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7月 8日 質屋の日(各地の質屋組合)、米の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
アマリリス    おしゃべり・誇り・素敵・内気の美しさ○
グァバ       強健               ○
ハス        沈着・休養・雄弁・離れる愛    ×
カンパニュラ(フウリンソウ ツリガネ草 ベルフラワー)
          感謝・大望・抱負・不変・貞節・誠実
          思いを告げる・後悔・うるさい   ○
ミヤコ草      また逢う日まで          ○

∞…∞ 7月 8日・今日という日 ∞…∞

鈴木繭菓   (1981)  女優
鈴木啓太   (1981)  サッカー
肖田シロ   (1973)  タレント、モジモジハンター
谷原章介   (1972)  俳優
なるみ   (1972)  タレント、元トゥナイト
千葉貴俊   (1971)  3B LAB.☆、Bass
小城錦康年   (1971)  相撲
西 靖   (1971)  アナウンサー
Beck   (1970)  ミュージシャン
安永亜衣   (1969)  女優
SUGIZO   (1969)  元LUNA SEA、G.
宮内敦士   (1969)  俳優
マイケル・ウェザリー   (1968)  俳優
ジョン・デーヴィソン・ロックフェラー   (1966)  実業家、石油王
尾上千昌   (1965)  タレント、元シャワー
松田圭司   (1964)  俳優
桜沢エリカ   (1963)  漫画家
中川いさみ   (1962)  漫画家 「くまのプー太郎」
三谷幸喜   (1961)  脚本家
川口和久   (1959)  野球
ケビン・ベーコン   (1958)  俳優
来須修二   (1958)  ダンサー
麻生圭子   (1957)  作詞家
中村有志   (1954)  タレント
岡井大二   (1953)  四人囃子、Dr. 音楽プロデューサー
河あきら   (1950)  漫画家
キム・ダービー   (1948)  女優
元谷芙美子   (1947)  アパホテル社長
水野誠一   (1946)  政治家、西武百貨店社長
大谷昭宏   (1945)  ジャーナリスト
玉置一弥   (1944)  政治家
甲にしき   (1942)  俳優
三枝成章   (1942)  作曲家
ナンシー・シナトラ   (1940)  歌手
金子正明   (1940)  レスリング
永島慎二   (1937)  漫画家
ヒロ・マツダ   (1937)  プロレス
東山魁夷   (1908)  画家
杉 狂児   (1903)  俳優
中田 章   (1886)  作曲家
尚泰   (1843)  琉球王朝最後の国王 ※1841年生まれ説も有り
フェルディナンド・ツェッペリン   (1838)  航空工学者
若林強斎   (1679)  儒学者

 ○ 前年に起きた農民の一揆に脅威を感じた秀吉、刀狩りを発布(1588)
 ○ ポルトガルの探検家のダ・ガマ、アフリカ大陸最南端の希望峰を回るルートを発見すべくリスボンを出航(1497)
 ○ 最初の生命保険会社、明治生命保険会社設立(1881)
 ○ 東京美術学校に西洋画科が設置される(1896)
 ○ イラクのバスラで世界最高気温58.8℃を記録(1921)
 ○ 文部省、「非常時と国民の覚悟」を学校に配布(1933)
 ○ 熊本県で、数十年ぶりの干ばつ(1934)
 ○ ウィンブルドンで日・英人組、優勝(1934)
 ○ プロ野球ナイター実況を初めて中継。東京後楽園球場(1950)
 ○ マッカーサー元帥、警察予備隊創設・海上保安庁増員を指令(1950)
 ○ 羽田空港に初めてジェット旅客機コメット号(英)着陸(1952)
 ○ 労働省が「売春白書」を発表。売春婦は全国で50万人と推計(1955)
 ○ 金日成北朝鮮主席死去(1994)
 ○ 向井千秋さんが乗るスペースシャトル「コロンビア」打ち上げ成功(1994)

外務省開庁記念日
1959年(昭和34年)から記念日。1869年(明治2年)に明治新政府が外務省を創設した。
外務省は、外交政策・通商航海・外交使節・条約などの対外関係の事務を行なう。

財務省開庁記念日
1869年(明治2)年、明治新政府が財務省の前身・大蔵省を創設した。
2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編で財務省に名称を変更した。

質屋の日
7月8日の語呂合せから、全国質屋組合連合会が制定。
「安心のおつきあい」をキャッチフレーズにPRを行っている。

那覇の日
ラジオ沖縄の人気番組「那覇が好き」のリスナーグループ「那覇が好き友の会」が制定した日。
那覇を愛する人々が心をひとつにして手づくりのまちおこしを考える日で、日付けは「ナ」「ハ」の語呂合わせから。

ナンパの日
マガジンハウス発行のポパイ誌が1991年発行の6月19日号で提唱。
「7」と「8」の語呂合わせによる。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


質屋の日(7.8)
7月8日は語呂合わせで質屋の日です。
質屋の商売の基本は庶民から担保の品物を預かって、それをもとに一定期限の間お金を貸し、期日までに返却されない場合はその品物を処分する(「流す」という)というもので、サラ金と違って借りたお金が複利で膨れあがったりしないので、庶民には優しい商売です。

質屋が生まれたのは貨幣経済が発達した鎌倉時代頃と推定されています。
三越の事実上の創業者である三井高利も質屋を営んでいた時代があります。
かつて質屋のことを「いちろく銀行」と言う隠語が存在したのですが、1+6=7という言葉遊びです。

