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5月28日 ゴルフ記念日(ミズノ1994)、花火の日、ニワトリの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
エンレイソウ  奥ゆかしい心・奥ゆかしい美しさ・熱心 ○
カキオドシ     楽しみ・享楽           ×
スズラン      幸せの再来・幸福・純潔・純愛
          清らかな愛・繊細         ○
ハッカ       貞淑・美徳・効能         ○
バラ(赤)     愛情               ○

∞…∞ 5月28日・今日という日 ∞…∞

林明日香   (1989)  歌手
黒木メイサ   (1988)  モデル、女優
石井めぐる   (1987)  タレント
若槻千夏   (1984)  タレント
ミカ・トッド   (1984)  タレント、ココナッツ娘。
マーク・フィリー   (1980)  ウェストライフ
美水かがみ   (?)  漫画家 「らき☆すた」
五十嵐亮太   (1979)  野球
田村岳斗   (1979)  フィギュアスケート
能見篤史   (1979)  野球
男子丼   (1979)  タレント
雨宮朋絵   (1976)  タレント
Yushi   (1975)  COOL DRIVE、Dr.
西田幸治   (1974)  タレント、笑い飯
エカテリーナ・ゴルデーワ   (1971)  フィギュアスケート
マーク・リチャードソン   (1970)  FEEDER、Dr.
柳田聖人   (1969)  野球
三田英津子   (1969)   プロレス
カイリー・ミノーグ   (1968)  歌手
鈴木 亨   (1966)  ゴルフ
堀田あけみ   (1964)  作家
天馬ルミ子   (1964)   歌手
中尊寺ゆつ子   (1962)  漫画家
辛島美登里   (1961)  歌手
水沼貴史   (1960)  サッカー
和田洋一   (1959)  スクウェア・エニックス社長
山崎ハコ   (1957)  シンガーソングライター
村上ショージ   (1955)  タレント
おおにし真   (1955)  漫画家 「光と闇の方程式」
宮内 淳   (1950)  俳優
喜多嶋洋子 (内藤洋子)   (1950)  女優、タレント
中島哲夫   (1950)  宣教師
中沢新一   (1950)  宗教学者
はるき悦巳   (1947)  漫画家 「じゃりン子チエ」
パッチ・アダムス (ハンター・アダムス)   (1945)  医学博士
ルドルフ・ジュリアーニ   (1944)   政治家、元ニューヨーク市長
Mr.ボールド   (1942)  曲芸師
立花 隆   (1940)  作家
筒美京平   (1940)  作曲家
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ   (1925)  バリトン歌手
阿部 定   (1905)  女中
山本宣治   (1889)  社会主義運動家、生物学者
ヨハン・ダビット・ウィース   (1743)  作家
ジョセフ・ギヨタン   (1738)  医師、政治家
崇徳天皇   (1119)  天皇

 ○ 曽我兄弟の仇討(1193)
 ○ 将軍・家光が奉書船以外の海外渡航を禁止(1634)
 ○ 幕府が長崎に高札を立て、外国船の来航と奉書船以外の渡航を禁じる[第2次鎖国令](1634)
 ○ 幕府、日本人の海外渡航・帰国を禁止する[第3次鎖国令](1635)
 ○ 初の両国川開き(1733)
 ○ 神奈川・函館・長崎が開港、米英露仏蘭と通商(1859)
 ○ 水戸藩士らが品川東禅寺の英公使館を襲撃(1861)
 ○ 衆議院が開院(1870)
 ○ パリ・コミューンが崩壊(1871)
 ○ 電柱広告許可(1902)
 ○ エジソン、アルカリ電池を発表(1902)
 ○ 田中義一内閣のもとで第1次山東出兵始まる(1927)
 ○ 第一回全日本オープンゴルフ選手権大会開催(1927)
 ○ ベルギーがナチス・ドイツに降伏(1940)
 ○ 米ソ、地下核実験制限条約調印(1976)
 ○ 張本選手、3千本安打達成(1980)

花火の日
1733年(亨保18年)に隅田川で水神祭りの川開きが行なわれ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられた。

国際アムネスティ記念日
1961年(昭和36年)に政治的権力による人権侵害から人々を守るための国際民間機関アムネスティ・インターナショナルが発足したことによる。

ゴルフ記念日
スポーツ用品メーカー、ミズノの直営店エスポートミズノが1994(平成6)年に制定。
1927(昭和2)年、第1回全日本オープンゴルフ選手権大会が横浜の保土ヶ谷ゴルフ場で開催された。

