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9月18日 かいわれ大根の日(日本かいわれ協会)、頭髪の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
キンミズヒキ    感謝               ○
アザミ(赤)
   権威・触れないで・独立・厳格・復讐・満足・安心 ×
ホウセンカ     私に触れないで・心を開く     ○
リンドウ(白)   貞節・的確            ○

∞…∞ 9月18日・今日という日 ∞…∞

近野成美   (1988)  タレント
松下圭太   (1984)  野球
栗原勇蔵   (1983)  サッカー
岡あゆみ   (1983)  女優
上良早紀   (1982)  タレント
稲本潤一   (1979)  サッカー
重光絵美   (1978)  女優
河野丈洋   (1978)  GOING UNDERG ROUND、Dr.
森 薫   (1978)  漫画家 「エマ」
遠藤彰弘   (1975)  サッカー
濱田万葉   (1974)  タレント
大貫亜美   (1973)  Puffy
道元宗紀   (1972)  漫画家
川島雄輝   (1972)  漫画家
HIROSHI   (?)  CASCADE、Dr.
オジー・ティモンズ   (1970)  野球
安達直人   (1970)  俳優
瓶子和美   (1968)  キャスター
玉井伸也   (1968)  タレント、ポカスカジャン
井原正巳   (1967)  サッカー
石橋 保   (1965)  俳優
橋本武広   (1964)  野球
中井貴一   (1961)  俳優
高橋洋二   (1961)  構成作家
水野 透   (1960)  タレント、リットン調査団
うじきつよし   (1957)  タレント、俳優、元 子供ばんど
ナンシー・チェニー   (1957)  女優
小柴大造   (1956)  音楽プロデューサー、元小柴大造&エレファント、Vo.
土井隆雄   (1954)  宇宙飛行士
水森英夫   (1949)  作曲家
中谷 良   (1947)  元 ジャニーズ
高橋よしひろ   (1953)  漫画家 「銀牙-流れ星銀-」
佐藤ミツル (佐藤 満)   (1953)  四人囃子、G. Vo.
神谷 明   (1946)  声優
落合信子   (1944)  落合博満夫人
内藤 陳   (1940)  タレント、作家
森本毅郎   (1939)  アナウンサー
ビル・ロビンソン   (1939)  プロレス
小和田恒   (1932)  国連大使
ジャック・ウォーデン   (1920)  俳優
グレタ・ガルボ   (1905)  女優
シーウーサガー・ラングーラム   (1900)  政治家、モーリシャス大統領
土屋文明   (1890)  詩人
横山大観   (1868)  画家
藤島武二   (1867)  洋画家
田中館愛橋   (1856)  地球物理学者
ミシェル・フーコー   (1819)  物理学者
聖珊女王   (1721)  皇族

 ○ 料金をめぐりロイヤル・オペラ・ガーデンの聴衆が暴動(1809)
 ○ ニューヨークタイムズ創刊(1851)
 ○ 帝国議会議事堂の火災により、貴族院・衆議院両院の本館が焼失(1925)
 ○ 満州事変(1931)
 ○ 全日本学生自治会総連合(全学連)を結成(1948)
 ○ 蔵前国技館が落成、相撲博物館開館(1954)
 ○ 海老原博幸、ボクシング世界フライ級チャンピオンに(1963)

満州事変勃発
1931年(昭和6年)のこの日、中国・奉天郊外の柳条湖で、関東軍が満州鉄道の線路を爆破。

かいわれ大根の日
1986年(昭和61年)に日本かいわれ協会が、かいわれ大根の良さをアピールしようと設けた日。
9月18日としたのは、9月はその会合を開いた日、18日は8の字を横にして、1を立てるとかいわれ大根の姿(竹とんぼ型)になるためだという。

独立記念日
(チリ) 1817年、南米を植民地化していたスペインに対し、既に独立していたアルゼンチンを拠点としたチリ独立派の軍隊が蜂起、各地でスペインの王党派の軍を撃破し、1818年2月12日に独立宣言をした。

蘆花忌
小説家・徳富蘆花の1927(昭和2)年の忌日。

露月忌
俳人・石井露月の1928(昭和3)年の忌日。



清水次郎長(1820-1893)
講談でおなじみの清水次郎長が明治元年9月18日、勇気ある善行をしたことが伝えられています。

清水次郎長は、文政3年(1820)1月1日、静岡県清水市の船待船頭・雲不見三右衛門の子供に生まれ、長五郎と名付けられました。
しかし元旦生まれの子供はよほど偉くなるか悪い奴になるという言い伝えがあったため、叔父の山本次郎八の養子にされます。
そして次郎八の家の長五郎ということで、縮めて次郎長と呼ばれるようになったものです。

次郎長は初期の段階ではその「悪い奴」の方の芽が出ます。
あまりに手が負えないため15の時に次郎八から勘当され、19歳の時に見てもらった占い師が『あんたは25歳までしか生きられない』と言ったことから、では短く太く生きよう、ということでこの世界にのめりこんでいきます。
そして街道でも最も有力な親分の一人になりますが、その時に起きたのが森の石松事件でした。

時は万延元年(1860)、森の石松は次郎長の名代で讃岐の金比羅様にお詣りしますが、その帰り道、策略にあって都田一家に殺され、金を奪われます。
知らせを聞いた次郎長はただちに大政・小政らを連れて(相手の人数と合わせて同じ人数をピックアップして赴いたのも有名)仇討ちに行き、無事石松の無念を晴らすのですが、この結果次郎長の勢力範囲は三河まで広がることになりました。
この事件の顛末が講談で有名なところです。講談では石松の『江戸っ子だってねぇ。寿司食いねぇ』のセリフも有名です。

