戻る ▲トップページ

7月18日 光化学スモッグの日、頭髪の日(全国理容連)(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ケシ(白)     眠り・忘却            ×
バーベナ      家族の和合・家族愛・柔和
          魔力・魅惑する・魅了する     ○
バラ(モスローズ) 愛の告白・尊敬・崇拝・可憐    ○
マリゴールド    嫉妬・悲哀・勇者・悪を挫く    ○

∞…∞ 7月18日・今日という日 ∞…∞

YUCALI   (1987)  HALCALI
広末涼子   (1980)  女優、タレント
かな   (1978)  dicot
青木まな   (1977)  アナウンサー
福井利佐   (1975)  切り絵作家
大倉孝二   (1974)  俳優
石堂夏央   (1973)  女優
種田 仁   (1971)  野球
水谷麻里   (1971)  タレント
ザ・グレート・サスケ   (1969)  プロレス
西村龍次   (1968)  野球
ANI   (1967)  スチャダラパー
マイク・グリーンウェル   (1963)  野球
板尾創路   (1963)  タレント、130R
浜田麻里   (1962)  歌手
森野熊八   (1962)  料理研究家
中西保志   (1961)  歌手
松原のぶえ   (1961)  歌手
ニック・ファルド   (1957)  ゴルフ
天満淳子   (1955)  バイオリニスト
白井貴子   (1952)  バレーボール
末田正雄   (1951)  アナウンサー
矢作俊彦   (1950)  作家
北原ミレイ   (1949)  歌手
高井研一郎   (1937)  漫画家 「総務部総務課山口六平太」
久保晴生   (1936)  アナウンサー
草柳大蔵   (1924)  評論家
ジョン・グレン   (1921)  宇宙飛行士、政治家
ネルソン・マンデラ   (1918)  南アフリカ大統領
坂田道太   (1916)  政治家
二葉あき子   (1915)  歌手
木戸幸一   (1889)  政治家
川上貞奴   (1871)  俳優
内藤湖南   (1866)  歴史学者
ウィリアム・サッカレー   (1811)  作家
後三条天皇   (1034)  天皇

 ○ 将軍頼家、修善寺で北条時政の手の者に入浴中、暗殺される。23歳(1204)
 ○ 道元、永平寺開山(1244)
 ○ 幕府が京都市内で流行している盆踊りを禁止(1505)
 ○ 15代将軍足利義昭が槙島城で織田信長に降伏し、京を追放される。240年の室町幕府が滅亡(1573)
 ○ ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航(1853)
 ○ 幕府が、日英修好通商条約・貿易章程に調印(1858)
 ○ 足袋の丸福が、福助人形のマークを商標登録する(1900)
 ○ 東条内閣が総辞職(1944)
 ○ ロサンゼルス郊外にディズニーランド開園(1955)
 ○ チャップリン来日(1961)
 ○ 山陰北陸に豪雨。死者・行方不明者128人(1964)
 ○ 杉並区の高校で生徒41人が倒れる。日本初の光化学スモッグ公害発生(1970)


光化学スモッグの日
1970年(昭和45年)に東京都杉並区で日本で最初の光化学スモッグが発生した。
被害のあった立正高校では体育授業中の生徒が突然目の痛みや頭痛などを訴えて倒れ、40数人が病院へ運ばれた。


永平寺建立(1245)
寛元3年(1245)7月18日、道元禅師が福井に永平寺(当時の名前は大仏寺)を建立しました。
それ以降750年間、ここは曹洞宗の大本山であり第一道場として、全国から多くの修行僧が集まって来ています。

道元は正治2年(1200)1月2日、京都の久我庄で生まれました。
母は摂政関白藤原(松殿)基房の娘です。
3歳で父を8歳で母を失い世の無常を感じて14歳の時比叡山に上り出家。
しかし比叡山では自分の求める物の答えは得られないとして1年後下山、三井寺に行きますがやはり駄目でした。
しかしこの時の師公胤が、臨済宗を開いた栄西を訪ねてみてはどうかと勧めます。
関心を持 った道元ですが、栄西が間もなく亡くなってしまった為、結局3年後栄西の弟子の明全の弟子になり、間もなく禅の奥義を極めたとして許状をもらいます。

