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6月 1日 気象記念日(気象庁)、電波の日(郵政省1951)、人権擁護委員の日(法務省他1981)
     写真の日(日本写真協会1951)、国際放送記念日、真珠の日(日本真珠振興会)、
     万国郵便連合加盟記念日、麦茶の日(全国麦茶工業協 同組合1986)、
     ねじの日(日本ねじ工業協会1976)、梅の日(梅研究会1987)、
     ガムの日(日本チューインガム協会1994)、あゆ解禁、衣替え、生糸年度始め、
     薪能、氷の日(日本冷凍事業協会)、バッジの日(徽章工学協会1993)、
     省エネルギーの日(毎月)男女雇用機会均等月間(労働省)、
     まちづくり月間(建設省,都道府県,市町村)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
カスミソウ 清い心・切なる願い・無邪気・無意識・親切 ×
チューベローズ   危険な楽しみ・危険な関係     ○
テンナンショウ   壮大な美             ○
バラ(ピンク) わが心・君のみが知る・温かい心・満足 ○
バラ(帯紅)    私を射止めて           ×

∞…∞ 6月 1日・今日という日 ∞…∞

玉置成実   (1988)  歌手
吉田亜咲   (1986)  タレント
堀 朱里   (1986)  タレント
トントン   (1986)  パンダ
平田実音   (1983)  タレント
黄川田将也   (1980)  俳優
尾玉なみえ   (1979)  漫画家
池田綾子   (1978)  歌手
サブロー (大村三郎)   (1976)  野球
村上幸平   (1976)  俳優
タイガースマスク   (1976)  プロレス
アラニス・モリセット   (1974)  歌手
妃羽理   (1973)  ダンサー
恒岡 章   (1971)  Hi-STANDARD、Dr.
区 麗情   (1971)  歌手
夏川結衣   (1970)  女優
神野卓哉   (1970)  サッカー
堀込高樹   (1969)  キリンジ
HIRO   (1969)  EXILE、元 ZOO
星安出寿保世   (1968)  相撲
坂上 忍   (1967)  俳優
長田江身子   (1967)  タレント
松井達也   (1965)  競馬騎手
片岡聖子   (1964)  タレント、元おあずけシスターズ
岡本 舞   (1963)  女優
松尾羽純   (1963)  タレント、元おかわりシスターズ
宇津木麗華   (1963)  ソフトボール
堀江政生   (1963)  アナウンサー
冨田恵一   (1962)  冨田ラボ
増田隆生   (1959)  アナウンサー
つまみ枝豆   (1958)  タレント
リチャード・オルセン   (1957)  野球
千代の富士貢   (1955)  相撲
柿沼 郭   (1954)  アナウンサー
櫟原 聰   (1953)  歌人
浅野孝巳   (1951)  ゴダイゴ、G.
山下泰裕   (1951)  柔道
外木場義郎   (1945)  野球
勝呂 誉   (1940)  俳優
福地泡介   (1937)  漫画家
熊井 啓   (1930)  映画監督
マリリン・モンロー   (1926)  女優
幡瀬川邦七郎   (1905)  相撲
遠藤 新   (1889)  建築家
原阿佐緒   (1888)  歌人
沖田総司   (1842)  新撰組
ミハイル・グリンカ   (1804)  作曲家
一条天皇   (980)  天皇

