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9月19日 苗字の日、トークの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
サルビア
尊敬・燃える心・知恵・家庭の徳・すべてよし・家族愛・恋情○
スゲ        あきらめ・自重           ○
ツリフネソウ   安楽・私に触れないでください・詩的な愛○
マスタード     平静・無関心            ×

∞…∞ 9月19日・今日という日 ∞…∞

福田沙紀   (1990)  タレント
TOMOKA (西村朝香)   (1986)  ZONE、Vo. G.
服部美貴   (1984)  タレント
林 昌範   (1983)  野球
中村泰広   (1978)  野球
藤崎聖人   (1976)  漫画家 「ワイルドライフ」
朝日健太郎   (1975)  バレーボール
井之上チャル   (1975)  俳優
かずはじめ   (1971)  漫画家 「MIND ASSASSIN」「明稜帝梧桐勢十郎」
西川貴教   (1970)  歌手、T.M.Revolution
斉藤満喜子   (1970)  タレント、元おニャン子クラブ
今井由香   (1970)  声優
織田優成 (有馬克明)   (1969)  声優、俳優
モンキッキー (おさる)   (1968)  タレント、元 アニマル梯団
アレクサンドル・カレリン   (1967)  レスリング、政治家
ジム・アボット   (1967)  野球
高山善廣   (1966)  プロレス
野村謙二郎   (1966)  野球
島田歌穂   (1963)  女優、歌手
高橋美紀   (1961)  声優
克・亜樹   (1961)  漫画家 「ふたりエッチ」
土橋安騎夫   (1960)  元レベッカ
鶴田さやか   (1960)  女優
井田由美   (1957)  アナウンサー
今村良樹   (1957)  タレント、元ずうとるび
加藤久仁彦   (1956)  歌手、狩人
千葉 裕   (1956)  俳優
山口小夜子   (1952)  モデル
佳山明生   (1951)  歌手
君 夕子   (1950)  歌手
MALTA   (1949)  サックス奏者
一条ゆかり   (1949)  漫画家 「有閑倶楽部」
ツィッギー   (1949)  モデル
三村敏之   (1948)  野球
ジェレミー・アイアンズ   (1948)  俳優
平松政次   (1947)  野球
高信太郎   (1944)  漫画家
杉野昭夫   (1944)  アニメーション作家
内田勝正   (1944)  俳優
小野寺昭   (1943)  俳優
荒木とよひさ   (1943)  作詞家
佐藤勢津子   (1938)  歌手
ブライアン・エプスタイン   (1934)  マネージャー
安田 伸   (1932)  俳優、元クレイジーキャッツ
小柴昌俊   (1926)  物理学者
大城立裕   (1925)  作家
吉村道明   (1923)  プロレス
エミール・ザトペック   (1922)  陸上競技
加藤周一   (1919)  文芸評論家
井上光貞   (1917)  歴史家
沢田美喜   (1901)  社会事業家
小杉天外   (1865)  作家
矢田部良吉   (1851)  植物学者、詩人
狩野高信   (1740)  画家
平田典通   (1641)  陶工

 ○ パスカルの義兄ペリエが大気圧変化の実験に成功。これによりパスカルは大気圧の存在を実証できた(1648)
 ○ 太政官布告により、平民も苗字が許される(1870)
 ○ 正岡子規、没。享年35歳(1902)
 ○ ディズニー製作の、ミッキー・マウスが歌うトーキー・アニメ映画「蒸気船ウィリー」が完成(1928)
 ○ 初の臨時ニュースは満州事変の第一報(1931)
 ○ 人事院規制(公務員の政治活動制限)制定施行(1949)
 ○ 原水爆禁止日本協議会(原水協)結成(1955)
 ○ 巨人軍の長嶋茂雄三塁手が、一塁ベースを踏みわすれて幻の本塁打(1958)
 ○ 種子島宇宙センターで、初のロケット打ち上げに成功(1968)
 ○ 福島県いわき市で「モスクワ国立ボリショイサーカス」の雄のライオン1頭がオリから逃げているのを近くの住民が見つけ、地元猟友会員が射殺(1992)

苗字の日
1870(明治3)年、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許されたが、普及せず、このため1875(明治8)年2月13日に改めて、全ての国民が姓を名乗ることを義務づける布告がなされた。

子規忌,糸瓜忌,獺祭忌
俳人・歌人の正岡子規の1902(明治35)年の忌日。
辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。



YKK吉田忠雄(1908-1993)
1908年9月19日、YKKの創業者・吉田忠雄が富山県下中島村(現魚津市)に生まれました。
初め兄のゴム長靴屋さんを手伝っていましたが20歳のときに貿易商になることを志して上京、陶器の輸入会社に就職しますが、1933年の世界的な恐慌で会社は倒産してしまいます。

この時、この会社の倉庫に大量のファスナーがありました。
戦争が迫っていた時期、ファスナーは絶対売れると踏んだ吉田はそれを全部自分で買い取り、販売を始めました。
翌年1月にはサンエス商会を東京に設立、ファスナーの国内生産にも取りかかります。
これがYKKの前身です。