ナショナルデー(エチオピア)

戦歿者追悼記念日(Memorial Day)(5月最終月曜日・アメリカ)

業平忌
平安時代初期の歌人・在原業平の880(元慶4)年の忌日。
平城天皇の子の阿保親王の第5子で、在原姓を賜って臣籍に下った。
六歌仙・三十六歌仙の一人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手だったため『伊勢物語』の主人公とされる。
枕を共にした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、才女の小野小町も名を連ねています。

小説家・堀辰雄の1953(昭和28)年の忌日。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


白玉か
「白玉か」の口語訳です。物語はこう語られています。

昔、男ありけり。
女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。…

昔、男がいた。
女で手に入れられないような(高貴な)人を、数年にわたって求婚し続けたのを、やっとのことで盗み出して、たいそう暗い中をやって来た。
芥河という河を連れて行くと、草の上においた露を、「あれは何ですか。」と男に尋ねた。
まだ行く道は遠く、夜も更けてしまったので、(その蔵が)鬼がいる所とも知らずに、雷までたいそう激しく鳴り、雨もひどく降ったので、あばらとなった蔵に、女を奥に押し入れて、男は弓と胡ぐいを背負って入口にいて、『早く夜があけてほしい。』と思っていたが、鬼が早くも一口で(女を)食ってしまった。
(女は)「あれえ。」と声を上げたが、(男は)雷の鳴る騒ぎに、聞くことが出来なかった。
ようやく夜も明けてゆくので、見ると、連れて来た女もいない。
地団太を踏んで泣いても、どうしようもない。

白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを

これは、二条の后が、いとこの女御のもとにお仕えするようにしていらっしゃったのを、容姿がたいそう優れていらっしゃったので、(男が)盗み出して逃げ出したのを、(二条の后の)兄である堀河の大臣と、太郎国経の大納言のお二方が、まだ官位の低い頃に、宮中へ参上なさろうとして、たいそう泣く人があるのを聞きつけて、馬をとどめて(二条の后を)お取り返しなさった。
それをこのように「鬼」といったのである。
まだたいそう若くて、后が臣下の身分であった時のことだそうだ。

歌は、芥河での女の問い、その答え、現在の気持ちと色々な内容を含んでいます。
「露」と「消ゆ」が縁語です。
次のような訳が作れます。

「あれは白玉(真珠)ですか、何ですか」とあなたが尋ねた時に、「あれは露です」と答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのになあ。

男は在原業平(ありわらのなりひら,825-880)。平城天皇の孫。
女は藤原高子(ふじわらのたかいこ,842-910)。藤原基経の妹。

業平は高子の伯父と同僚で、その縁もあり二人は高子が20歳前後の頃から愛を通じあっていたようです。
しかし高子は清和天皇に嫁がなければならない定めにありました。
入内は貞観8年(866)。
高子と清和天皇の仲は必ずしもよくなく清和天皇の愛は高子の従姉多美子にありました。
しかし運命は皮肉で天皇と多美子の間には子供はできず高子との間に産まれた貞明親王が後に陽成天皇となり、おかげで基経の家はその後も代々栄えていきます。

高子と天皇との仲がよくなかったことは、後に清和天皇が譲位後出家(876)した時に多美子は一緒に出家して従ったのに対して高子は出家しなかったことにも現れています。
そしてその頃まで高子の思いはずっと在原業平の上にありました。
恐らく業平の死まで二人の愛は続いていたのでしょう。

千早振る神代も聞かず龍田川唐紅に水くぐるとは

この歌は宮中で業平が高子の前で詠んだといわれており、二人の愛の証です。

(昔の日本人というのは、大海人皇子と額田王の歌のやりとりなどを見ても、結婚している女性が夫以外の男性と恋を語ることに対して寛容だったように思われます。男も多数の女性と付き合っているので、女性も...ということでしょう。通い婚というのは男が複数の女と付き合うのにも好都合ですが、女が複数の男と付き合うのにも好都合です。)

「白玉か」の事件は恐らく入内前の864年前後のことではないかと思われます。
事件は実際には追ってきた基経の手の者に高子を取り戻されてしまう訳ですが、それを「伊勢物語」は風流に、鬼に食われたと表現したのです。

鬼とは政治の道具として女性を使う宮中の権謀術数の塊のことなのではないでしょうか。
この話は伊勢物語第6段のエピソードです。
伊勢物語ではこのあと業平の東下りの話になり、伊勢物語はこれが原因で業平が左遷されたと語っているかのようです。