 ○ 西光・俊寛らの平氏討伐の鹿ケ谷の陰謀発覚[鹿ヶ谷事件](1177)
 ○ 日本初の写真撮影。モデルは薩摩藩主・島津斉彬、カメラマンは長崎の上野俊之丞(1841)
 ○ 東京気象台設立(1875)
 ○ 東京で初めて天気予報(1884)
 ○ 東京天文台設置(1888)
 ○ 八幡製鉄所操業開始(1897)
 ○ 日比谷公園開園(1903)
 ○ 幸徳秋水が大逆罪容疑で逮捕(1910)
 ○ 荻野久作、荻野式避妊法を発表(1924)
 ○ 「国民歌謡」放送開始(1936)
 ○ アメリカの人気ヒーロースーパーマン、この日創刊の雑誌「アクションコミックス」でデビュー(1938)
 ○ 日本国有鉄道、日本専売公社発足(1949)
 ○ JIS(日本工業規格)の基本となる工業標準化法公布(1949)
 ○ 人権擁護委員会法が施行(1949)
 ○ 郵政省・電気通信省・地方自治庁・総理府等各設置(1949)
 ○ 電波法・放送法施行(1950)
 ○ 一円硬貨発行(1951)
 ○ 大阪で初のワンマンカー運転(1951)
 ○ 三菱重工業発足(1964)
 ○ 若葉マーク、登場(1972)
 ○ マイルドセブン発売(1977)
 ○ 東京地方で天気の「確率予報」開始(1980)
 ○ 男女雇用機会均等法公布(1985)
 ○ 上野動物園のパンダ「ホアンホアン」人工受精で出産。12月に「トントン(童童)」と命名(1986)

衣更え(更衣・衣替え)
気候に合わせて、衣服を夏服に替える日。
平安時代から始った習慣で、当時は中国の風習にならって4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣」と言った。
しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣といい、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず「衣替え」と言うようになった。
江戸時代ごろから、衣替えは6月1日と10月1日に行うようになり、明治以降の官庁・企業等もそれに従っている。

気象記念日
1875年(明治8年)のこの日、東京・赤坂の葵町に日本で最初の気象台が設立されたのを記念。

写真の日
1841年のこの日、上野俊之丞が薩摩藩主の島津斉彬を日本で初めて撮影したとされる。写真の日制定委員会が1951年(昭和26年)制定。

真珠の日
社団法人日本真珠振興会が発足2年後の1965年(昭和40年)から真珠のPRのために実施。真珠が6月の誕生石となっているため、6月1日が制定された。

人権擁護委員の日
1949年(昭和24年)のこの日、前年に設けられた人権擁護委員制度が人権擁護委員法によって施行された。これを記念して全国人権擁護委員連合会が制定。
1982年(昭和57年)より開始。

氷の日
江戸時代、旧暦の6月1日に加賀藩が将軍家に氷を献上し、「氷室の日」として祝っていたことにちなんで日本冷凍事業協会が制定。

万国郵便連合再加盟記念日
1948年(昭和23年)のこの日、日本が万国郵便連合(UPU)に再加盟した。
万国郵便連合ができたのは1874年(明治7年)で、日本は1877年(明治10年)に独立国としては世界で23番目、アジアでは最初に加盟したが戦前に脱退している。

NHK国際放送記念日
1935年(昭和10年)のこの日、NHKラジオが北米西部とハワイに向けて海外放送を開始した。

電波の日
郵政省(現在の総務省)が1951(昭和26)年に制定。
1950(昭和25)年、電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が施行され、電波が一般に開放された。

ねじの日
1949年(昭和24年)のこの日、JISの基本法である工業標準化法が公布されたことにちなみ、また業界におけるねじ製品の社会的責任と義務についての認識を深め、貢献度をPRすることを目的に東京鋲螺協同組合が提唱し、1976年(昭和51年)にねじ商工連盟が制定した。

チーズの日
「写真の日」であることから、写真をとる時のかけ声「はいチーズ」にかけて制定された。
11月11日のチーズの日とは無関係。

マリリン・モンローの日
1926年(昭和元年)のこの日、マリリン・モンローがロサンゼルスで生まれたことを記念して。
ロサンゼルス市とハリウッド商工会議所が1992年(平成4年)に制定。

TUBEの日
アメリカ合衆国・ハワイ州が2000(平成12)年に制定。日本の音楽バンドTUBEがデビュー15周年を迎えるこの日に、オアフ島のアロハスタジアムで日本人初のコンサートを行うことを記念して制定。