この会社は1938年に吉田工業と改名(正確に言うと1938吉田工業所,
1942有限会社吉田工業所, 1945吉田工業株式会社)、戦後の1946年にYKKの商標を使用開始し、1994年に社名もYKK株式会社に変更しました。

戦時中は順調に営業をしていましたが(1945年の東京空襲で工場が焼失するが、すぐに地元の富山に戻って再建)、1947年たまたま店を訪れたアメリカ人にファスナーの品質の悪い物があることを指摘されます。

工業製品というのは、ひとつ品質の悪い物があれば、それを買った人は全部の商品が悪いような言い方をします。
吉田は手作業で物を作ることの限界を認識しました。
3年後彼はアメリカ製のファスナー自動製造機を購入します。
当時の吉田工業の資本金が500万円であったのに、この機械は1200万円もしました。
しかし、彼はこれ以外生き残る道はないと決断したのです。

この賭けは成功し、YKKのファスナーは売れに売れました。1961年にはアルミ建材にも進出。
そのノウハウによりファスナー自体の品質も上がりました。

彼はカーネギーを信奉しており「善の循環」というのを常に言っていました。
「他人の利益をはかって、初めて自らも繁栄するのだ」という思想です。

それを最もよく表しているのがオイルショックの時のエピソードです。
彼は取引先の人たちを集めてこう言いました。

「我々が百億円の損失をかぶる。だからみなさんは出し惜しみや値上げはしないでほしい」

消費者に製品を供給するために、メーカーが泥をかぶらずにどこが責任を取るのか、というのが彼の哲学であったのでしょう。
こういう骨のある経営者というのも最近はなかなか見なくなりました。

1993年7月3日0時52分、肺炎のため死去。84歳。



岡田卓也(1925-)
イオングループ(旧ジャスコ)の実質的な創業者である岡田卓也は1925年9月19日三重県四日市市に生まれました。
最近は民主党前代表の岡田克也の父として名があげられる事も多いようです。
なお克也は次男で、イオングループは長男の元也が継いでいます。三男の高田昌也(母方の姓を継いでいる)は東京新聞・中日新聞の記者をしています。

岡田家は宝暦8年(1758)創業の老舗の呉服商で、岡田卓也氏はその七代目に当たります。
元は篠原屋と言いましたが、中興の祖である五代目惣右衛門(この家では跡取りは代々創業者の名前である惣右衛門を名乗る)が1887年に岡田屋に改称、その甥で六代目の惣右衛門(卓也の父)が1926年に株式会社に改組しました。

卓也は五人姉弟の末子で長男。父母が早くなくなったため店は主人不在のまま次女の千鶴子が卓也が成人するまでの「中継ぎ」として切り盛りしていました。
卓也は地元の旧制中学から1943年に東京の早稲田に進学。
在学中に招集され、和歌山から茨城で活動。
鹿島灘で米軍上陸に備えての迎撃(といっても既に武器が尽きているので事実上の特攻)訓練に明け暮れます。

終戦後、新宿東口に多数の露天商が並び賑わっているのを見て自分も早く家に帰って店を再興しなければと決意。
上官の命令を無視して帰郷。姉から店を引き継いで七代目に就任すると共に、空襲で焼けていた店を急遽バラック建て直して1946年3月に再興。
親族らで京都まで自転車で出かけて商品を仕入れてきて、軍払下げのベッドに戸板を置いた露台に商品を並べて売るという状態で営業再開しました。

元々は呉服商だった訳ですが、この時代は何でも売れる物は売るという方針で、特に子供たちに岡田屋の名前を覚えてもらおうというので文具に力を入れていたそうです。
また知名度を上げるため岡田屋の名前の入ったベンチを市内各地に寄贈したりもしています。
当時卓也氏はまだ早稲田大学に籍があり、週一度夜行列車で上京しては学校に出て、帰りは東京で多数商品を仕入れて戻ってくるという生活をしていました。

やがて1946年7月に「大売出」のチラシを新聞の折込広告として出します。
戦時中は物資が配給制だったため、このような概念は長く人々の心から忘れ去られていました。
当時新聞販売店も長く経験したことのないことで広告の料金を決めるのに悩んだといいます。
そして何よりもこのチラシを見た人たちは「そうだ。
戦争は終わったのだ」という事を今更ながら実感して感動したと伝えられています。

昭和20年代・30年代に掛けては岡田は斬新なアイデアの連発で新しい販路を開拓し、また集客の施策を打ち出しています。
県内各地に行商に出て知名度を高め、洗濯機が当たる抽選会を毎月行ったり自動車でパレードをしたりなど、積極的
かつ派手な戦略で店の規模をどんどん大きくしていきました。
また昭和30年代には四日市以外にも積極的に店舗展開をしたり違う営業形態の店を出したりもしています。

1966年2月21日、兵庫県のフタギおよびシロと提携して共同仕入機構を大阪に設立。
この名前は三社の従業員の公募で決定されJUSCO(Japan United Store COmpany)となりました。
また同年秋には東北地方の有力チェーン6社と提携して「東北ジャスコ」を設立しています。
そして1970年にはフタギなど数社と、1972年にはシロなど数社と合併。
1971年に会社名が「ジャスコ」になりました。

