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8月18日 高校野球記念日、太閤(豊臣秀吉)忌、頭髪の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ヒマワリ      光輝               ○
クコ        お互いに忘れましょう・誠実    ○
タチアオイ     大望・野心・単純な愛・熱烈な恋
          平安・威厳・高貴・豊産・野望・大志○
タチアオイ(黄)  率直・開放的           ×
トルコキキョウ(白)楽しい語らい・希望        ×
ムラサキオモト   旅行・航海            ○

∞…∞ 8月18日・今日という日 ∞…∞

細田あかり   (1986)  タレント
小此木麻里   (1986)  タレント
土谷隼人   (1979)  タレント、ななめ45°
宮出隆自   (1977)  野球
李 承Y (イ・スンヨプ)   (1976)  野球
平石直之   (1974)  アナウンサー
五城楼章明   (1973)  相撲
KEIKO   (1972)  globe、Vo.
中居正広   (1972)  タレント、SMAP
タケムラアキラ   (1971)  SNAIL RAMP、Vo.
中井祐樹   (1970)  ブラジリアン柔術
芝草宇宙   (1969)  野球
豊田康雄   (1969)  アナウンサー
清原和博   (1967)  野球
堀江しのぶ   (1965)  タレント
吉川晃司   (1965)  歌手
大谷育江   (1965)  声優
田村 勤   (1965)  野球
青木 愛   (1965)  政治家、タレント
かわのをとや   (1965)  声優
いとうまい子 (伊藤麻衣子)   (1964)  女優
高城 剛   (1964)  デジタルクリエイター
水道橋博士   (1962)  タレント、浅草キッド
ジャック・ハウエル   (1961)  野球
蜷川有紀   (1960)  女優
マデリーン・ストウ   (1958)  女優
名取裕子   (1957)  女優
キャロル・ブーケ   (1957)  モデル、女優
塩屋浩三   (1955)  声優
馬場康夫   (1954)  映画監督、ホイチョイ・プロダクション社長
内藤啓史   (1954)  アナウンサー
伊佐山ひろ子   (1952)  女優
柴田恭兵   (1951)  俳優
夏目房之助   (1950)  漫画家、コラムニスト
首藤剛志   (1949)  脚本家
望月 浩   (1947)  歌手
ロバート・レッドフォード   (1937)  俳優
林 春生   (1937)  作詞家
古賀新一   (1936)  漫画家 「エコエコアザラク」
柳沢伯夫   (1935)  政治家
ジュスト・フォンテーヌ   (1933)  サッカー
ギリヤーク尼ヶ崎   (1930)  大道芸人、舞踏家
城山三郎   (1927)  作家
マルセル・カルネ   (1906)  映画監督
石井光次郎   (1889)  政治家
松林桂月   (1876)  画家
上杉慎吾   (1878)  憲法学者
伊藤左千夫   (1864)  作家
アントニオ・サリエリ   (1750)  作曲家
最澄   (767)  僧侶

 ○ 豊臣秀吉没(太閤忌)(1598)
 ○ 明治天皇、初めて馬車に乗る(1871)
 ○ 東京市、ワシントンへ2千本の桜を寄贈(1909)
 ○ 第一回全国中等学校優勝野球大会開催(1915)
 ○ 谷崎潤一郎、細君譲渡事件(1930)
 ○ 岐阜県白川町で土砂崩れにより飛騨川にバス転落。死者104人(1968)
 ○ 米食の日(1978)
 ○ 高校野球記念日(1915)
 ○ 白バイ誕生(1936)
 ○ 雪印乳業集団食中毒事件、黄色ブドウ球菌毒素検出(2000)
 ○ JR西日本、新幹線の女性運転手2人誕生(2000)

高校野球記念日
1915年(大正4年)のこの日、第1回中等学校野球大会が開催されたことに由来。

猛暑の特異日
猛暑となる確率の高い日。

米の日
岩手県農政部農産物流通課が1998(平成10)年に制定。

同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。

太閤忌
武将・豐臣秀吉の1598(慶長3)年の忌日。


米の日(8.18)
8月18日は「米の日」。
これは「米」の字を分解すると八十八になるからです。

米は日本の主食であり、日本の農業の中心です。
大和朝廷の成立以来、朝廷も各豪族も、水田の開発に力を注いできました。
かつては米を納めることが税でした。

作物としては「稲」といい、食材としては「米」といいます。
そして食べる時は「飯(ご飯)」といいます。
このように細かく言い分けられること自体が米の重要性を語っています。

稲は単子葉網・イネ目・イネ科に属します。
イネ科の植物にはほかに下記のようなものがあります。

 ・麦(むぎ)・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)
 ・トウモロコシ(トウキビ)、サトウキビ
 ・葦(あし)・芝(しば)
 ・竹(たけ)・笹(ささ)