チューインガムの日
平安時代、この日に餅などの固いものを食べて「歯固め」する風習があり、これにちなんで1994年(平成6年)、日本チューインガム協会が制定。

バッジの日
徽章工学学会が1993年(平成5年)に「気象記念日」の「気象」と「徽章」をひっかけて制定。

梅の日
1987年(昭和62年)のこの日、大阪摂津市の財団法人梅研究会が梅の良さを知ってもらおうと制定。
6月が青梅が出回る時期で、梅の実が熟す最初の日が6月1日と言うことに由来する。

麦茶の日
夏に向けて麦茶をPRするため、全国麦茶工業協同組合が制定。
麦茶の原料となる大麦の収穫時期にも当たり、衣がえの日で夏を感じさせるところから。

防災用品点検の日
季節の変わり目となる日を選び、年4回防災用品の点検を行い災害に備えようと、防災アドバイザーの山村武彦氏が提唱した日。

スーパーマンの日
1938(昭和13)年、この日創刊した雑誌『アクション・コミックス』で、アメリカの人気ヒーロー・スーパーマンがデビューした。

自治権記念日(ケニア)

独立記念日(サモア)

六一国際児童節(中華人民共和国)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


写真の日
昭和26年制定です。
天保12年(1841)のこの日、薩摩藩の御用商人・上野俊之丞がフランスで発明されたばかりのカメラを輸入して島津斉彬を撮影したとため、とされたのですが、その後の研究でこれは実際にはもう少し後だったとされています。

現在の所日本で最初に写真に写ったのは嘉永4年(1851)嵐にあってアメリカの船に助けられ船上で写真を撮ってもらった栄力丸の3人の乗組員、こめぞう・しんぱち・いわぞうの三人とされ、その内のしんぱちは後に「サム・パッチ」の名前でペリーの艦隊の水夫になっています。
この写真は現在川崎市民ミュージアムと横浜美術館にあります。

カメラの発明者はフランス人の画家ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)とニエプス(Nicephore Niepce,1765-1833)です。
ダゲールはある日丘の上で夕暮れの絵を描いていて、ふとこの夕暮れの情景をそのままの姿で残すことができないものだろうかと考えました。
彼はニエプスとともに色々な研究をした結果、まず1822年ジオラマを発明、1826年にヘリオグラフィーを発明、更に1839年銀板写真を発明しました。
この銀板写真をもって一般にはカメラの発明とし、発明者の名前をとってダゲレオタイプとも呼ばれます。
現在パリにこの初期の銀板写真が残されており、一番古いものはまだこの技術が公表される前の1837年のものです。

同じ頃イギリスのタルボット(William Fox Tarbot,1800-1877)は「フォトジェニックドローイング」という同様の写真術を開発していました。
結果的にはここから「フォトグラフ」の名称が出ています。
タルボットはメソポタミアの楔型文字の解読者としても有名です。

1880年にアメリカのジョージ・イーストマン(1854-1932)は1880年画期的な乾板フィルムを発明しました。
彼はこの年「コダック」を設立し、更に1885年このフィルムをロール状にしてホルダの中に巻いて収納する方式を考案、この機構を採用した新型カメラを1888年に発売して『あなたはシャッターを押すだけ、後は当社にお任せください』というキャッチフレーズで大々的に売り出しました。

このロールフィルムに注目した発明王エジソンはこれに連続した写真を写して続けて見せることによって動画を作ることができることに気が付き、1891年映写機(キネトスコープ)を発明しました。
このエジソンの映写機は箱の中をのぞく方式でしたがこれをフランスのリュミエール兄弟(Louis Lumiere,1864-1948 August Lumiere,1862-1954)が改良、スクリーンに投影する方式を考えて1895年、映画(シネマトグラフ)を発明しました。

日本で最初に国産カメラを作ったのは小西本店(後の小西六、現コニカ)です。
1903年のことで「チェリー手提暗函(てさげあんばこ)」という名前でした。
そして日露戦争が終わると戦勝の景気にのってこのカメラがどんどん売れ出します。
しかし高級品を求める人たちはドイツのライカを買っていました。
ライカは1819年まだダゲールの銀板写真ができる前から活動をしていた老舗です。

