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7月 7日 七夕、乾めんデー(全国乾麺協同組合連合会1982)
     ゆかたの日(日本ゆかた連合会1981)、竹・筍の日(日本竹産業連合会1986)
     ギフトの日(全日本ギフト用品協会)、乾めんの日(全国乾麺協同組合連合会)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ツユクサ      尊敬               ○
アカスグリ     予想               ○
アベリア      謙譲               ○
クチナシ      とてもうれしい・幸福者
          私はあまりにも幸せです・喜びを運ぶ
          清潔・清浄・夢中・優雅      ○
フサスグリ     珍しさ・目新しい         ×

∞…∞ 7月 7日・今日という日 ∞…∞

菅野梨沙子   (1994)  タレント
東海孝之助  (1988)  俳優
カッタ君   (1985)  モモイロペリカン
原田夏希   (1984)  タレント
Keiji (菅野浩司)   (1983)  Kids Alive、G.
黒澤 優   (1982)  モデル、女優
中西百重   (1980)  プロレス
ミシェル・クワン   (1980)  フィギュアスケート
石本沙織   (1980)  アナウンサー
Misia   (1978)  歌手
林 弘典   (1977)  アナウンサー
星野マヤ   (1977)  俳優
河本香織   (1974)  アナウンサー
高屋奈月   (1973)  漫画家 「フルーツバスケット」
植田朝日   (1973)  サッカー日本代表サポーター、La Bombonera経営
星 奈々   (1972)  タレント
万永貴司   (1972)  野球
NAO   (1970)  元BY-SEXUAL、Dr.
菊原志郎   (1969)  サッカー
河原雅彦   (1969)  脚本家、演出家
大浦理子   (1969)  タレント
青山知可子   (1968)  女優
西山秀二   (1967)  野球
大翔山直樹   (1966)  相撲
岩間さおり (岩間沙織)   (1965)  タレント、元セイント・フォー
堤 真一   (1964)  俳優
藤島康介   (1964)  漫画家 「あぁ女神さまっ」
天祭揚子   (1964)  女優
百瀬まなみ   (1964)  タレント
鬼怒無月   (1964)  ギタリスト
藤井康雄   (1962)  野球
ナンシー関   (1962)  コラムニスト、消しゴム版画
王様   (1960)  歌手
横山 剣   (1960)  クレイジーケンバンド、Vo.
ダン・グラッデン   (1957)  野球
岩崎康雄 (ミンキー・ヤス)   (?)  ラジオパーソナリティ
研ナオコ   (1953)  歌手、タレント
上田正樹   (1949)  歌手
西村眞吾   (1948)  政治家
葉 祥明   (1946)  絵本作家、画家
池澤夏樹   (1945)  作家
青江三奈   (1945)  歌手
木俣達彦   (1944)  野球
結城美栄子   (1943)  女優
クニ河内   (1942)  作曲家、歌手
島田順子   (1941)  ファッションデザイナー
リンゴ・スター   (1940)  ビートルズ、Dr.
塩野七生   (1937)  作家
ピエール・カルダン   (1922)  ファッションデザイナー
安東次男   (1918)  詩人
近江俊郎   (1918)  歌手、作曲家
芦原義信   (1918)  建築家
伊藤久男   (1910)  歌手
松本幸四郎 (八代目)   (1910)  歌舞伎役者
サチェル・ペイジ   (1906)  野球
高木東六   (1902)  作曲家
栗林忠道   (1891)  軍人
マルク・シャガール   (1877)  画家
グスタフ・マーラー   (1860)  音楽家
織田秀行   (1697)  大名
陸奥宗光   (1844)  政治家
筒井順興   (1493)  戦国武将
仁悟法親王   (1482)  皇族

 ○ 小暑(二十四節気の一つ。本格的な暑さが始まる)
 ○ 聖武天皇が七夕の詩を作らせる(七夕の初め)(734)
 ○ 秀吉、検地を行う(1583)
 ○ 家康の琉球支配、始まる(1609)
 ○ 幕府、武家諸法度をさだめる(1615)
 ○ ドイツ人医師・シーボルト、長崎の出島に着任。5年間滞在。その間多くの日本人に医学を伝授(1823)
 ○ 華族令を定める(公侯伯子男の5爵)。爵位は男子の家督相続人が世襲(1884)
 ○ アメリカ合衆国、ハワイを併合(1898)
 ○ 日本軍、樺太上陸(1905)
 ○ アーサー・コナン・ドイル没。73歳(1930)
 ○ 廬溝橋事件。日中戦争の発端(1937)
 ○ サイパン島の日本軍守備隊3万人が玉砕する。一般住民の死者も1万人(1944)
 ○ アメリカのメイマン、レーザーを発見(1960)
 ○ ヴィヴィアン・リーが肺結核で没。53歳(1967)
 ○ 第8回参院選でタレント議員(石原慎太郎、青島幸男、横山ノックなど)当選(1968)
 ○ 新潟の病院でわが国初のエイズ患者と発表(1984)
 ○ 旧西ドイツのボリス・ベッカー、ウィンブルドンで最年少チャンピオンに(1985)
 ○ 東京・目黒で中2の少年が両親・祖母殺し(1988)

