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5月26日 ふろの日、東名高速全線開通記念日、ラッキーゾーンの日、ル・マンの日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オリーブ      平和・知恵            ○
チャ        純愛・追憶            ○
ラン        美人               ×
ワサビ       目覚め・うれし涙         ○

∞…∞ 5月26日・今日という日 ∞…∞

新井昌慧   (1979)  ミュージシャン
伊東美咲   (1977)  タレント、女優
天野こずえ   (?)  漫画家 「クレセントノイズ」
ローリン・ヒル   (1975)  歌手
つるの剛士   (1975)  俳優
岡安 譲   (1974)  アナウンサー
米光美保   (1973)  タレント、元 東京パフォーマンスドール
クリス・レイサム   (1973)  野球
木佐彩子   (1971)  アナウンサー
TAKURO   (1971)  GLAY、G.
和月伸宏   (1970)  漫画家 「るろうに剣心」
大和さくら   (1970)  歌手
野坂なつみ   (1970)  女優
ゆうゆ (岩井由紀子)   (1968)  タレント、元おニャン子クラブ
渡辺由紀   (1968)  モデル、タレント
福山憲三   (1967)  シンガーソングライター
東地宏樹   (1966)  声優、俳優
レニー・クラヴィッツ   (1964)  ミュージシャン
西川隆宏   (1964)  DREAMS COME TRUE、Key.
石原慎一   (1960)  歌手
原口智生   (1960)  特殊メイクアーティスト
トミーズ健   (1959)  タレント、トミーズ
森本正治   (1955)  料理人
荻野 真   (1959)  漫画家 「孔雀王」
快楽亭ブラック (二代目)   (1952)  落語家
黛ジュン   (1948)  歌手
モンキー・パンチ   (1937)  漫画家 「ルパン三世」
東海林のり子   (1934)  レポーター
芦屋雁之助   (1931)  俳優
遠山 一   (1930)  ダークダックス
ペギー・リー   (1920)  歌手
ジョン・ウェイン   (1907)  俳優
イアン・フレミング   (1907)  作家
加藤楸邨   (1905)  俳人
ボブ・ホープ   (1904)  喜劇俳優
春日部たすく   (1903)  画家
藤原道子   (1900)  婦人運動家
荒木貞夫   (1877)  軍人
頼三樹三郎   (1825)  儒学者
エドモン・ド・ゴンクール   (1822)  作家
中井履軒   (1732)  儒学者

 ○ 応仁の乱(1467)
 ○ ロシア船が来航、ゴローニンの釈放を求める(1813)
 ○ 日米約定(下田条約)が調印(1857)
 ○ 北条県(岡山県)で血税反対の農民暴動(1873)
 ○ 兌換銀行券条約を定める(1884)
 ○ 第1回ル・マン24時間耐久レース開催(1923)
 ○ 米大統領クーリッジが排日移民法に署名(1924)
 ○ 第1回全日本学生陸上競技大会開催。「位置について、用意」というスタート合図もこのころから(1928)
 ○ 京大の滝川教授の休職が発令。滝川事件(1933)
 ○ 双葉山横綱に(1937)
 ○ フォルクスワーゲン第1号誕生(1938)
 ○ 甲子園球場にラッキーゾーン設置(1947)
 ○ 東名高速道路全線開通(1969)
 ○ 日本海中部沖地震。死者104人(1983)

ル・マンの日
1923年(大正12年)に自動車耐久レースの最高峰、ル・マン24時間耐久レースの第1回大会が、フランス北西部の町ル・マンで開催された。

東名高速道路全通記念日
1969年(昭和44年)のこの日、大井松田・御殿場間が開通し、東名高速道路の東京・小牧間、346kmが全通した。

ラッキーゾーンの日
1947(昭和22)年、甲子園球場にラッキーゾーンが設置されました。
広すぎてホームランが出にくいとの理由で設置されましたが、1992(平成4)年に撤去されました。