名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この「わが思ふ人」も当然高子のことなのでしょう。
むろん業平はその後京に戻り、元慶3年(879)には頭中将(今で言えば官房副長官みたいなもの)にまでなっています。
高子にもその程度の力はあったわけです。

その在原業平、元慶4年(880)5月28日没。


鶏の日(毎月28日)
毎月28日は「にわとりの日」です。
これは「28」を「にわ」と読んだものです。
1978年に日本養鶏協会が定めました。

鶏の卵は国内自給率がほとんど100%に近い、数少ない食品のひとつです。
また「価格の優等生」と言われ、ここ40〜50年程その価格がほとんど変化していません。
国内の卵生産量は年間約450億個。
平均すると国民1人あたり毎日1個卵を食べている計算になります。
むろん私たちは直接卵料理としてだけでなく、プリン、ケーキ、お菓子などの形でも食べている訳ですが。

だいたい通常の卵は1個20円くらいですが、バブル以来一部には「高級卵」を求める人たちもあり、中には1個500円もするものもあるそうです。
しかしそもそも普通の卵でも非常に高栄養の食品ですから、それに更に栄養を付けた卵の意義は気分の問題以上のものではないという意見もあるようです。

卵は親鶏が食べた栄養がそのまま出てくるものであり、鶏に色々な餌を与えると、たいていの栄養素を強化した卵が作れるのだそうです。
また卵黄が濃い黄色の卵を好む人もありますが、これも黄色い餌を鶏に与えれば、黄色の濃い卵ができるのだそうです。
見掛けにだまされないようにしましょう。

卵は冷蔵庫の中では必ず買ってきたパックのまま保存するようにしたいものです。
これには色々な理由があります。

・卵の表面には雑菌が多く付着しているので、パックから出すとそれが冷蔵庫内に拡散してしまう。
・冷蔵庫の棚は扉を開ける度に温度変化にさらされるので、卵がいたみやすい。
・卵は呼吸しているので、裸の状態では冷蔵庫内の野菜等が出したガスをたくさん吸い込んでしまい、味が落ちてしまう。

そして、これは皆さん御存知と思いますが、必ず尖った方を下にして保存しましょう。

鶏はキジ科の鳥で、中国原産ですが、四系統あった野鶏の内、赤色野鶏が現代の鶏の祖先といわれています。
家禽として改良が重ねられ、種として確立したのは4000年ほど前とも言われます。
その後世界に広がり、日本にも縄文時代頃に渡来していたようです。

ただ日本では聖武天皇以来、公的には菜食主義であったため、鶏はあくまで大半が愛玩用・目覚まし時計代わりに飼われていました。
「にわとり」という日本語も「庭で飼っている鳥」という意味でしょう。

それが安土桃山時代から江戸時代初期に掛けて、外国文化が入ってきたことから、卵を食べる習慣が芽生え、この時期に多数の外国種の鶏が入ってきているようです。
かくして落語の「長屋の花見」にも出てくるように卵焼きのような料理も生まれています(落語では実際には卵焼きに見立てた沢庵ですが)。
東海道中膝栗毛などにも卵料理は登場しています。

江戸時代までは鶏肉に関しては常食の習慣はなく、牛肉などと同様、滋養強壮薬(今風にいえば健康食品)的な扱いであったようですが、明治時代になると牛鍋の流行などと同時に鶏鍋も生まれ、博多で中国系の人達により鶏肉や鶏ガラでダシを取る水炊きが生まれるとそれが全国に普及して、各地の産物を入れた「鍋物」が発達することになります。

現在日本では、採卵用には白色レグホン、ロードアイランドレッド 、横斑プリマスロック、などが飼われており、そのほか卵をあまり産まないことから逆に希少価値で高値を呼んでいる烏骨鶏(ウコッケイ)も最近人気です。

食肉用にはいわゆるブロイラーといって40〜60日程度ゲージ飼いした鶏が多かったのですが、最近は「ブロイラーはまずい」という意識が消費者の間に広がったため、放し飼いにしたり、あるいは運動タイムを設けたりして、飼育期間も70日程度まで伸ばした鶏が増えてきました。

ブロイラーとしては、白色プリマスロック♀×白色コーニッシュ♂の掛け合せのものが多かったのですが、放し飼いなどを取り入れたものでは、いわゆる、地鶏の系統のものが多くなっています。
純血の地鶏は天然記念物になっているものが多いので、食肉用として並んでいるのはだいたい地鶏と通常の食肉種を掛け合わせたものが多いようです。(純血地鶏の血統を50%以上持っていれば「地鶏」として販売できる)