七夕(七夕の節句)
旧暦の7月15日の夜に戻って来る祖先の霊に着せる衣服を機織して棚に置いておく習慣があり、棚に機で織った衣服を備えることから「棚機」という。
仏教が伝来すると、7月15日は仏教上の行事「盂蘭盆(盆)」となり、棚機は盆の準備をする日ということになって7月7日に繰り上げられました。
これに中国から伝わった織女・牽牛の伝説が結び附けられ、天の川を隔てた織姫(織女星、こと座のベガ)と彦星(牽牛星、わし座のアルタイル)が年に一度の再会を許される日と言われる。

日華事変勃発記念日
1937年(昭和12年)のこの日、北京近郊の蘆溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、「日華事変」が勃発した。

川の日
建設省(現在の国土交通省)が、近代河川制度100周年にあたる1996年(平成8年)にに制定。七夕伝説の「天の川」のイメージがあり、7月は「河川愛護月間」であることから。

カルピスの日
1919年(大正8年)、ラクトー(現在のカルピス)が乳酸菌飲料のカルピスを発売したことによる。開発者は三島海雲。

世界遺産の日(和歌山県)
和歌山県の「世界遺産条例」(2005/3制定)で定められた記念日。
2004年のこの日に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録されたことを記念したもの。

協同組合の国際デー(7月第1土曜日)

ゆかたの日
日本ゆかた連合会が1981(昭和56)年に制定。
七夕の日、女の子は色の附いた糸を結び、7本の針と瓜を供え、裁縫の上達を祈り、衣類に感謝していたという中国の故事に因み、ゆかたの美しさを見直し親しんでもらおうとの考えから作られた。

サマー・ラバーズ・デー
新宿のデパートがギフト商戦のPRのために、「ギフトの日」を意中の人にプレゼントする日として制定。

ギフトの日
全日本ギフト用品協会が1987年(昭和62年)に社団法人化されたことを記念して制定。
この日が選ばれたのは、7月7日には牽牛と織女が天の川で年に一度出会う日ということから。

スリーセブンデー
日本遊技機工業組合が1995年(平成7年)に制定。

ポニーテールの日
1995年(平成7年)に日本ポニーテール協会が制定。
健康的でさわやかで、女性らしさをアピールできる髪型のポニーテールは浴衣に似合うなどの理由からこの日に。

ラブ・スターズ・デー
東京の銀座と有楽町のデパート7店が1988年(昭和63年)に七夕の日を「ラブ・スターズ・デー」と命名して共同宣伝をした。

乾めんの日
七夕の日にはアマの川に見立てたそうめんを食べる習慣が古くからあったとされることから、全国乾麺協同組合連合会が1982年(昭和57年)に制定。

香りの日
全国化粧品小売協同組合連合会中部ブロックが1991年(平成3年)に、七夕にちなんで「化粧品を買ってプレゼントしよう」と販売促進のために提唱した。

竹・たけのこの日
竹取物語のかぐや姫が生まれたのは7月7日との説から1986年(昭和61年)に全日本竹産業連合会が制定。

冷やし中華の日
この日は二十四節気のひとつ小暑となることが多く、夏らしい暑さが始まるとされる。
そこで、清涼感のある冷やし中華を食べて夏にそなえようと、冷やし中華の愛好家、料理人などが制定したもの。

サマーバレンタインデー
サマーバレンタイン実行委員会が1986(昭和61)年に制定。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


香りの日(7.7)
7月7日は七夕にちなんで香りの日です。全国化粧品小売協同組合連合会中部ブロックが1991年に制定しました。

香り製品とひとことに言ってもだいたい下記に分類できるかと思います。
(1) 香水
(2) パルフュム
(3) トワレ
(4) コロン
(5) エッセンシャルオイル
(6) お香

(1)-(4)は化粧品として販売されているもので、この区分はエッセンスの濃度でだいたい分類されます。
25〜15%で香水、15〜10%でパルフュム、10〜5%でトワレ、5〜3%でコロンです。香水は濃いので匂いも強く、持続時間もかなりあります。
肌に直接付けると良くない場合もあり、その場合はランジェリーを付けてから噴霧するのがお勧め。
コロンになると弱いので気軽に使うことができ、入浴後や汗をかいたあとなどに付けるとさっぱりして気持ちいい
ものです。

エッセンシャルオイルというのは花などから抽出した香りを強く含む物質で、香水の素材のひとつです。(香水は天然素材のものと合成素材のものをブレンドしている)最近アロマテラピーの普及で使用する人が増えました。

お香りは火を付けて香りを楽しむもので、線香と円錐状のコーンが代表的。
お寺や家庭の仏檀などで焚く線香も元々はこの香りによって虫除けをするためのものでした。

(線香は虫除け効果があるが、香水は逆に花の香りと誤って蜂などが来る場合があるので、山道などを歩く時には香水の類は絶対に付けてはいけない)