そのライカは1925年それまでのカメラをもっと小さくし、35mm大のフィルムを採用した小型カメラを発明しました。
これによってカメラは機動性がよくなります。
その頃同じドイツで蛇腹型のスプリングカメラも作られました。(メーカーは不明。)
このカメラはライカの半分以下の値段で買えたため庶民に人気がありました。

国内では1928年には田嶋一雄の「日独写真機商店」(現ミノルタ)が創業、翌年第1号機の「ニフカレッテ」を発売しています。

1934年には「朝日カメラ」に次のような大胆な公告が載りました。
『潜水艦ハ伊号。飛行機ハ九二式。カメラハKWANON。皆世界一』

公告を出したのは精機光学研究所。
カメラを開発したのは吉田五郎(l900-l993)。
吉田は自分が信仰する観音菩薩の名前をこのカメラにつけました。
カメラの量産には日本工学(現ニコン)も協力しましたが、この「カンノン」は実際に販売される段階になりますと吉田の義弟の内田三郎の意見を入れ、言葉を少しなまらせて「キャノン」に変更されました。
観音菩薩が聖典に変身した訳です。

1935年にはコダックがまた新しい技術を開発します。
カラーフィルムでした。
これは色の三原色に対応した3つの層を持つフィルムで更に三原色に対応した印画紙にプリントするとカラーの写真が撮れるという画期的なものです。
これでやっと写真はダゲールが思い描いていた「景色をそのまま残せる」ものになります。

そして1937年、今度はエドゥイン・ランドがまたまた画期的な技術「ポラロイド・カメラ」を発明しました。
彼は休みの日に家族の写真をとってやっていた時、娘から「今とった写真をすぐ見たい」とせがまれ、それがきっかけでインスタントカメラを考案したのだそうです。
このカメラの実際の発売は1948年にずれこんでいます。

戦争が終わって日本のカメラメーカーはどこも活気に満ちていました。
人々は貧しい中にも開放感からカメラを買いました。
また輸出用としてもカメラはずいぶん生産されました。

そんな中に当時としては先進的な一眼レフ機構を採用したカメラを大々的に売り出した会社がありました。
萩本商会です。
しかし当時まだ人々は一眼レフのカメラの必要性を認識していませんでした。
ごく普通の二眼のカメラだけが売れ、一眼レフは売れず萩本商会は倒産。
社長一家は家族離散してしまいます。
その一家の息子が後にコメディアンとなる萩本欽一です。

一眼レフが売れ出したのは昭和30年代に入ってからでした。
そしてカメラの技術は更に進歩していきます。

1970年代に入って自動露出カメラが出始めます。
それまではみんな露出と絞りを手作業で調整していましたがこれにより飛躍的にカメラは扱いやすくなり、全くの素人でも写せるものになります。
さらに1982年にはコンパクトカメラが登場。
まさに「シャッターを押すだけ」の世界が到来しました。

カメラというものに対する価値をガラリと変えたのは1986年に登場した使い捨てカメラでした。
フジフィルムの《レンズ付きフィルム》「写ルンです」は、その軽快なネーミングも受けて急速に普及します。
むろん使い捨てという通称とは裏腹に実際にはこのカメラの部品は全てリサイクルされまた新しいカメラに使用される仕組みになっていましたので決して1960-1970年代のような使い捨て文化に属する商品ではありませんでした。

そして、1995年カシオが発売した画期的に安価なデジタルカメラ QV-10 は日本列島を激震させます。
次々と色々なメーカーが同種のカメラを発売、改良に改良が重ねられ、現在では通常のコンパクトカメラと比べても全く遜色のない写真が撮れるものも出て来ています。
当初は一度に撮影できる枚数の問題もありましたがこれもスマートメディアやメモリースティックなどの登場で解決されました。

また一方では1996年従来通りの銀式の写真とデジタル技術を統合したAPSが登場、メーカーは「アナログ写真とデジダル写真の中間を行くもの」と歌って売り込みましたが、その通り中間的存在にすぎないかも知れません。





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