしまいます。

なお、5月にはこのニコライ2世関連のイベントがもうひとつあります。

5月18日の「国際親善デー」で、1899年にニコライ2世の発案で開催された国際平和会議を記念するものですが、近年はあまり催し物などは行われず、忘れられかけています。


薪御能(5.11-12)
毎年5月11〜12日には春日大社と興福寺で薪御能が行われます。

現代では薪能というと一種のブームのようになっていて各地で行われますが、ここの薪能が起源だといいます。
平安時代初期の869年に始まり、一時中断した時期も何度かありますが桃山時代に復興、また最近では戦時中に中断していたようですが、昭和27年にはまた復興して、人々の目を楽しませてくれています。

行事は両日とも、11時から春日大社で舞がまわれた後、夕方16時から興福寺の南大門跡に移動して、薪御能となります。

参考 関連サイト
http://www.kohfukuji.com/




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