ただ現在では「使い捨て文化」のために長期間使用できる家庭用品が少なくなり、質屋に質に入れられるような価値のあるものを持っている家庭も減って、かつて担保の品(「質草(しちぐさ)」という)の代表といわれた時計・宝石・呉服にしても、時計は安物が多くて質草の価値がなく、宝石は精巧な合成宝石があってよほど鑑定眼のある質屋さんでなければ扱えないこと、そして呉服はそもそも持っている人がいなくなってしまったことから、質屋は庶民から少し遠い存在になってしまいました。
ブランドもののバッグや美術品などを持ち込んでくる客はいますが、その場合ほとんどが最初から「買い取り」を希望することが多いようです。
このため、質屋さんが別店舗でリサイクルショップも経営しているというケースもよくあり、あるいは今後はそういう方向性に進んでいってしまうのかも知れません。

お金を貸す時には担保を取る方式のほうが、悲劇を生みにくいので、ほんとうは質屋さんには頑張って欲しいし、借りたい人も、サラ金に行くなら質草が流れてしまうのは覚悟で質屋さんに行ったほうがいいと思います。


浅間山噴火(1783)
天明3年(1783)7月8日、浅間山(場所は群馬県と長野県の県境です)が大爆発を起こし、火砕流により多数の死者が出ました。
この噴火の際の死者の数は資料によりかなり幅がありますが500人から20000人ということです。
(理科年表では1151人)

リゾート地・軽井沢の北西にそびえる浅間山(2568m)は、記録に残るもっとも古い噴火685年から現在まで絶えず火山活動を続け、何度も大きな被害を出す噴火を繰り返しています。
中でも特に被害の大きかったのがこの年と1596年の2回の噴火です。

この「あさま」というのは、青森の浅虫、伊豆の熱海、九州の阿蘇などと同語源で、火山のこととされます。
この浅間山をご神体とする浅間神社の御祭神は岩長姫(いわながひめ)で、富士山をご神体とする浅間神社の御祭神・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の姉にあたります。

今から180万年ほど前(と日本書紀に書いてある。つまり新生代第四紀が始まる頃。つまりほんとに人類という種が生まれた頃)、天から邇邇芸命(ににぎのみこと)という神様が降りてきて、日本の国の主になった時、木花咲耶
姫と出会い見初めて結婚したいといいます。
すると姫のお父さんの大山祇神(おおやまずみのかみ)は天の御子様でしたら姉の方も一緒にあげましょうと言って、岩長姫も付けて嫁にやりました。

しかし岩長姫の方は妹ほどきれいでなかったので、邇邇芸命はお姉さんの方はいいです、といって返してしまいます。
すると大山祇神の神は残念そうにいいました。
「岩長姫も一緒に娶っていればあなたの子孫の人間たちは岩のように長い寿命を持つようになったでしょうに、木花咲耶姫だけでしたら、花のように短い寿命になってしまいます」と。
人間が数十年で老いて死んでしまうようになったのはこのためなのだそうです。


東山魁夷(1908-1999)
現代の最高の日本画家の一人、東山魁夷(ひがしやまかいい,本名東山新吉)は1908年7月8日横浜市に生まれました。
少年時代を神戸で過ごした後、東京美術学校の日本画科に入り、在学中に「山国の秋」が帝展に入選。
画家として幸運なスタートを切ります。
卒業後更に研究科に進んで結城素明の指導を受け、ドイツに留学。
ベルリン大学で学びつつ、時間をとってはイタリア、スイス、イギリス、フランスなども訪れました。

1935年帰国。
1940年に日本画家川崎小虎の娘・すみと結婚。
1947年に「残照」(現在、東京国立近代美術館蔵)が日展で特選をとり、これが彼の出世作となりました。

高い山の上から見た、どこまでも続く山並み。
その遙か向こうの山にだけ夕日の明るさが残っている。
何気なく見るとそのまま見過ごしてしまうほど自然な絵でかつ、ちょっと足を止めて見ると吸い込まれるような静かな魅力を持っています。
それは無言のそしてきどったり緊張したりしない、自然との共存する対話なのです。

続いて1950年の日展では「道」を出品。
彼のこの静かな路線が確立しました。
1956年「黄昏」に日本芸術院賞が贈られ、1965年には日本芸術院会員。
そして日展理事(1974日展理事長)。
1961年には最初の回顧展が開かれています。
1969年文化勲章受章。

彼の名前があがると共に、大きな依頼も入ってくるようになりました。
1968年には皇居の新宮殿の壁画(夜明けの潮)を制作。
1975年には唐招提寺御影堂の壁画(山雲・濤声)を描いています(唐招提寺ではその後も数点の作品を制作)。

彼の名前は日本国内のみならずヨーロッパでも通るようになり、特にドイツからは1976年に功労大十字勲章をもらい、1984年にはプール・ル・メリット会員に選ばれています。
1998年の長野五輪の際も会期に合わせて長野で「人と自然そして祈り展」を開催しました。

なお東山にとって長野はもともと色々縁のある所で、1987年には自宅にあった作品約700点を長野県に寄贈。
長野県では信濃美術館に東山魁夷館を増設して、ここで2ヶ月単位で作品を入れ替えながら、寄贈された絵画や資料の展示を行っています。

1999年5月6日20時老衰のため東京都内にて死去。享年90歳。





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