この手の「食用地鶏」として、比内地鶏・薩摩地鶏・名古屋コーチンは三大種とされますが、このうち比内地鶏と薩摩地鶏は比内鶏・薩摩鶏にロードアイランドレッドあるいはプリマスロックを掛け合わせて作られています。(ロードを使う例が多いようです)名古屋コーチンの場合は明治の始めに名古屋地方の地鶏と中国原産のバフコーチン(九斤)を掛け合わせて作られました。

「かしわ」というのは元々この名古屋コーチンの羽の色が紅葉した柏の葉に似ているとして、名古屋コーチンの代名詞であったのが、一般の鶏の意味にまでひろがってしまったようです。


花火の日
1733年の今日、隅田川で水神祭りの川開きが行われ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられたそうです。
このことから5月28日は花火の日に制定されています。


花火に関する昔話
むかしむかし、ある森のなかに仙女(せんにょ)がすんでいました。
この仙女は、からだの半分が人間で、あとの半分がクジャクのすがたをしている魔法使いです。

森のなかまたちは、この仙女のことを「クジャク仙女」とよんでいました。
クジャク仙女は、暑い夏の日には大きな羽をマントのようにひろげて、太陽の強い光をさえぎり、寒い冬の日には、そのみごとな羽で、すっぽりと森をつつみます。
そのおかげで、森はいつも春のようです。

おまけに、クジャク仙女のからだから虹(にじ)の噴水(ふんすい)のようにふきでるふしぎな光あびて、森はいつもキラキラとかがやいていました。
どんなにおそろしいトラやライオンも、仙女がひと声さけぶと、コソコソとにげていきます。

なんともすばらしい仙女です。
小鳥も、チョウも、けものたちも、みんな仙女が大すきでしたが、とりわけ森にすむクジャクたちは、「あの仙女さまのように美しく、りっぱになりたいものだね」と、話しあっていました。
「でもどうすれば、クジャク仙女のような、ふしぎな力をもつことができるのだろう?」

すると、一羽のクジャクがいいました。
「そんなことかんたんさ。仙女さまから、魔法を教えてもらえばいいじゃないか」
「そうだ。そうだ。さっそく教えてもらおう」
クジャクたちはさきをあらそって、仙女のところへとんでいきました。

そして口々に、「おねがいです。どうか、魔法を教えてください」と、さわぎたてました。
クジャク仙女は、高い岩の上からクジャクたちを見おろしていましたが、やがて美しい声でいいました。

「今夜の三時に、ここへあつまりなさい。おまえたちのなかから、一番すぐれたものを弟子にしましょう」
クジャクたちは、ワイワイさわぎながら帰っていきました。

そして、からだや頭に花かざりをつけたり、水浴びをして、からだをきれいにしたりするのでした。
どのクジャクも、「自分がいちばんりっぱなクジャクだ!」と、思っているようです。

けれども一羽、自分のすがたを川の水にうつしては、ためいきをついているクジャクがいました。
「ああ、ぼくなんて、とても仙女さまのお弟子さんになれっこないや」
そのクジャクは生まれつき、からだが小さくて、羽も黒くよごれていました。

どんなにあらっても、きれいになりません。
「クジャクのくせに、きたないやつ。やーい、チビクロ!」
と、みんなからバカにされて、ろくに遊んでもらえません。

「つまらないや」
チビクロはためいきをついて、フラフラと森の外へとんでいきました。
「わあっ!」
森の外へ出たとたん、チビクロはクラクラと目がまわり、ストンと地面に落ちてしまいました。

太陽がギラギラとかがやき、燃えるようなあつさです。
そのとき、「たすけてくれ!」と、いう声がしました。
見ると、人間のおじいさんが、グッタリとたおれています。
あまりのあつさに、病気になってしまったのでしょう。

チビクロは、いそいでしっぽの羽をぬいて、それでせんすをつくってあげました。
チビクロがせんすであおぐと、ふしぎなことに、さあっとすずしい風がふいてきて、おじいさんはたちまち元気になりました。
「しんせつなクジャクさん。どうもありがとう」
チビクロはうれしくなって、またドンドンとんでいきました。