さて、慶応4年(1868)次郎長の人生を一変させる事件が起きます。

この年官軍は東海道をどんどん東進。やがて江戸では幕府軍と激しい戦闘が行われることが予想されました。
しかしこのままでは幕府は官軍の前に完全に打ち破られ、徳川家自体が消滅してしまうと幕府陸軍総裁・勝海舟は危機感を抱きます。
そこで彼は官軍の指導者の一人で旧知の間柄である西郷隆盛と連絡を取り、江戸城を官軍に無抵抗で明け渡す代わりに、徳川家に寛大な処置をしてくれるよう交渉しようと決意します。

そのため勝海舟は腹心の山岡鉄舟に密書を持たせて駿府まで来ていた西郷隆盛の元に派遣します。
そして、この鉄舟の護衛役を依頼されたのが街道の治安を事実上一手に管理していた次郎長であったのです。

この鉄舟とそれを支援した次郎長の努力は実り、この年3月13〜14日、勝海舟と西郷隆盛の直接交渉が実現。
江戸城は無血開城されることとなり、その14日、五ヶ条のご誓文が発表されて明治維新が始まります。

そしてこれを契機に始まった鉄舟と次郎長の交流は次郎長の人生観を大きく変えました。実は次郎長は明治維新を契機として侠客を廃業してしまうのです。

それを象徴するのがこの9月18日の事件でした(9月8日に明治と改元されている)。
この数日前、清水沖で幕府の艦船と官軍の艦船の激しい戦闘があり、幕府の誇る咸臨丸なども撃沈されて、多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮いていました。
哀れでもありますし、また漁の邪魔にもなったのですが、それに触れば官軍から睨まれそうで、漁民たちも手が出せずにいました。

そのことを聞いた次郎長はただちに子分たちを組織、港に浮かぶ遺体の回収作業をおこなって、丁寧に埋葬、石碑まで建ててやりました。
案の定官軍から文句を言ってきますが、次郎長は「死んだ者はみな等しく仏である。
官軍も賊軍も無い」と言って突っぱねます。結果的に次郎長にはお咎め無しになるのですが、その裏には山岡鉄舟のフォローもあったともいわれているようです。
あるいは逆に山岡が次郎長に依頼して回収させたのだという説もあるようです。

ともかくもこの事件で次郎長は地元の人々から大いに尊敬されるようになりました。

次郎長はその後、明治維新後の清水地区の発展にいろいろな貢献をしています。
三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、又蒸気船による海運会社の設立(後にこの船で静岡の茶が東京に出荷される)などの事績がありますが、中でも有名なのは富士の裾野の開墾事業でした。

この開墾事業では、次郎長自らも鍬をふるい、かつての子分たちも親分を慕って集まり、一緒に原野を耕して農地へと変えていきます。
そして、その次郎長が開墾した場所は現在では立派な茶畑となって、全国の家庭にそこで採れたお茶が届けられているのです。



横山大観(1868-1958)
日本画史上に燦然たる輝きを放つ大家、横山大観(出生名:酒井秀蔵)は明治元年9月18日、水戸市で生まれました(明治改元は9月8日)。
彼は典型的な晩年運の人です。

父の酒井捨彦は水戸藩士でしたが維新後商売を始めたものの失敗。
県庁職員を経て内務省の職員になったので一家は上京。
彼は東京大学の工科を目指して予備門を受けようとしましたが規則違反で失格。代わりに東京英語学校に入ります。
そして在学中に絵画に興味を持ち、日曜毎に洋画家渡辺文三郎の所に通って特に鉛筆画の勉強をしました。

1988年に母の親戚の横山クラの養子となって横山家を継ぎ横山秀麿を名乗ります。
そして1989年、日本美術学校設立の話を聞き、それに参加して第一期生となりました。
美校では橋本雅邦から高い評価を得ますが学科が悪かったため教官として残ることはできず共立美術館、京都美術工芸学校の教官を歴任します。
この京都時代に寺の住職との交友から「大観」の号を得ました。

1898年に岡倉天心が美校で弟子との対立から辞任する騒ぎになると天心に従って橋本雅邦ら16名の教官が辞任。
菱田春草や大観を含めたこのメンバーで、「日本美術院」が設立されることになります。
しかしこの頃の大観や春草の絵は世間には不評で絵も売れず苦しい時代を送ります。

大観はインド、アメリカ、ヨーロッパ、などを訪れ各地の絵画を見て刺激を受けて来ますが、帰国した頃には日本美術院は荒廃していました。
茨城県の五浦(いづら)に移転するも肝心の天心は忙しくて不在が多く、やがてその岡倉天心も1913年亡くなります。

しかしこの時期から横山大観は逆に幸運の風に乗るようになります。

大観や下村観山らを中心に東京美術院の再興が図られ1914年に第一回の院展を開催。
有力作家が参加して、賑やかなものとなり大いに注目を集めます。
そしてこの時期から大観の絵も高く評価されるようになり、大観自身にとっても、もっとも精力的に活動する時期が始まるのです。
この彼にとっての最盛期はだいたい1935年頃まで続いています。

1937年に文化勲章が制定されると竹内栖鳳と共に受賞。

昭和に入ってからの大観は国粋主義的な側面が出て、皇室にも度々絵を献上しており、秩父宮家創設の時に制作された「秩父霊峰春暁」などは特に記念碑的なものです。
1943年には日本美術報国会の会長になっていますが、このため戦後は戦犯として取り調べを受けたりもしました。

戦後は作品制作数は減ったものの円熟味を増し、静かな水墨画などを多く制作しています。

1958年2月16日逝去。その偉大な足跡に対して正三位勲一等旭日大綬賞を贈られました。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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