日本の米の起源は中国揚子江流域といわれています。
縄文時代に持ち込まれその栽培の普及がやがて弥生文化を産み出します。
当初の米は現在の赤米・
黒米のような品種であったとのことです。

元々はこの赤米で作るご飯が「赤飯」なのですが、その後赤米が入手しにくくなり、代用品として小豆を混ぜて炊く方式が普及し、赤米のことは忘れられていました。

米はその形状から日本で主に食べられている円粒状のジャポニカ種(日本米)、世界的に普及している長粒状のインディカ種(インド米)、ジャワやイタリアで栽培されている半長粒状のジャバニカ種(ジャワ米)に分けられます。

また、含まれるでんぷん質の差により、アミロペクチン100%の「もち米」と2〜3割のアミロースと7〜8割のアミロペクチンを含む「うるち米」に分けられます。

また、栽培方法により、水田で育てる水稲と、畑で育てる陸稲(おかぼ)に分けられます。
陸稲の方が病害虫に強いようですが、水稲で育てた方がおいしい米ができるため、日本国内ではほとんどの稲は水稲です。

また、世界的にインディカ種が大勢で、外国では多くの人がジャポニカ種はおいしくなく、インディカ種がおいしいと感じるのに対して、日本では逆にインディカ種はまずいとして評判が悪く、ジャポニカ種だけが売れるという現象になっています。

これは調理方法と食習慣(慣れ)の問題であろうと思われます。
インディカ種は例えばパエリヤなどにすれば結構いけますが、日本では米は「ごはん」にして食べる習慣ですので、この食べ方では粘りけのあるジャポニカ種の方がおいしくなります。
また、そもそもジャポニカ種というのはインディカ種に比べて茎が短い分だけ風水害に強く、台風と長年付き合ってきた日本ゆえに普及したものなのかも知れません。

稲は古くから様々な品種改良が行われてきました。
以前は冷害や病害虫に強い品種や収穫量の多い品種の開発に力が注がれていましたが、最近では「おいしい米」を作るための品種改良という面が強くなってきています。

特に、1956年に福井県で開発された「コシヒカリ」と、1963年に宮城県で開発された「ササニシキ」はこの分野の草分けで、その後、コシヒカリが人気になると(現在日本の米の生産量の3割を占める)、その系統に属する米が次々と開発されました。

 コシヒカリの子供:あきたこまち、ひとめぼれ、ひのひかり
 コシヒカリの孫 :はえぬき(あきたこまちの子)、ゆきの精

そのほか、一部に根強い人気のある「きらら397」や、最近人気急上昇中の「ほしのゆめ」も、コシヒカリの系列に所属しています。
「ほしのゆめ」は、きらら397の子供で、あきたこまちの孫に当たります。


8.18政変(1863)
文久3年(1863)8月18日、京都で俗に「8.18政変」と呼ばれる無血クーデターが起こりました。

当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。
彼らは長州と結び、外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと考えていましたが、当の孝明天皇はむしろ朝廷と幕府が協調していこうという公武合体派でした。
そこで孝明天皇は中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行します。

8月18日深夜1時。中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、松平容保、稲葉正邦らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。

そして、その中御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決されました。
異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会津藩の兵とにらみ合いになったまま近寄ることはできませんでした。

攘夷急進派はやむを得ずいったん長州へ退いて再起を期すことにします。
そして19日、三条実美ら七人の公家が長州へと下っていきました。(七卿都落ち)

このあと朝廷には徳川慶喜・松平春嶽・島津久光・山内豊重・伊達宗城・松平容保が集まって参頂会議を開き、これからしばらくは朝廷の主導権は公武合体派が握ります。

その後の歴史も少し追いかけておきます。

翌年長州は武力で京都に攻め入って来ました(蛤御門の変)。
しかし会津藩の兵力にはばまれて失敗。
戦闘を指揮した家老たちが切腹、参謀数人が斬首となって、やっと許されます。
しかしここで亀山社中の坂本龍馬が長州と薩摩の間を奔走して両者に劇的な連合を組ませることに成功、ここで事態が逆転しはじめます。

慶応2年、将軍徳川家茂が急逝。
孝明天皇の厚い支持のある慶喜が将軍職をつぎますが今度はその慶喜と一緒に事を進めていくはずであった孝明天皇が亡くなります。
表面上の死因は食当たりとなっていますが暗殺説が根強いようです。

天皇の地位は弱冠16歳の明治天皇がつぎ、「ええじゃないか」が全国を東海道を東進、打つ手がなくなった慶喜は大政奉還して江戸幕府はその歴史を閉じます。
そのあと起きてしまった戊辰戦争では会津藩はあまりにもひどい攻撃を受けますが、これは会津藩に恨みを持つ長州の意趣返しでした。
天皇の意向で動いていた会津藩に対してそこまでやったことは、明治政府が天皇親政ではなくその名を借りて長州薩摩幕府を意図していたことを明白にしています。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ



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