辻真先氏は「世にも香しい殺人」の中で香りに関する多数の蘊蓄を披露していますが、蘭奢待(らんじゃたい)という香木についても触れています。
これは東大寺の正倉院に収められている古い香木ですが、この「蘭奢待」という文字の中に「東大寺」という文字が隠れているという言葉遊びが入っていま
す。
この蘭奢待には辻氏も書いているように足利義政・織田信長・明治天皇が一部を切り取った跡が付いているのですが、実際には他に足利義満と足利義教も少し切り取っているそうです。


ゆかたの日(7.7)
七夕にちなんだ記念日です。
七夕と書いて「たなばた」と読んでいますが、本来は七夕は「しちせき」と読むのが正しく「たなばた」は「棚機」。
織物に関するお祭りです。
「しちせき」は中国から来たお祭りで時期的にかさなるため現在では両者が合体してしまっています。

「ゆかたの日」も織物のお祭りの日だからということで日本ゆかた連合会が1981年に制定したものです。

ゆかたは漢字では「浴衣」と書きますが、その漢字からも想像できるように元々はお風呂に入る時の服です。
平安時代にこれを着て蒸し風呂に入っていたのが、後に夕方の外出着として定着していったもの。

概して衣服の歴史というのはインナーがアウターに進化していくことが多いのです。
「ゆかた」という言葉も元々は「湯帷子(ゆかたびら)」が略されたものです。

近年では和服を着れない人が増えている中、浴衣だけは簡単に着れることから人気が高く、特に夏の時期は花火大会や縁日などに浴衣を着て出かける人は多く、特に女性用の可愛い柄の浴衣は帯と草履とうちわとのセットで4000円〜2万円程度のものが多く店頭に並んでいるため、気軽に買えるということもあり、所有率もかなり高いものと思われます。
近年は丈の短いミニゆかたもその可愛いさでヒットしました。

なお、ゆかたと似たものにじんべい(甚平)がありますが、帯で留めるものがゆかたで、帯を使わず紐で留めてしまうのが、じんべいです。


相撲の起源
垂仁天皇7年(360年頃か)7月7日、「当麻邑に当麻蹶速(たぎまのくえはや)という者が天下に自分より強い者はいないだろう。
もしいたら生死を問わず力比べをしたい」と言っておりますと奏上する者がありました。

そこで天皇が群臣に他に力自慢の者はいないかと訊ねられたところ、出雲に野見宿禰(のみのすくね)というものがおりますという答えがありました。
そこで早速両者が呼び出されて試合をすることになりました。
これが一般に「相撲」の起源とされています。

もっともこの時の決闘というのはデスマッチです。
片方が死ぬまでやった訳で、結果はご存じのように野見宿禰の勝ち。
当麻蹶速はアバラ骨をボキボキ折られて死亡しました。
そして当麻蹶速の土地は召し上げられて野見宿禰に与えられます。
そして野見宿禰はそのまま天皇のもとにお仕えすることになりました。

なお、当時は「日本を作った」権力者・日子坐(ひこいます)が絶対的権限を持ち大和朝廷が福島県から瀬戸内海沿岸に至るまでの地域をその支配下に収めることに成功した時期です。
倭姫により伊勢神宮の祭祀も始まっています。

垂仁天皇の皇后は日子坐の孫娘(道主-みちのうし-の娘)の日葉酢(ひばす)姫ですが、やがて皇后が亡くなります。この時、その直前に亡くなった天皇の叔父の倭彦(大彦の子)の葬儀の時は近習を生きたまま墓に埋めるということ
を行い、彼らが苦しんでいる声が何日も聞こえたということがあり、あれはもうやめようという話になります。
そのとき野見宿禰が近習たちの代わりに人形を焼き、それを埋めましょうという提案をしました。

この提案はひじょうにいいアイデアだということで採用になりこれをその後「埴輪(はにわ)」と呼ぶようになりました。

この一連のエピソードというのは、その頃はまだ完全に大和朝廷の勢力下にあったわけではなく協力国的な地位にあったと思われる吉備・出雲文化圏がよりいっそう大和朝廷と緊密になっていく過程を象徴するエピソードなので
しょう。
埴輪の文化は中国大陸の文化を知っていた出雲の技術者(野見宿禰)が日本に教えたものと考えられます。
崇神・垂仁朝の時期というのは大和朝廷が単に一地方の政権ではなく日本全体を伺う大政権に変貌した時期なので
葬儀のあり方についても、中国の大王朝に倣おうとしたのではないかとも思われます。

ですから実際にその直前に生埋め事件があったのかは若干疑問。
中国でそういう話があったという野見宿禰の説明が後に、実際に日本でもそういうことが起きたという話にいつのまにか変わったのかも知れません。
当時の天皇の権力はかなり強力になってきつつあるといっても、これほどムチャが許されるほどの権力ではなかったようにも思われます。

なお、野見宿禰の子孫はこの埴輪を焼く作業に関わったため「土師(はじ)」の姓を賜ります。
土師氏も古代有力氏族のひとつです(今でも土師さんはたくさんいますが)。
そして菅原道真らを輩出した学問の家・菅原家もこの土師の一系統です。
このため天神社に野見宿禰がいっしょにお祀りされている例も見かけます。





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