こうして道元は禅にふれた訳ですが、明全から禅の奥義を極めたと言われてもまだ彼の疑問は解消されていませんでした。
明全が中国に留学することになった時、彼も一緒に連れて行ってもらいます。
24歳の時でした。
そして、会った ばかりであるというのに彼に印可を与えてしまうのです。

しかし当時の中国の仏教界は著しく堕落しており、道元は大きな失望を感じ ます。
もう帰国しようかと思っていた時、たまたま出会った旅の僧が「一度 如浄に会ってみるとよい」と言ったのを聞き天童山に赴きます。
そして如浄 の目を見た瞬間、彼はこれぞ自分の真の師であると直観しました。
そのとき 同時に如浄もこの26歳の青年を類希な大器と見抜きました。

そして道元は如浄のもとで2年間修行を積みますが、ある時「身心脱落」という境地を体験します。
(この時如浄は「身塵脱落」と言ったのを道元が聞き違え、結果的にもっとすごい境地を見ることになったという)
これは後に道元の中心思想の一つになります。

道元を連れて中国に渡った明全禅師は中国の地で倒れ帰らぬ人になりました。
彼は単身帰国してまずは京都の建仁寺に入ります。
そして幾つかの寺を渡り歩いた末、34歳で興聖寺を建て、ここで座禅を中心とした仏教の伝道を開始します。
ここに道元は10年間住み、多くの人々を教化しましたが、自然と、既存仏教と対立することになり、興聖寺は焼き討ちにあってしまいます。
このとき信者の一人波多野義重が越前の自分の領地を寄進するので来ないかと誘います。
越州となれば自分の師如浄の出身地と同じ名前。
感激した道元は越前に移り、最初幾つかの古寺に住まいした後、永平寺を建立したものです。

道元は永平寺で10年間弟子の指導と一般の人たちの教化に心血を注いだあと、建長5年8月28日、54歳で入寂しました。

曹洞宗では、日本で曹洞宗を興し永平寺を開いた道元を高祖、そのあと曹洞宗の普及に努め総持寺を開いた瑩山を太祖と称しています。
そして永平寺と総持寺を大本山とし、両山の貫首が交替で宗派代表を務めています。
曹洞宗は他の多くの仏教宗派と異なりこの2大本山を中心として単一の宗教団体になっており、単一の宗教団体としては恐らく日本最大の規模のものになっています。

(曹洞宗は瑩山が普及させたものなので、実際の曹洞宗の寺は総持寺系が圧倒的に多い。なお総持寺は元々は北陸能登にあったが、明治時代に火事で焼けたあと再建がなかなか進まなかったため、現在は神奈川県横浜市に移転している。能登の方は祖院となっている。)


福助人形商標登録(1900)
「フクスケ」はこのタイトルの通り元々は「丸福辻本商店」という名前で、その名の通り、丸に福の字のトレードマークで大阪の堺で足袋を販売していました。 ところがある時、同じ丸に福の文字マークを使っていた和歌山の丸福足袋から「そのマークはうちが昔から使っているものなので勝手に使ってもらっては困る」というクレームが入ります。

この問題は結局裁判まで行われるのですが、丸福辻本商店が敗訴。折角このマークで顧客も増えていたのにと残念がるのですが、仕方ありません。 そして何かいい代りのマークは無いものかと悩んでいたのですが、ある日、当時の若旦那・辻本豊三郎が古道具屋の店先で福助人形を見かけ突如としてこの人形を新しいマークにすることを思い付きます。

豊三郎がこの人形を買って急いで家に戻りそのことを話しますと、父の辻本福松は自ら筆をとって福助の絵を描き、特許庁に持っていってこれを商標として届けました。 そして会社名も「福助印堺足袋」と改称、この福助さんマークの足袋は全国に知られるようになりました。

この時の福助人形は現在フクスケの社宝として大事に保管されています。


憲法記念日(ウルグアイ)


大河内伝次郎忌
「丹下左膳」などで知られる映画俳優、大河内伝次郎の命日(1962)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