1974年9月には東京・大阪・名古屋の証券取引所に上場、1970年代後半には関東方面に積極展開。
千葉の扇屋や水戸の伊勢甚百貨店などを合併しています。
更に1980年代にはコンビニのミニストップ、レストランチェーンのロブスターなどを展開。
1989年には商売は時代に応じて変化していかなければならないという思想からグループ名を「イオン」に変更しました。
(2001年にジャスコ本体もイオンに改名)

岡田氏の信条は五代目惣右衛門が遺した「大黒柱に車をつけよ」という言葉で、商売が成り立つ所に積極的に店を移動して行くという方針です。
それも今賑わっている場所ではなく、これから賑わいそうな場所を狙うという方針で、岡田氏はそれを「狐や狸が出る場所に出店するのだ」とも言っています。
このことから、以前ジャスコは、店を出したら、どんなにそこが繁盛していても20年後には必ず閉店して別の場所に移動する、というおもしろい戦略を取っていました。
ひとつの商圏の寿命はその程度のものということなのでしょう。

日本のスーパーマーケット業界では、このジャスコをはじめとしてダイエー、ユニード、ユニー、ニチイ(後のマイカル)、ヤオハン、イトーヨーカドー、西友など、多くの企業が急成長を遂げましたが、その後ほとんどが行き詰まり、結局今無傷で残っているのは、今挙げた中ではジャスコとイトーヨーカドーとユニーの3社だけです。

ユニードはダイエーに吸収され、そのダイエーは現在再生機構入り。
西友はアメリカのウォルマートに買収されています。
そしてヤオハンとマイカルが事実上破綻したのを引き継いだのがイオンでした。ヤオハンはマックスバリュと改名して見事に再建され、マイカルもイオン配下で徐々に再建が進んでいます。
このため最近では岡田氏は「再建屋」の異名までもらうことになりました。

2000年5月には新しい世代の感覚に期待したいとして会長を退任。
経営からは離れており、イオン環境財団理事長として、木を植える運動などに取り組んでいます。

実はジャスコはかなり以前から緑化運動に取り組んできていました。
これは岡田氏の地元の四日市が深刻な公害に悩んでいたことが発端とされます。
戦火でも焼け残った自宅の松の木が枯れ、祖父が大事にしていた南天が実を付けなくなったりして深刻さを感じます。
1958年には樹木が枯れて空気の汚染から「人も通らない」と言われた70m道路に草花を植える活動をしたり、1965年には県外出店の第一号となった岡崎店の開店パーティーを取りやめてそのお金で桜の木を1000本寄贈したりしています。
1989年のイオングループ発足時にイオン1%クラブを設立してグループ内優良企業の税引前利益の1%を拠出して環境保全や文化振興などに取り組みはじめ、1991年にはイオン環境財団を発足させました。
それ以来植樹した木の数も日本や中国などで数百万本にも及んでいます。




ツィッギー(1949-)
1949年9月19日、元祖スーパーモデルともいうべき「ミニの女王」ツィッギーがイギリスはロンドン郊外の Neasden で生まれました。

本名は Leslie Hornby. ひじょうに指が細かったため、学校のクラスメートたちが「小枝ちゃん(twiggy)」と呼んだことから「ツィギー」の名前が生まれました。

学校を出たあと姉のビブが働く美容室で助手を務めながらデザイナーになる勉強をしていました。
そして自分の作った服をアピールするのに自らがモデルになってあちこちに写真を持ち込んだことから、彼女のファッションモデルとしての素質が目に留まるようになりました。

彼女の兄の知り合いのジュスタン・ド・ビルヌーブが有名美容室ビダル・サスーンに彼女を連れていき、髪を短く切らせました。
そしてミニスカートで売り出し中のマリー・クァントの所へ連れていったのです。
1964年のことでした。
ここにおいてミニスカートはそれを着るために生まれてきたような天性のモデルを得て世界的流行を作り出します。

ツィッギーは168cmと背が低いため、ファッションショーへの出演には声が掛かりませんでしたが、その細身の小柄な体にミニスカートやAラインの服はほんとによく似合いました。
あちこちの雑誌のグラビアを飾り、たちまち売れっ子になって当時人気絶頂のビートルズ以上の収入をあげたと言われます。
ショートカットの彼女には中性的な魅力もあり「アンドロギュナス(両性体)」とも呼ばれています。

ツィッギーは1967年10月18日、日本の繊維会社の招待で来日。
これをきっかけとして日本でもミニスカートブームが起きます。

当時のミニスカートの流行というのはほんとうに大規模なもので、町を歩く女性の9割以上がミニを履いており、ミニでない服を着るのが恥ずかしいくらいでした。
こういう徹底的な流行というのも今は起きなくなりました。

なお、ツィッギーはモデルは数年間で引退し、その後女優として「ボーイ・フレンド」(1971)などに出演しています。
歌手としてレコードも何枚か吹き込んでいます。
そして現在は2度目の結婚でレイ・ローソン氏と結婚し悠々自適の生活を送っているとのことです。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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