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5月12日 看護の日[ナイチンゲールデー](国際看護婦協会(ICN)1965)、
     海上保安庁開庁記念日、民生委員の日(全国民生委員児童委員協議会1977)
     パンの日(毎月)、豆腐の日(毎月)
     母の日、袋物の日、ホームソーイングの日(5月第2日曜日)


花ノ名前      花ことば            誕生花として
アスチルベ     恋の訪れ            ○
カンパニュラ(フウリンソウ,ツリガネ草ベルフラワー)
          感謝・大望・抱負・不変・貞節
          誠実・ 思いを告げる・後悔
          うるさい            ○
ライラック     愛の芽生え・愛の最初の感情
          青春の喜び・若き日の思い出
          初恋の感動・無邪気・若さ・友情 ○
ライラック(白)  青春の歓び・美しい契り     ×

∞…∞ 5月12日・今日という日 ∞…∞

石川直宏   (1981)  サッカー
泉 政行   (1980)  俳優
石黒 彩   (1978)  元モーニング娘。
高見盛精彦   (1976)  相撲
福井敬治   (1976)  野球
鈴木 崇   (1975)   シンガーソングライター
井端弘和   (1975)  野球
島田彩夏   (1975)  アナウンサー
吉田太一   (1975)  アナウンサー
山口眞弓   (1975)  声優
鉄拳   (1972)  タレント
マギー   (1972)  ジョビジョバ
和歌乃山洋   (1972)  相撲
マイケル (立花秀樹)   (1972)  タレント
大久保佳代子   (1971)  タレント、オアシズ
裕木奈江   (1970)  女優
統乃さゆみ   (1970)  歌手
恋雄みなと   (1968)  漫画家
こくら雅史 (小倉雅史)   (?)  イラストレーター
奥田民生   (1965)  シンガーソングライター
紀藤真琴   (1965)  野球
米たにヨシモト   (1963)  アニメーション監督
渡辺 徹   (1961)  俳優、タレント
EPO   (1960)  歌手
田口 俊   (1955)  作詞家
風吹ジュン   (1952)  女優
秋川リサ   (1952)  女優、モデル
酒井とおる   (1951)  漫才師
西川のりお   (1951)  漫才師
ガブリエル・バーン   (1950)  俳優
萩尾望都   (1949)  漫画家 「ポーの一族」
下田逸郎   (1948)  歌手
東由多加   (1945)  演出家
入江若葉   (1943)  女優
川津祐介   (1935)  俳優
山田 昌   (1930)  女優
江口浩司   (1927)  作曲家
長沢 節   (1917)  洋画家、イラストレーター
藤田まさと   (1908)  作詞家
キャサリン・ヘプバーン   (1907)  女優 ※11月9日生まれ説もあり
松島詩子   (1905)  歌手
草野心平   (1903)  詩人
武者小路実篤   (1885)  作家
フローレンス・ナイチンゲール   (1820)  看護婦
柳亭種彦   (1783)  幕臣、作家
仙石久道   (1774)  大名
青木昆陽   (1698)  儒学者

 ○ リーフデ号で豊後に漂着したイギリス航海士のウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンが家康に謁見。ヤン・ヨーステンは東京・八重洲の語源に(1600)
 ○ 天明の打ち壊し事件(1787)
 ○ キュリー夫妻がラジウムを発見(1898)
 ○ ハレーの予言通りに彗星が出現 (1910)
 ○ 高峰譲吉、初の帝国学士院賞(1912)
 ○ 治安維持法が施行(1925)
 ○ 海外(マニラ)から初のラジオ実況中継(1934)
 ○ 関東軍とソ連モンゴル軍がノモンハンで衝突。ノモンハン事件(1939)
 ○ 東京・世田谷の米よこせ大会、皇居へデモ(1946)
 ○ 母子手帳配布開始(1948)
 ○ ソ連が西ベルリンの地上封鎖を解除(1949)
 ○ 瀬戸大橋完成第1号(1979)

海上保安の日
1948年(昭和23年)のこの日、海上保安庁が設置されたのを記念して設けられた日。
「開庁記念日」が2000年(平成12年)より「海上保安の日」と改められた。
広く国民の海上保安庁に対する理解及び信頼を深めるために定められたもの。

看護の日
看護する心、ケアの心を広く知ってもらおうと、厚生省(現在の厚生労働省)と日本看護協会などがが1991年(平成3年)に制定した。
国際看護婦協会(ICN)でも、この日を「国際看護婦デー」としている。
12日を含む週の日曜日から土曜日までが「看護週間」となっている。