インテリアの日(毎月第4土曜日)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


イアン・フレミング(1908-1964)
5月26日は「007シリーズ」と「チキチキバンバン」などで知られる作家のイアン・フレミングの誕生日です。(1908.5.26-1964.8.12)

イアン・フレミングはイギリス生まれ。
学校卒業後、銀行や問屋に務めたり、ロイターの記者をしたりしていましたが、1939年から海軍の情報局につとめ、第二次世界大戦中、各地を飛び回って実際にスパイとして活動しました。

そして戦争終了後は、ジャマイカの別荘「ゴールデン・アイ」に住み、不倫の末結婚したアン・ロザーメア夫人(-1981)と息子のカスパー(-1975)とともに、恵まれた自然の中での生活を楽しみながら、小説を書きました。
「ジェームス・ボンド」というのは彼がスパイ時代に使用していたコードネームです。

彼が小説を書いていたのは処女作の「カジノ・ロワイヤル」(1953)から亡くなった時に校正の最中であった「黄金銃を持つ男」(1964)までわずか11年にすぎませんが、彼の作品はアルバート・ブロッコリー(1909.4.5-1996.6.27)という偉大な映画製作者を得て、20世紀を代表するスパイ小説の一つとなったとも言えるでしょう。

「007シリーズ」以外の彼の作品としてはまず007のQが作ったみたいな自動車を描いた子供向けの作品「チキチキバンバン(Chitty-Chitty-Bang-Bang)」、そしてキングズリ・エイミスまたはロバート・マーカムのペンネームで書いた「孫大佐」、それからノンフィクションの作品「ダイヤモンド密輸作戦」などがあります。

アルバート・ブロッコリーはアメリカに野菜のブロッコリーを紹介したバスカーレ・デ・チッコの甥で、休暇でハリウッドを訪れたのを縁に映画界に入り、1960年「イオン・プロ」設立、1962年ユナイテッド・アースチツ社長との45分の会談で「007/ドクターノー」の制作を請負い、以来このシリーズの映画を17本作りました。
その後の18作目以降の作品は近年このシリーズのスタッフとして活動していた娘婿のマイケル・ウィルソンと次女のバーバラ・ブロッコリが制作を担当しています。

以下にフレミングの007シリーズのリストと映画情報を挙げます。

1953 カジノ・ロワイヤル
唯一ブロッコリが映画化権を取れなかった作品。デビッド・ニーブンやウルスラ・アンドレスが主演してコメディ仕立ての映画になった。

1954 死ぬのは奴らだ
1973年3代目ボンド、ロジャー・ムーアの1本目。映画の為に作られたタロットカードは現在も「魔女のタロット」として販売されている。

1955 ムーンレイカー
1979年珍しい2作連続出演の悪役ジョーズが魅力的。ロジャー・ムーアの4作目。

1956 ダイヤモンドは永遠に
1971年ショーンコネリーが復活した作品。

1957 ロシアから愛を込めて
1963年シリーズの人気を決定づけた作品。毒刃の飛び出す靴などの秘密兵器。この作品で世界的にアタッシュケースが流行。ショーンコネリーとロバート・ショーのオリエント急行での格闘。

1958 ドクター・ノー
1962年シリーズ第一作。007はショーン・コネリー。ボンドガールはウルスラ・アンドレス。

1959 ゴールド・フィンガー
1964年ハロルド坂田が存在感があった。007はショーン・コネリー。

1961 サンダーボール作戦
1965年ショーン・コネリー主演で映画化の後1983年コネリー自身の企画?で別の会社で再制作される。(「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」)

1962 私を愛したスパイ
1977年ロジャー・ムーア3作目。バーバラバックとの緊張感あふれる競演。

1963 女王陛下の007
1969年ボンドはこれのみのジョージ・レーゼンビー。

1964 007はニ度死ぬ
1967年コネリーの5本目。丹波哲朗や若林映子らが出演。原作では前作で妻を殺されたボンドが意気消沈して失敗を繰り返し00ナンバーを剥奪されて777のコードネームで日本に潜入、活躍して名誉挽回する。映画化の順序が逆なので映画では007のまま登場。映画の中での日本人に変装する所は笑える。