しばらくいくと、おばあさんがオイオイと泣いています。
「どうしたの?」
チビクロがたずねると、おばあさんはいいました。

「いま、きゅうに風がふいてきて、目に砂ぼこりがはいって、なにも見えなくなってしまったんだよ」
「それはたいへん!」
チビクロはやわらかい羽をぬいて、おばあさんの目を、そっとなでてあげました。
すると、どうでしょう。
おばあさんの目が、パッチリとひらいたではありませんか。

「あれえ!」
ビックリしたのは、チビクロのほうでした。
こんなにかんたんに、おばあさんの目がなおるとは思わなかったからです。
チビクロはうれしくて、またドンドンとんでいきました。

そのままドンドンとんでいくと、一軒の小屋がありました。
その小屋のなかから、おじいさんと男の子が出てきていいました。

「クジャクさん。はやくにげなさい! こんなところにいると、王さまの兵隊がつかまえにくるよ」
「え? 兵隊がぼくをつかまえるって? どうしてさ」
「王さまがわしに、クジャクの羽で馬車のほろをつくるように、ご命令なさったのだ」
「クジャクの羽で、ほろだって?」
「そうだ。わしは馬車づくりの職人だ。しかしクジャクから羽をむしりとってほろをつくるなんて、そんなむごいことはわしにはできん」
「それで、どうしたの?」
「それでわしは王さまに、馬車のほろをこしらえることをことわった。すると王さまはカンカンにおこって、わしをろうやに入れるというのだ」
「それじゃ、早くにげたらいいのに」
「だめだ。いまに兵隊がやってくる。わしはつかまえられてもいいが、おまえさんは森へ帰ったほうがいい。森のクジャクたちにも、兵隊がクジャクがりにくることをつたえるがいい。さあ、いそいで!」

おじいさんの話をきいたチビクロは、からだの羽をぜんぶぬいて、おじいさんにわたしました。
「こんなによごれている羽ですが、どうぞ使ってください。ぼくの羽で、馬車のほろをこしらえてください。それで、おじいさんが助かるのなら、そして、ほかのクジャクたちが助かるのなら。ではさようなら。おじいさん」
羽のなくなったチビクロは、ピョンピョンとかけだしました。

まるはだかになったけれども、チビクロはすこしもさむくありません。
チビクロのおかげで、あのおじいさんたちは、しあわせにくらすことができるでしょう。
そう思うと、心もからだもポカポカと、あたたかくなってくるのでした。
そのうちに日がくれて、夜になりました。

くらい道のむこうに、ポツンとあかりが見えます。
近づいてみると家が立っていて、中から女の子とお母さんの話し声がします。
チビクロは、そっと窓をのぞいてみました。

ランプの光の下にベットがあって、そこに病気の女の子がねています。
「おかあさま。おまつりには花火があがるでしょう。わたし、花火を見たいの。はやく、おまつりがこないかしら」
「もうすぐよ。元気になって、いっしょに花火を見に行きましょうね」
お母さんは、そっとなみだをふきました。

チビクロは、病気の女の子をなぐさめてあげたいと思いました。
けれども、チビクロにはどうすることもできません。
ションボリ森へ帰ると、ほかのクジャクたちがチビクロを見つけて、コソコソ悪口をいいました。

「あいつを見ろよ。羽が無くてまるはだかじゃないか」
「ほんと、みっともない」
「そうだ、クジャクのくせにみっともないすがたをするな! あっちに行け!」
「おまえなんか、死んでしまえ!」
チビクロははずかしくて、顔をまっ赤にして岩のかげにかくれました。

やがて、夜中の三時になりました。
さっと、ひとすじの光がさしてきて、それがあっというまに七色の光になり、くらい空にかがやきわたりました。
「あっ、仙女さまだ!」
クジャク仙女が、山の上に立っていました。
クジャクたちは、仙女の前にかけよりました。

さあ、だれが仙女の弟子にえらばれるのか、みんなはドキドキして、クジャク仙女を見あげました。
すると仙女は、岩のかげに小さくなってふるえている、はだかのクジャクをやさしくだきあげたのです。

「おまえは、人のために自分をぎせいにしました。おまえは、とてもすばらしい心を持っています。おまえこそ、わたしの弟子です」
仙女は、ニッコリ笑っていいました。

「さあ、わたしの弟子よ。病気の女の子のところへ行って、あの子をなぐさめておやりなさい」
すると、はだかのチビクロに七色のきれいな羽がはえてました。

そしてチビクロは、まっすぐ空にまいあがると病気の女の子の家にいき、美しい花火のように光かがやいたのです。
おしまい。

クジャクのはなび 福娘童話集より





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