ナイチンゲール・デー
赤十字の母と呼ばれるイギリスの看護婦、フローレンス・ナイチンゲールがイタリアのフィレンツェで1820年の今日、誕生したことを記念する日。
赤十字ではこの日に、ナイチンゲール精神を範とする看護婦にナイチンゲール記章を授与している。

民生委員・児童委員の日
全国民生委員児童委員連合会が1977(昭和52)年に制定。
1917(大正6)年、民生委員・児童委員制度の前身とされる岡山県の済世顧問制度が発足した。
民生委員とは福祉の増進の為に、地域住民の生活状況の把握、生活困窮者の保護指導、福祉事務所が行う業務への協力等を行う人のことで、厚生労働大臣の委嘱により市町村に置かれる。
「児童福祉法」により児童委員を兼務することとなっている。

パンの日
パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。
1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。
この日を記念して毎月12日をパンの日としています。

アセロラの日
1999年(平成11年)に沖縄県本部町(もとぶちょう)が制定。
アセロラの初収穫の時期。
アセロラは西インド諸島原産の果物で、ビタミンCを豊富に含んでいる。

袋物の日
1993年(平成5年)に日本袋物協会が制定。
「ハンドバッグの日」ともいう。

ホームソーイングの日
日本ホームソーイング振興会によって制定。

東京都みどりの日(5月第2土曜日)
1985年(昭和60年)に東京都が定めた。
緑化キャンペーンが行われる。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


ナイチンゲール(1820-1910)
5月12日は「クリミアの天使」と言われ、後に近代看護学の普及に尽力したナイチンゲールの誕生日で「看護の日」(ナイチンゲール記念日)になっています。

フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日、両親の新婚旅行中のフィレンツェ(フローレンス)で生まれました。
今の日本で新婚旅行中に子供が生まれたなどといったら「そりゃまた随分早いですね」ということになりますが、当時の貴族の場合はごく普通のことでした。
しかも彼女は第一子ではなく次女。
お姉さんのパーシノーブもやはり新婚旅行中の1819年ナポリで生まれています。
つまり当時の貴族の新婚旅行というのは、非常に長期のもので、フローレンスの両親の場合3年間にも及んでいます。

フローレンス・ナイチンゲールは一般にはクリミア戦争で敵味方の区別なく怪我人を看護した博愛の看護婦、というイメージを持っている人が多いのですが、実際の彼女はそれとはかなり隔たったものです。

まず彼女は「神の声を聞いた人」です。
彼女は生涯に4回(1837,1851,1854,1861)神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕を
するためでした。

また、彼女は近代看護学・衛生理論の確立者の一人であり、また数学者でもあって、近代統計学の発展に貢献しています。
これは彼女が自分の考えた看護・衛生学の手法をみんなに納得させるために統計を頻繁に利用したためです。

彼女の父はウィリアム・エドワード・ショー、母はフランシーズ・スミスといい、いづれもイギリスの上流階級の家の出身で1818年に結婚、ヨーロッパ大陸に新婚旅行に行って、その途中で二人の子供をもうけました。
帰国は1821年です。

当時の上流階級では女性にはあまり教育は行わず、早く結婚して夫に仕えていればよいという風潮がありました。
しかし伝統のあるナイチンゲールの苗字を継いだ二人の父ウィリアムは、女性にも教育は必要であるという考えか
らこの姉妹にイタリア語・ラテン語・ギリシャ語などの外国語をはじめ、哲学・数学・天文学・経済学などの本格的な教育を受けさせました。

そんな中運命の1837年2月7日。
フローレンスは神の声を聞きます。
神は彼女にこう言いました。
『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはどうすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。

彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。
彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。
そして翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。
1847年からはローマの保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。

彼女はその後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて2回ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びます。
そして1851年「他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という2度目の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。

1853年イギリスに戻っていたフローレンスは、ロンドンの貧困女性病人援護の会の会長に推されます。
そして1854年。
イギリスはクリミア戦争に出兵します。
この時、シドニー・ハーバートが軍務大臣になっていました。

戦場で多くの兵士が満足な手当も受けられないまま死んでいっていました。(ほんの50年くらい前まではどこの戦争でも一般に戦死者より戦病死者の方が多かった)
シドニーは彼女にこの戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼します。
フローレンスはただちに38名のボランティアの女性を組織して、戦地に向かいました。
34歳でした。