1964 黄金銃を持つ男
1974年ロジャー・ムーアの2本目。敵役はフレミングの従弟のクリストファー・リー。フレミングは本当は彼にドクター・ノーをやらせたかったらしい。

この11本を使い果たした後、「ユア・アイズ・オンリー」と「オクトパシー」は短編からの映画化。
その後は....分かりません。
シリーズ最多出演は恐らくQことブースロイド少佐のデスモンド・リュウェリン、次がミス・マネペニーのロイス・マクスウェルでしょうか。

一応その後の映画のリストも書いておきましょう。

1981 ユア・アイズ・オンリー
007の原点に戻った作品。ロジャー・ムーアにボンドガールは髪の長いキャロル・ブーケ。

1983 オクトパシー
ボンドガール2回目のモード・アダムスが出ていた。ボンドはロジャー・ムーア。

1985 美しき獲物たち
ロジャー・ムーア最後の作品。ボンドガールはチャーリーズ・エンジェルのタニア・ロバーツ。


1987 リビング・デイライツ
ティモシー・ダルトンの1本目。いい出来だったと思うのだが....

1989 消されたライセンス
ティモシー・ダルトンの2本目。これは脚本が悪いと思う。007が余りにも弱すぎた。

1995 ゴールデン・アイ
ピアズ・ブロスナンの1本目。未見です。

1997 トゥマロー・ネバー・ダイズ
ピアズ・ブロスナンの2本目。未見です。

1999 World is not Enough
ピアズ・ブロスナンの3本目。日本公開 ?


ルマンの日(5.26)
1923年5月26日、第1回目のル・マン24時間耐久レースが行われました。(5月23日説もあるようです。予選か??)

ルマン(le mans)はフランス北西部の町です。
人口15万人。
パリから南西へ約160kmほど行ったところにあり、ロアール川の支流サルト川沿いにあります。
ここはサルト県の県都になっています。
パリから来て、ここで高速を降りずにそのまま行くとアンジェ、ナント方面に行きます。

このレースは今では珍しくなった公道を使ったレースです。
常設のサーキットと市内の公道をつないだ13.6kmのコースを、とにかく24時間走り続けて、いちばん長距離走ったチームの優勝という単純明快なレース。

このレースを創設したのはサルト周辺の自動車愛好家が集まって1906年1月に作った「サルト自動車クラブ(現ACO-西部自動車クラブ)」で、当初はフランス国内のチームがほとんどでしたが、その中で唯一外国勢として気を吐いたのがイギリスのベントレー。
その後ロールスロイス、従って現在ではフォルクスワーゲン傘下に入ってしまったこのメーカーは第2回大会で唯一の外国勢として参加して優勝したほか1927〜1930年には四年連続優勝しています。

その後1931〜1934年はアルファロメオの時代(4年連続優勝)、1951〜1957年はジャガーの時代(7年間に5回優勝)、そしてフェラーリ、フォード、ポルシェ、などが時代を作ってきています。
ポルシェは1981〜1987年の7年連続優勝をなしとげています。
日本勢ではマツダが1991年に優勝しました。

このレースは公道を使用するため(当然期間中は一般の人の通行は禁止)、路面がデコボコの所もあり(普段は長距離のトラックが行き来している道である)専用サーキットのようにきれいなカーブが切ってあるわけではないのでドライバーにかかる負担は相当なものです。
それを24時間3人(初期の頃は2人)のドライバーが交替で運転していくわけで、ドライバーもスタッフも体力を使いますし、車のボディ・エンジンには過酷な耐久力が要求されます。

当然リタイアもどんどん起きます。
毎年、参加チーム中の約4割がエンジントラブル、コースアウトして大破、走行中の車輪外れ、などなどでリタイアしています。
死亡事故は意外に少ないのですが、1955年には観客席に突っ込んで100名死亡などという事故が起きたこともあります。

見に行かれる方は確実に保険に入っておきましょう。





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