現地に行ってみるとそれはひどいものでした。
彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。
この時彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計グラフを使用しました。
これは当時としては非常に独創的なものでした。
単なる数字ではなく視覚に訴えるもので説得力は強く、彼女の考案したグラフの様式は今でも使われています。
彼女はこの手法の考案者として後に英国統計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
このクリミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。

帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛生管理についても助言をしました。
しかしこのクリミア戦争ではさすがに激務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。

この頃から彼女は夜の時間に文筆活動をするようになります。
昼間は看護活動や後身の指導に当たり、夜は本を書くというのは大変な負荷ですが彼女は公的な場所への出席をできるだけ減らして、そういった時間にあてていきました。
彼女は生涯に150の本と12000通の手紙を書いています。
その手紙の大半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答でした。

1860年6月24日にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにできました。
彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をはらいます。
翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について質問を受けています。
その年彼女は4度目の神の声を聞きました。

1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する声明を出しました。
1887年には英国看護協会の設立に助力しました。
そして1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。
そして1910年8月13日、90歳の高齢で亡くなりました。

彼女は25歳の時の最初の求婚の他に2度プロポーズをされています。
2度目はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断っています。
3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノープに譲って(!!)しまいました。

彼女は病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境であるとして、近代的な看護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。
彼女はまた自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということを実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。
彼女はまた女性にも家庭に引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだということを実践してみせてくれました。
彼女はそういう意味でクリミアの天使であっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもありました。


海上保安庁発足(1948)
1948年(昭和23)5月1日、海上保安庁が運輸省(現在は国土交通省に統合)の外局として開庁しました。
そして12日に、初代長官大久保武雄(1903-1996)の手で庁旗が掲揚されたのですが、海上保安庁では発足した1日ではなく、この庁旗が掲揚された12日を開庁記念日として祝ってきており、それにちなんで海上保安の日も5月12日になっています。

当時の日本はまだGHQの支配下にあり、新憲法の下で軍備も否定され、まだ警察予備隊(1950創設)もできていない時期です。
しかし沿岸の治安,海難救助,密輸の取締などは、とても米軍と日本の警察だけでは手に余るものがあり、マッカーサーは朝鮮情勢の悪化もあり、警察よりも強力な装備を持つ海上保安庁の設置に踏み切りました。

(同年2月8日に北部朝鮮で朝鮮人民軍が創設。2月26日国連は選挙を南部朝鮮のみでおこなうことを決めた。4月29日には朝鮮人民軍が憲法草案を採択)

海上保安庁の業務は主として沿岸警備・安全確保・情報収拾に分けられます。
安全確保のためにおこなわれているのが灯台の設置・運用など、情報収集部門は旧海軍の水路部を引き継いだ運輸省水路部を、海上保安庁設置にあわせて、こちらに移管しました(2002年4月1日に海洋情報部と改名)。
この水路部は海図の作成・海流の調査などのほか、こよみの計算でも知られており、こよみに興味を持っている方なら、一度や二度は水路部にコンタクトをとったことがあるのではないかと思います。

沿岸警備業務では多数の巡視船・航空機を保有し、領海侵犯や密入国・密輸・密漁などの取締、漁船・客船などの海難救助、などといった人的な問題を処理しています。
海底火山の噴火情報などは水路部(海洋情報部)の担当です。

海上保安庁の初代長官を務めた大久保武雄はいつか単独で取り上げたいと思いますが、俳人としても著名なとてもユニークな人物です。
東大法学部卒業後、逓信省で国際交渉部門で多くの活躍をしてきた有能な官僚で、海上保安庁を創設すると初期の頃同庁の重要な任務のひとつであった掃海作業を指揮。
日本近海の機雷の除去に尽力します。
朝鮮戦争ではGHQの極秘の指示により、この掃海作業を朝鮮近海でもおこない、旧海軍の精鋭を含む特別チームで連合軍の仁川上陸作戦(1950年9〜12月)にも協力しました。
この協力が当時の講和条約交渉にもひじょうに有利に作用したといわれます。

昭和20年8月15日に戦争が終わったと多くの人が思っていたのですが、機雷の除去作業は海上保安庁のチーム、のちには自衛隊に引き継がれてだいたい1952年頃まで続いています。
この業務の中で80名ほどの殉職者も出ており、本当に戦争が終わったのは、そのころだと考えた方が良いのかも知れません。
1950年3月に昭和天皇が四国巡幸のため瀬戸内海航路を行った時には、まだまだ危険な時期であったゆえに、事前にそのルートを徹底的に掃海したということも伝えられています。




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